目次
- 遠山美枝子について知りたい
- 遠山美枝子の生い立ち
- 誕生日
- 神奈川県横浜市生まれ
- 神奈川県立横浜緑ヶ丘高等学校卒業
- 明治大学法学部卒業
- 美人でお嬢様風だった
- 父親が幼い頃に死亡している
- 夫は赤軍派最高幹部、高原浩之
- 1972年1月7日、25歳で死亡する
- 遠山美枝子は革命家
- 共産主義者同盟赤軍派メンバー
- 重信房子と仲良しだった
- 1967年、佐藤訪越阻止羽田闘争に参加
- 1968年、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争に参加
- 1968年、王子野戦病院反対闘争に参加
- 遠山美枝子が死亡した、連合赤軍リンチ事件について
- 山岳ベース事件と呼ばれる
- リンチ大量殺人事件
- あさま山荘事件での逮捕がきっかけで判明
- 山中に山岳ベースと呼ばれる山小屋を建設
- 総括と呼ばれる取締りが行われた
- 12人が死亡する
- 連合赤軍とは
- 1971年から1972年に掛けて活動した
- 日本のテロ組織
- 共産主義者同盟赤軍派と、日本共産党神奈川県委員会で結成
- 毛沢東主義を掲げる
- 連合赤軍の総括について
- 総括の対象者は、連合赤軍のリーダーの森恒夫と永田洋子が決める
- 作業から外される
- 政治的な反省を迫る
- 長時間の正座を強要
- 暴力も行われた
- 暴力は1人対仲間全員のリンチ
- 自殺を試みた者もいた
- 死刑宣告で死ぬ者もいた
- 飢えや寒さで死ぬ者も
- アイスピックで刺された上、絞殺
- 遺体は埋められ、その場を放火
- 遠山美枝子以外に死亡した人物
- 尾崎充男
- 進藤隆三郎
- 小嶋和子
- 加藤能敬
- 行方正時
- 寺岡恒一
- 山崎順
- 山本順一
- 大槻節子
- 金子みちよ
- 山田孝
- リンチが行われた理由
- 永田洋子による嫉妬
- 外部の敵と戦えないもどかしさ
- 異なる両派がまとまらない
- 全員で共犯になるためのリンチ
- 連合赤軍のその後
- 5人のメンバーに判決が確定
- 森恒夫は東京拘置所で自殺、永田洋子は脳梗塞後に死亡
- 坂東國男は国外逃亡で指名手配
- 遠山美枝子の死亡は悲惨なものだった
恋愛事情があったのかは不明ですが、遠山美枝子は結婚していました。相手は、共産主義者同盟赤軍派で、政治局員という幹部の地位に付いていた「高原浩之」です。京都大学出身で、遠山よりも2歳年上の男でした。
高原に関する情報もほとんど見当たらないのですが、彼は政治局議長(リーダー)の塩見孝也が逮捕された後、実質的な最高幹部となり組織を動かしていたと言われています。しかし、1970年(昭和45年)6月8日(月)、高原は強盗、監禁、国外移送略取などの罪で逮捕されてしまうのです。その為、遠山美枝子がリンチによる無残な死を迎えた時も、高原は獄中にいました。
しかし、妻の死や獄中生活にも懲りず、高原が今現在も活動家として動いていることが窺える情報をネットで発見したのです。元赤軍派最高幹部の塩見孝也のお別れ会が2018年(平成30年)3月に開かれていましたが、その呼びかけ人の中に高原の名前もありました。このことから、服役生活はとうに終えているようですが、逮捕時の年齢を考えると今彼は75歳です。今、滅び掛けている共産党を支えているのは、この世代の人達が多いのは、未だ学生運動を忘れられないからなのでしょうか。
高原に関する情報もほとんど見当たらないのですが、彼は政治局議長(リーダー)の塩見孝也が逮捕された後、実質的な最高幹部となり組織を動かしていたと言われています。しかし、1970年(昭和45年)6月8日(月)、高原は強盗、監禁、国外移送略取などの罪で逮捕されてしまうのです。その為、遠山美枝子がリンチによる無残な死を迎えた時も、高原は獄中にいました。
しかし、妻の死や獄中生活にも懲りず、高原が今現在も活動家として動いていることが窺える情報をネットで発見したのです。元赤軍派最高幹部の塩見孝也のお別れ会が2018年(平成30年)3月に開かれていましたが、その呼びかけ人の中に高原の名前もありました。このことから、服役生活はとうに終えているようですが、逮捕時の年齢を考えると今彼は75歳です。今、滅び掛けている共産党を支えているのは、この世代の人達が多いのは、未だ学生運動を忘れられないからなのでしょうか。
1972年1月7日、25歳で死亡する
via pixabay.com
