2019年10月23日 更新

遠山美枝子とは?遠山美枝子の生い立ちや連合赤軍やリンチ事件の概要

学生運動から暴力革命を目指し始めた組織の1つが連合赤軍です。遠山美枝子もそのメンバーの1人でしたが、仲間内でのリンチの対象とされ、無残な死に方をしてしまいました。今回は遠山美枝子の生涯を通し、連合赤軍の正体や彼女が犠牲となったリンチ事件について紹介します。

目次

遠山美枝子について知りたい

Crowd Demonstration Flag - Free vector graphic on Pixabay (712970)

「パヨク」と呼ばれ、すっかり嘲笑される対象となってしまった新左翼や共産主義思想の言動は、今や反日工作員である特亜(中国、北朝鮮、韓国※在日含む)と、その背後に潜む共産主義思想者(コミンテルン:スパイ)であることがバレてしまいました。

しかし、共産主義という思想は、元々ユダヤ人が生み出したものです。国を持たない彼らは、他国に入り込んでは対立を煽り、いつしか国を乗っ取っていくのです。今でもユダヤ人は迫害されたと恨み事を吐きますが、実は正体がバレた時に追放されていたに過ぎません。ネットが普及した今、少しずつその正体を知る人は増えてきています。

古くはユダヤ教VSキリスト教から始まり、戦争や革命、暴動やテロに至るまで、背後には必ず資金や武器を提供するユダヤ人がいました。彼らは二元論と抱き合わせ法という思考で、必ず○○VS△△という対立をさせつつ、どちらにも扇動や援助を行うのです。
France French Revolution Civil War - Free photo on Pixabay (713192)

日本でも明治維新から革命は仕掛けられていましたが、元々が武士対武士の対決であり、政権交代をしただけだったということもあって、共産主義化を推し進めることは叶いませんでした。日本で共産主義者が力を付けることが出来たのは、戦後日本を統治したGHQのコミンテルン達のおかげです。

GHQは日本人弱体化計画である、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)によって、まずは日本人の愛国心を奪い、自虐史観によってアイデンティティを破壊しました。更に、スパイとして暴徒となった在日朝鮮人(韓国人)達を放置し、共産党を作り出したのです。また、政治犯として捉えられていた共産主義者達を、大学を始めとする教育界、行政、司法、マスコミなどに送り込み、洗脳工作を行って今もなお工作を続けています。

この洗脳が効果を発揮したのは、所謂団塊世代(S22~S24)に生まれた当時の子供達で、学生運動にのめり込んだのがこの世代なのです。今回紹介する遠山美枝子も、そんな洗脳工作から共産主義思想に染まり、人生を大きく狂わせていった1人と言えるでしょう。

遠山美枝子の生い立ち

Baby Foot Blanket - Free photo on Pixabay (712984)

遠山美枝子の人生は、とても少ない情報しか残されていません。若くして亡くなってしまったということもありますが、当時すでに未成年でも無く、無理やりとは言っても仲間の遺体遺棄を行っています。

また遠山美枝子も、女性革命家を目指していた上、組織の幹部達とも付き合いのあった存在だったことを考えれば、もう少し重要視されていても良かったのではないか?と感じざるを得ません。

ここでは、残された少ない情報の中から彼女の生い立ちを追い、遠山美枝子の人物像を探っていきます。

誕生日

Baby Birth Healthy - Free photo on Pixabay (712989)

遠山美枝子の短い人生は、箇条書きでの情報しか残されていません。その為、誕生日も1946年(昭和21年)生まれだということしか分からないのです。

皮肉なことに、死亡した時の状況などの詳細は残されているのですが、革命家になるまでの彼女の人生には何も残されなかったということが哀れでなりません。

やはり、遠山美枝子は共産主義者や革命家としても、警察や公安から注目を集めるような行動はしていなかったということが窺えます。

神奈川県横浜市生まれ

Yokohama Hikawa Maru Yamashita - Free photo on Pixabay (712991)

遠山美枝子の幼い頃の記録として残されているもので、生まれ年以外に分かっていることは、神奈川県横浜市で生まれたという出身地だけです。母親や近所の人達のみならず、同級生の証言なども見当たらず、幼少期の美枝子が一体どのような子であったかは分かりません。

彼女が生まれたのは終戦の翌年ですが、1945年(昭和20年)5月29日(火)、横浜市では白昼堂々アメリカ軍が大空襲を行っていました。焼夷弾(しょういだん)で、日本の家屋がどのように燃えて行くのかというデーター収集の為の空襲により、街は一瞬で焼け野原となったのです。

