2019年7月14日 更新

フリーライター染谷悟とは?追っていたプチエンジェル事件と死の関係

ある事件を追っていたフリーライターの染谷悟は、事件発覚後のわずか2ケ月後に東京港で遺体となって発見されました。彼が追っていたのはプチエンジェル事件。政治家や皇族、三菱商事など大物人物が多く係わっていたと言われています。今回は、染谷悟と事件の概要を紹介します。

目次

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5日に雑誌編集者に電話が来た2日後の、2003年(平成15年)9月7日(日)には、染谷悟と思われる人物から友人へメールが届いていました。

「旅に出る」「何もかも嫌になった」というような内容でしたが、メールアドレスは友人が知っているものではありませんでした。しかし、染谷悟はしょっちゅうメアドを変える人だったと友人は述べており、あまり疑問には思わなかったようです。

確かに、いい年をした大人の男が、しばらく友人と連絡が取れなくなったとしても、ほとんどの人はそれほど気にしないでしょう。染谷悟に妻子がいたという話は聞かないので、独身の38歳、更に会社員ではなくフリーライターでは、数日間音沙汰が無いとしても、そこまで心配する人は少ないと言えます。

2003年9月12日東京湾で遺体が発見される

Japan Tokyo Twilight - Free photo on Pixabay (455347)

2003年(平成15年)9月12日(金)午前7時5分頃、通りがかったトラック運転手が、海に浮かぶ染谷悟を発見しました。東京湾とも東京港とも表記されているサイトがありますが、住所としては東京都江東区東雲2丁目の港です。

引き上げられた染谷悟は、全身黒っぽい服装で、靴下は履いていましたが靴は履いていませんでした。水を飲んでいなかったことから、溺死では無く、殺されて捨てられたということが判明したのです。先にも述べましたが、潜水士が使う重りが鎖で身体に巻かれ、手足も縛られていました。

背中に8か所以上の刺し傷や頭部を殴られた跡

Crime Scene Silhouette Body - Free vector graphic on Pixabay (455383)

染谷悟の遺体は、背中に8か所以上の刺し傷と、頭部を2か所殴られた跡が残されていました。彼が直前まで住んでいた短期契約の賃貸マンションには、血痕や争った跡が無かったことから、やはり何処か他で殺されたということが判明します。

身体に巻きつけられていた潜水士用の重りは、使い込まれた中古品で、2kgの重りが8個付けられており、巻き付ける為の鎖も合わせると、約22kgの重りを付けられていたのです。

遺体が浮かんでこないよう丁寧に重しを付けたわりに、皮肉にも染谷悟の遺体が浮かび上がってきたことで、わりと早めに発見されることになりました。

遺体が発見された場所は一般人が立ち入りできない場所だった

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染谷悟の無残な遺体が発見された場所は、セメント業者が船で荷揚げをする為の場所で、一般の人がほとんど立ち入ることは無い場所です。そもそもが関係者や土地勘がなければ、普通の人はそのような場所は知らないでしょう。

江東区は最近になって地価が上がり、中流階級や上級思考の人達が入り込んできている場所ですが、実はあまり治安が良いとは言い切れない場所です。チャイナタウン化している場所や、在日朝鮮人が住み着いている場所もあります。染谷悟殺人事件の5年後には、江東区のマンションで女性がバラバラにされた事件もありました。

話は少し逸れますが、セメントと言えば、北朝鮮絡みの関西生コンを思い浮かべる人もいるかもしれません。関西生コン関係者の大量逮捕や、辻元清美との関係なども全くマスコミが報道しないという意味では、やはりこの国の闇の一つと言えます。一見関係無いように見えますが、染谷悟の死やプチエンジェル事件にも、何かしら在日朝鮮人、在日韓国人も係わりがあるのではないか?ということは否定しきれないのです。

染谷は殺害される前に「殺される」と周囲に漏らしていた

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時期がハッキリとはしませんが、染谷悟は歌舞伎町のドキュメンタリー本を出す為の取材をしていた頃、またはプチエンジェル事件のことを調べ出していたせいか、「中国人に殺される」「中国人マフィアに狙われている」と、知人達に漏らしていました。

こちらも日本では全くと言っていいほど報道されませんが、中国は今現在もウィグル自治区や、チベット自治区という、イスラム教圏の国を占領し、人体実験や腎臓移植、そして人身売買を行っている国です。マフィアじゃなく、国家で行うような国なのです。