連合赤軍は、森恒夫がリーダーとなった共産党主義者同盟赤軍派、略して赤軍派と、永田洋子がリーダーとなった京浜安保共闘、略して革命左派という、2つの組織が合流して結成されました。
遠山美枝子は、赤軍派の中で唯一の女性として山岳ベースでの軍事訓練や、テロ作戦に参加する為、革命左派の榛名(はるな)ベースへとやってきたのです。しかし、当初唯一の女性で最高幹部の妻ということもあり、元々後方支援と称したプロバガンダや、救護活動程度しか活動をしていなかった遠山に対して、森を始め赤軍派は気を使い、遠山自身もまた積極的な参加意識は弱めでした。
その様子が、女性を捨てて革命戦士を目指していたと言われる、革命左派のリーダー永田洋子に目を付けられた上、森との主導権争いに利用されてしまうことになるのです。
遠山美枝子は、赤軍派の中で唯一の女性として山岳ベースでの軍事訓練や、テロ作戦に参加する為、革命左派の榛名(はるな)ベースへとやってきたのです。しかし、当初唯一の女性で最高幹部の妻ということもあり、元々後方支援と称したプロバガンダや、救護活動程度しか活動をしていなかった遠山に対して、森を始め赤軍派は気を使い、遠山自身もまた積極的な参加意識は弱めでした。
その様子が、女性を捨てて革命戦士を目指していたと言われる、革命左派のリーダー永田洋子に目を付けられた上、森との主導権争いに利用されてしまうことになるのです。
via pixabay.com
遠山美枝子は、連合赤軍という新組織を立ち上げる直前の1971年(昭和46年)12月3日(金)~7日(火)まで行われた、共同軍事訓練の最中から最後の時まで、永田に難癖を付けられました。当初、美枝子に優しかった森も、途中からは永田の意見に同調して彼女を徹底的に批判し始めたのです。
真の共産主義者に目覚めさせるという目的で、美枝子は先に亡くなってしまったメンバーの遺体を埋めさせられたり、自らの顔を腫れあがる程自分で殴りつけることを要求された上で、永田はその顔を鏡に映し、美枝子に見せつけるというおぞましい行為もしています。
遠山美枝子は、3日程柱に縛りつけられた状態で水も食事も与えられず、メンバーにも殴られた後、今度は逆エビ反りの形に縛り上げられたままの姿で、1972年(昭和47年)1月7日(金)、25歳という若さで死亡しました。
真の共産主義者に目覚めさせるという目的で、美枝子は先に亡くなってしまったメンバーの遺体を埋めさせられたり、自らの顔を腫れあがる程自分で殴りつけることを要求された上で、永田はその顔を鏡に映し、美枝子に見せつけるというおぞましい行為もしています。
遠山美枝子は、3日程柱に縛りつけられた状態で水も食事も与えられず、メンバーにも殴られた後、今度は逆エビ反りの形に縛り上げられたままの姿で、1972年(昭和47年)1月7日(金)、25歳という若さで死亡しました。
遠山美枝子は革命家
via pixabay.com
学生運動は当初、共産党や社会党などのコミンテルン達が主導し、学費の値上げ反対や、学生会館自治権の要求など、学生が喰いつきやすい運動から洗脳、扇動していきました。
今も組合活動のある組織で働く人や、学生などのサークル活動の勧誘などは「オルグ」という言葉を聞いたことがある人も多いでしょう。これは、共産主義者の勧誘に使われる言葉ですが、彼らは常に権力闘争の火種になりそうな場所に入り込み、洗脳や扇動を仕掛けていくのです。
遠山美枝子もまた、当初は流行りに乗ったという程度の軽い気持ちで、学生運動に参加していた可能性も否定出来ません。働きながら夜学に通う身分としては、学費の値上げに反対するのも当然と言えます。ここでは、彼女が革命家としてどの程度活動していたのか、残された情報から探っていきましょう。
今も組合活動のある組織で働く人や、学生などのサークル活動の勧誘などは「オルグ」という言葉を聞いたことがある人も多いでしょう。これは、共産主義者の勧誘に使われる言葉ですが、彼らは常に権力闘争の火種になりそうな場所に入り込み、洗脳や扇動を仕掛けていくのです。
遠山美枝子もまた、当初は流行りに乗ったという程度の軽い気持ちで、学生運動に参加していた可能性も否定出来ません。働きながら夜学に通う身分としては、学費の値上げに反対するのも当然と言えます。ここでは、彼女が革命家としてどの程度活動していたのか、残された情報から探っていきましょう。
宮城事件とは?畑中少佐を含めた事件の首謀者とその真相 - POUCHS(ポーチス)
