2019年10月23日 更新

遠山美枝子とは?遠山美枝子の生い立ちや連合赤軍やリンチ事件の概要

学生運動から暴力革命を目指し始めた組織の1つが連合赤軍です。遠山美枝子もそのメンバーの1人でしたが、仲間内でのリンチの対象とされ、無残な死に方をしてしまいました。今回は遠山美枝子の生涯を通し、連合赤軍の正体や彼女が犠牲となったリンチ事件について紹介します。

目次

山に入っている間は元々食糧も乏しく、普段はすいとんや缶詰などを食し、インスタントラーメンが御馳走だったという程度のものです。

幹部だけが入れる炬燵と、他の者達が使うストーブはあったようですが、冬山に建てた簡易な小屋は隙間風が入るような場所でした。

そのような悪条件の中で、総括された者は罰として飲食を禁じられたり、外に出され放置されたりする為、栄養失調での衰弱死や、凍傷などによる凍死を迎えた者もいます。

アイスピックで刺された上、絞殺

Pick Ice Tool - Free vector graphic on Pixabay (715042)

処刑とされた者は、殴られるだけではなく、アイスピックやナイフで太ももや腕、胸などを全員から刺され、最後はサラシで首を絞められて殺害されています。

中には腹部を何度も殴られたせいで、内臓破裂の末に死んだ者もいました。森は死んだ者のことを「共産主義化出来ず、敗北死した」と罵っていましたが、自分が殺人者となってしまった言い訳を必死にしているようにしか見えません。

彼は前の組織で「リンチしないでくれ」という懇願をしたという小物です。それ故にことさら自分を大きく見せる為、総括を繰り返したのでしょう。しかし、これは森だけの思考ではなく、恐ろしいことに共産主義思想の者は、ほとんどが同じ言動を行います。

遺体は埋められ、その場を放火

Dirt Farm Garden Hand - Free photo on Pixabay (715045)

遺体は数人で穴を掘り、土の中に埋められてしまいます。何人かは遺体の埋め直しをする為に、穴を掘り返されてもいました。当然その仕事に、森と永田が参加することはありません。

アジトを嗅ぎつけられた場合、ベースを破壊し、その場を放火して立ち去ったりしていますが、遺体を火葬することまではしませんでした。

遺体は裸で埋められ、遠山美枝子は1人の遺体を運び、穴に埋める役もしていましたが、のちに自分も埋められることになるとは、この時までは考えてもいなかったことでしょう。

遠山美枝子以外に死亡した人物

Skull Frame Bone - Free photo on Pixabay (715049)

1971年(昭和46年)12月の上旬に共同軍事訓練が行われ、その後連合赤軍を結成し、榛名ベースに集結したのが12月下旬頃です。

総括はすぐに始まり、森と永田が逮捕されるまでの約1か月半程の間に12人が死亡しました。遠山美枝子は、5人目の犠牲者でしたが、最初の犠牲者は赤軍が合流してから3日も経たないうちに殺されているのです。

全ての発端は森と永田の主導権争いにあり、この2人が手を結んだことが悪夢の始まりとなってしまいました。ここでは、遠山美枝子以外に死亡した犠牲者を紹介していきます。

尾崎充男

Napkin Box Paper Tissue - Free vector graphic on Pixabay (715054)

尾崎充男(おざきみつお)は当時22歳で、東京水産大学出身の革命左派の構成員です。総括されたのは3番目ですが、尾崎が一番最初の死亡者となってしまったのです。

彼は1人目に総括させられてしまった加藤能敬(かとうよしたか)を殴る際、共産主義化の援助では無く「自分のことを小ブル(プチブルジョワ)と呼んだ」という個人的な罵倒を上げつつ殴ったということで、森恒夫から目を付けられてしまいました。

その為、総括はその件の反省として始まりましたが、森に殴られた後「親父さんありがとう」と言ったことで、甘えていると言われたり、総括中に「すいとん」と声を出した、「ティッシュを取って」と人を使おうとしたなど、次々と難癖を付けられた後に入口の鴨居に立ったまま縛られ、全員から殴る蹴るの暴行を受け続けたのです。2017年(昭和46年)12月28日(火)から始まった総括でしたが、尾崎充男はそれから3日後の大晦日にひっそりと死亡しました。

進藤隆三郎

Pray Plead Call Upon For Help - Free vector graphic on Pixabay (715057)