この国は戦後、ユダヤコミンテルンが暗躍し、自分達白人では目立つので、中国人や在日朝鮮人、在日韓国人を使って支配しているのです。当然、暴力団やマフィア系などが仕切る裏稼業には、これらの人達が相当数入り込んでいるのが実態です。彼らの常套手段で、「ハニートラップ」という方法がありますが、プチエンジェル事件の背後には確実に彼らの息が掛かっています。

プチエンジェル事件とは

Shibuya Intersection Skyline - Free photo on Pixabay (455418)

プチエンジェル事件とは、2003年(平成15年)7月17日(木)に、1人の男に監禁されていた当時小学6年生の女児4人が、隙を見て逃げ出し、近くの花屋に助けを求めたことで発覚した事件です。

警察が男の元に駆け付けると、すでに自殺しており、その後何故か報道や捜査はあっさりと終息してしまい、未だに語り継がれる事件なのです。

自殺した男は無店舗型の非合法な未成年デートクラブを経営しており、4人の女児はその為に部屋に監禁されていました。

非合法なデートクラブ

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援交は今や世間一般に知られる言葉となりましたが、最初にこの言葉が登場したのは、1996年(平成8年)です。この年「援助交際」という言葉が流行語大賞を取り、その後ポケベルや携帯が普及したことによって、一気に認知されるようになりました。小遣い欲しさに身体を売る女性は低年齢化が進み、小学生までが始めるようになってしまいました。

プチエンジェルとは、小学生から中高生までの女子を集めた、非合法のデートクラブの名称です。無店舗型経営で、風営法の届けは出していませんでした。実はこの部分にまず疑惑が湧くのです。裏業界は必ず、暴力団と警察が癒着しています。特に風俗や性産業、そしてパチンコなどは持ちつ持たれつなところがあるのです。

その為の風営法届けがあるのですが、プチエンジェルは届け出を出していません。大抵無許可で風俗系商売やギャンブル商売をすると、すぐさま摘発されるか、潰しにかかってくるものなのです。しかし、プチエンジェル事件は捜査がとてもあっさりと終了しました。このことから、警察も児童買春に関与している可能性が高いと言われても不思議ではないのです。

経営者は吉里弘太朗

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逮捕前に自殺してしまった犯人は、プチエンジェルを経営していたと言われる吉里弘太朗という男です。吉里は、女子高生を使って、小中学生の女子をスカウトさせていました。

事件発覚する4日前、小学6年の女児の家族から捜索願が出され、その2日後に4人の女児が行方不明と報道されます。ここでもまた不可思議なことに、その翌日に警察は吉里の逮捕状を請求していたのです。

事件発覚の前年、2002年(平成14年)3月に、吉里は女子中学生を買春した罪で逮捕され、執行猶予中ではありましたが、警察は何故すぐに吉里弘太朗に目星をつけることが出来たのでしょう。

小学生など未成年少女が多数在籍

Tokyo Woman Girl - Free photo on Pixabay (455475)

最近は、叱る親や大人が減りつつあり、ネットなどの情報共有も多いせいか、子供達が随分夜遅くまで街をうろうろしています。親が一緒でも、夜の9時過ぎに赤ちゃんや小学生などを連れ、居酒屋にいたりするような非常識な親も増えました。

核家族化や、母親も働く人が増え、母子家庭など片親の家も増えています。親が未熟過ぎるが故に、虐待やネグレイトの被害に遭う子供達もたくさんいるのが現実です。援助交際をする子供達は、大抵が家庭に問題が多いのです。

そのような中で、家出や夜遅くまでウロウロする少女達をターゲットに、吉里弘太朗は未成年者少女を集めて行きました。

カラオケから裸体撮影などの斡旋を行っていた

Undies Knickers Panties - Free vector graphic on Pixabay (455487)

先程も少し触れましたが、吉里弘太朗はなるべく若い子を集めようとしていたようで、自分では警戒されると思い、数人の女子高生をスカウトとして使っていました。

「いいバイトあるよ」などと女子高生が声を掛け、料金表のついたチラシを配っていたようです。内訳は、カラオケ5000円、下着提供1万円、裸の写真撮影1万円という割と高額な価格設定なのです。噂では、セックスが15万円という高額な価格設定もあったと言われています。

当時の援助交際の相場は、高くても2~3万円程度で、大抵は1万~1万5千円が相場でした。おじさんと一緒にカラオケに行くだけでも5000円という値段は、小学生にとっては魅力的なお小遣いだったのでしょう。残念ながら、あまり罪悪感や恐怖心を持っていた子は少なめだったと言われています。

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