第二次世界大戦時、皇居では終戦を告げる「玉音放送」を巡ってのクーデターが勃発していました。首謀者は陸軍将校と近衛師団参謀達で、中心人物は畑中少佐と言われています。今回は、日本人の命運を分ける可能性もあった「宮城事件(きゅうじょうじけん)」の真相を紹介します。
共産主義者同盟赤軍派メンバー
via pixabay.com
元々、共産党や社会党が主導して、全日本学生自治会総合連(全学連)が結成されたことから、学生運動が始まりました。しかし、何故か途中から主導者である両党が、暴力革命路線を放棄してしまった為、先鋭化した若者達は次々と新組織を立ち上げていくことになるのです。
それが新左翼と呼ばれる政治思想で、遠山美枝子が参加していた共産主義同盟赤軍派、略して赤軍派もまたそのような組織の1つでした。
今の共産党員や、旧社会党議員、元民主党議員などを見ていれば理解しやすいのですが、元々が暴力革命に心酔している人々ですから、自己顕示欲と支配力がとても強い為、少しの意見の食い違いも許せずに内部分裂を常に起こして行くのです。当然、自己反省をすることもありません。そのせいか、新左翼の組織はどんどん増えていくことになります。
それが新左翼と呼ばれる政治思想で、遠山美枝子が参加していた共産主義同盟赤軍派、略して赤軍派もまたそのような組織の1つでした。
今の共産党員や、旧社会党議員、元民主党議員などを見ていれば理解しやすいのですが、元々が暴力革命に心酔している人々ですから、自己顕示欲と支配力がとても強い為、少しの意見の食い違いも許せずに内部分裂を常に起こして行くのです。当然、自己反省をすることもありません。そのせいか、新左翼の組織はどんどん増えていくことになります。
重信房子と仲良しだった
via pixabay.com
遠山美枝子は1968年(昭和43年)~1969年(昭和44年)に起きた、明治大学の学費値上げ反対運動である「明大闘争」に参加していますが、この時1人の女性と知り合い友人となりました。
この女性はのちにパレスチナに渡り、世界中でテロを越した日本赤軍の最高幹部である女革命家「重信房子」です。指名手配されながらも、逃げ続けていた重信は2000年(平成12年)11月8日(水)に逮捕され、現在服役中の身となりました。
遠山美枝子の友人と呼べる女性は、重信房子以外には情報が無い為、彼女が学生運動にのめり込んでしまったのは、重信との出逢いが大きく影響を及ぼしたとも考えられるでしょう。
この女性はのちにパレスチナに渡り、世界中でテロを越した日本赤軍の最高幹部である女革命家「重信房子」です。指名手配されながらも、逃げ続けていた重信は2000年(平成12年)11月8日(水)に逮捕され、現在服役中の身となりました。
遠山美枝子の友人と呼べる女性は、重信房子以外には情報が無い為、彼女が学生運動にのめり込んでしまったのは、重信との出逢いが大きく影響を及ぼしたとも考えられるでしょう。
1967年、佐藤訪越阻止羽田闘争に参加
via pixabay.com
先鋭化した新左翼組織は、大学内の運動からついに反戦運動や反米運動を掲げ、反政府組織として闘争の場を広げていきました。現在の「パヨク」と化してしまった人達も、反戦や反米を叫んでいますが、真の目的は学生運動時代と変わらず、日米の離反工作と、中華人民共和国、または韓国、もしくは北朝鮮に日本を乗っ取らせたいという目的があります。
遠山美枝子も含め、当時学生運動に溺れていた団塊世代前後の若者達は、戦後生まれで戦争を知りません。しかし、幼少期は戦後の混乱期であり、食べ物や物資に困り、困窮した生活を経験した世代でもあります。戦争原因も自虐史観によって洗脳されてしまったと同時に、戦争を起こした親や祖父母世代に対する反抗期も伴って、ことさらに平和や反戦という言葉に反応してしまったのかもしれません。
遠山美枝子は、1967年(昭和42年)に起きた「羽田闘争」に参加しました。これは、ベトナム戦争中アメリカ軍が日本国内において、野戦病院や軍事基地を使用していたことを、当時の佐藤栄作内閣総理大臣が黙認していたことに学生達が反発し、佐藤首相がベトナム訪問する際、外遊阻止を目論み学生達が羽田空港に押し掛けた事件です。
遠山美枝子も含め、当時学生運動に溺れていた団塊世代前後の若者達は、戦後生まれで戦争を知りません。しかし、幼少期は戦後の混乱期であり、食べ物や物資に困り、困窮した生活を経験した世代でもあります。戦争原因も自虐史観によって洗脳されてしまったと同時に、戦争を起こした親や祖父母世代に対する反抗期も伴って、ことさらに平和や反戦という言葉に反応してしまったのかもしれません。