この大空襲により、横浜では約8千~1万人の死者が出たと言われていますが、美枝子が早生まれであれば、母親は空襲の最中に妊娠していた可能性も考えられるでしょう。

神奈川県立横浜緑ヶ丘高等学校卒業

Diploma Parchment Graduation - Free vector graphic on Pixabay (712995)

遠山美枝子の母親が焼け野原の中で娘を出産したのかは不明ですが、少なくとも戦後すぐの出産、育児はとても大変だったと言えるでしょう。

家庭の状況にもよりますが、女子に学問は不要という考えや、労働力としての子供という意識がまだ残されていた時代に、美枝子は高校進学をしています。恐らく勉強が好きで、母親も理解のある人だったのでしょう。

彼女が小学生2~3年生頃の1954年(昭和29年)に、ようやく高校進学率は50%を超えますが、それでも半数近くの子供達は高校進学をしていない状況の中で、遠山美枝子は神奈川県立横浜緑ヶ丘高等学校を卒業しました。ちなみにこの校舎も、空襲によって全焼していますが、美枝子が入学する頃に新校舎が出来ています。

明治大学法学部卒業

Graduation Cap Hat - Free vector graphic on Pixabay (712997)

遠山美枝子は、高校卒業後にキリンビールに就職します。しかし、彼女は働きながらも、明治大学法学部の夜学に進学しました。ここで彼女は、運命を変えてしまう学生運動と出遭ってしまうのですが、始めは純粋に勉学に勤しむつもりで入学したのでしょう。

しかし、遠山美枝子が入学した1965年(昭和40年)頃はすでに学生運動が盛んな頃の為、彼女がまともに授業に出ていたのか、そして卒業できたのかまでは分かっていません。戦後の学生運動も共産党や社会党が主導で扇動していましたが、学生のみならず、すでに教授達などにも共産主義思想者を送り込まれている状況です。

その為、学び問う学問ではなく、暗記メインで教科書や先生の言うことを疑うことの無いお勉強の得意なタイプほど、どっぷりと洗脳工作を受けて行きます。これは現在も変わっていません。特に共産主義思想の教師は、日本人洗脳の為に歴史や経済、法学部に多く潜入しているので、遠山美枝子も洗脳教育を受けていたと言えるでしょう。

美人でお嬢様風だった

Woman Female Back - Free photo on Pixabay (712999)

遠山美枝子は、美人でお嬢様風の女性だったと言われています。しかし、残されている写真を見る限り、美人とまでは言えません。目は一重であまり大きくなく、鼻もどちらかと言えば団子鼻で、平安美人というイメージです。

のちに彼女は、連合赤軍の幹部である永田洋子(ながたひろこ)に「女性らしさ」という部分で目を付けられ、リンチの対象とされてしまうのですが、この永田洋子と遠山美枝子の間には女性観についての認識が大きくズレていました。

永田洋子は、性を棄て中性的にならなければ、男以上の革命戦死になることは出来ないと考え、美枝子は現実の性から目を逸らさず、可能な限り女が体現出来ることを追及するのが人間らしさに繋がるという気持ちでいたのです。その為、美枝子は女性らしさを捨てる気は無かったのでしょう。女を捨て、なりふり構わず革命を目指していたという永田と比べてみれば、美枝子は可愛らしい女性だったのかもしれません。

父親が幼い頃に死亡している

Suicide Hangman Noose Death - Free photo on Pixabay (713003)

詳しい状況は不明ですが、遠山美枝子の父親は、美枝子が幼い頃に自殺して亡くなっていたと言われています。この話は、美枝子が集団リンチ中に告白したもので、長い間母子家庭だった為に苦労を掛けたと美枝子は話していました。

戦後すぐは、深刻な食糧・物資不足に加え、敗戦してしまったことによる、価値観の急激な変化に付いて行けなかった若者達の自殺、そして戦争責任などや未来に悲観しての自害など、戦争で生き残ったのにも係わらずこの世を去る人が増えたのです。

遠山美枝子の父親が一体何故自殺してしまったのかは分かりませんが、母親は戦後の混乱期に男手を亡くし、女1人で子供を育てることは、並大抵の苦労ではなかったでしょう。

夫は赤軍派最高幹部、高原浩之

Fence Freedom Prison - Free photo on Pixabay (713006)

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