遠山美枝子は、1967年(昭和42年)に起きた「羽田闘争」に参加しました。これは、ベトナム戦争中アメリカ軍が日本国内において、野戦病院や軍事基地を使用していたことを、当時の佐藤栄作内閣総理大臣が黙認していたことに学生達が反発し、佐藤首相がベトナム訪問する際、外遊阻止を目論み学生達が羽田空港に押し掛けた事件です。
1968年、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争に参加
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同じくベトナム戦争に関係する反対運動として、1968年(昭和43年)に長崎の佐世保港に寄港する予定であった、アメリカの原子力空母「エンタープライズ」を阻止するべく怒った学生運動があります。
通称、エンプラ騒動とも呼ばれる、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争では、「日本がベトナム戦争の出撃基地となる」という理由を掲げていますが、反戦、反核、そして大々的な反米運動となったことから、派閥を越えて大量の学生や組織が佐世保を目指していました。
遠山美枝子もこの運動に参加したと言われていますが、佐世保まで足を延ばしていたのかは不明です。
通称、エンプラ騒動とも呼ばれる、佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争では、「日本がベトナム戦争の出撃基地となる」という理由を掲げていますが、反戦、反核、そして大々的な反米運動となったことから、派閥を越えて大量の学生や組織が佐世保を目指していました。
遠山美枝子もこの運動に参加したと言われていますが、佐世保まで足を延ばしていたのかは不明です。
1968年、王子野戦病院反対闘争に参加
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現在、東京都北区立中央公園となっている場所は、戦前陸軍が銃弾や兵器などを作る軍用地でした。東京第一陸軍造兵廠(とうきょうだいいちりくぐんぞうへいしょう)と呼ばれるその場所は、戦後アメリカに接収され、王子キャンプとも呼ばれるようになっていきます。
やはりベトナム戦争中のことですが、この王子キャンプ内に野戦病院が置かれたことで、1968年(昭和43年)学生達は、王子野戦病院反対闘争を起こしました。
遠山美枝子もまた、この闘争に参加したと言われていますが、どの運動でもゲバ棒(角材)を振り回したり、投石をするような暴力部隊としては参加していない可能性が高いです。
やはりベトナム戦争中のことですが、この王子キャンプ内に野戦病院が置かれたことで、1968年(昭和43年)学生達は、王子野戦病院反対闘争を起こしました。
遠山美枝子もまた、この闘争に参加したと言われていますが、どの運動でもゲバ棒(角材)を振り回したり、投石をするような暴力部隊としては参加していない可能性が高いです。
遠山美枝子が死亡した、連合赤軍リンチ事件について
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悲しいことに、遠山美枝子の人生で一番詳しい情報が残されているのは、山に籠り集団リンチ事件に巻き込まれながら死んでいった姿だけです。
この事件の発覚以後、今まで若さ故の熱さに対する寛大な声や、戦争に負け、アメリカに対して鬱憤を晴らしたい大人達の支持する声などもあった学生運動や新左翼組織の活動は、一気に批判の対象となり、衰退するきっかけにもなっていきました。
ここでは、遠山美枝子が死亡した「連合赤軍リンチ事件」について詳しく解説していきます。
この事件の発覚以後、今まで若さ故の熱さに対する寛大な声や、戦争に負け、アメリカに対して鬱憤を晴らしたい大人達の支持する声などもあった学生運動や新左翼組織の活動は、一気に批判の対象となり、衰退するきっかけにもなっていきました。
ここでは、遠山美枝子が死亡した「連合赤軍リンチ事件」について詳しく解説していきます。
山岳ベース事件と呼ばれる
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