進藤隆三郎(しんどうりゅうざぶろう)は、当時21歳で日仏学院の出身で赤軍派の構成員です。森恒夫は、同じ赤軍派だったメンバーすらも、総括の対象として選びました。

共同軍事訓練から始まった森と永田洋子の主導権争いから、まずは遠山美枝子がターゲットにされ、その後何故か森は進藤ともう1人の赤軍派メンバーである、行方正時(ゆきかたまさとき)も総括を始めたのです。

進藤隆三郎は、以前付き合っていた女性が左翼主義者に理解の無い女性との問題から、森に目を付けられており、総括が始まると、赤軍派が行ったM作戦と呼ばれる銀行強盗襲撃事件の金目当てで赤軍派に近づいたなどの難癖を付けられました。1972年(昭和47年)1月1日(土)、進藤は集団で腹部を何度も殴られた後、外の木に縛りつけられてすぐに、内臓破裂で死亡しています。

小嶋和子

Tree Branches Fog - Free photo on Pixabay (715067)

小嶋和子は、市邨学園(いちむらがくえん)短期大学出身の当時22歳で、革命左派の構成員でした。彼女は、1971年(昭和46年)12月26日(日)から、加藤能敬(かとうよしたか)と共に総括の対象に選ばれてしまうのです。

元々よく相談や愚痴を聞いてくれる相手であった永田洋子に、小嶋が「就寝中、加藤に身体を触られた」という愚痴をこぼしたことが、何故か永田の怒りに火を点けることになります。

永田は「加藤の横に寝た小嶋も悪い」「神聖な我々の場所を穢した」という理屈を付けたことで、森もまたその理屈に乗り、初めて総括で暴力を受けたのが、加藤と小嶋和子だったのです。最後は外の木に縛られたままの姿で、1972年(昭和47年)1月1日(土)、小嶋和子は凍死して3人目の犠牲者となりました。

加藤能敬

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加藤能敬(かとうよしたか)は、当時22歳で、和光学園出身の革命左派構成員です。彼は榛名ベースに兄弟3人で参加していたのですが、1971年(昭和46年)11月に東京都府中市にあった「是政(これまさ)アジト」にて、1度逮捕されていました。しかし、不起訴処分ですぐに釈放された為、同年12月18日(土)に開かれていた同士の追悼集会に参加していたのです。

追悼集会は獄中にいた革命左派の幹部の指示で開かれたのですが、永田は獄中の幹部から主導権を奪う為に、2人の人員を派遣してトラブルの原因を作りました。加藤はそのことを問題とし、榛名ベースに合流した際に森と永田に「意見書」を提出したことで、森と永田のターゲットとなってしまいます。

しかし加藤は、アジトでの逮捕や取り調べ中に警察と雑談したということを、森と永田から激しく追及され総括されることになるのです。更に小嶋和子からの痴漢行為を告発された時、永田は小嶋と加藤がキスしているところを見たと嘘の告発までして、加藤に対する暴行の正当化を図りました。年末から9日間、加藤は暴行を受け続け、1972年(昭和47年)1月4日(火)、最後は外の木に縛られたまま、4人目の犠牲者となったのです。

行方正時

Night Good House - Free photo on Pixabay (715075)

行方正時(ゆきかたまさとき)は、当時22歳で岡山大学出身の赤軍派構成員です。彼は遠山美枝子、進藤隆三郎と共に、森のターゲットにされてしまった1人なのです。共同軍事訓練中、森と永田の主導権争いに利用されてしまった遠山美枝子批判以後、逃走した仲間をすでに2名も処刑していた永田達革命左派に対し、森はコンプレックスを持っていたのかもしれません。その為、身内である赤軍派内での総括対象としてこの3人を選んだのでしょう。

行方は、共同軍事訓練後から消極的態度などを森から追及され始め、1971年(昭和46年)の年末に榛名ベースにやってきた後も総括中でした。しかし、合流してみるとすでに尾崎が死んでおり、進藤や加藤、そして小嶋が殴られたり、外に立ったまま縛られている姿を見て、総括中だった遠山、進藤、行方の3人は恐怖に震えていたのです。

1972年(昭和47年)1月2日(日)、森が遠山に小嶋和子の遺体遺棄をして総括をしろという要求をされた際、行方も遺体遺棄を手伝って総括を認めてもらおうと手を上げました。しかし、その程度で森が許してくれるはずも無く、行方も背中や顔などに激しい暴行を受け、外に縛られ放置されています。そして、1972年(昭和47年)1月9日(日)、行方は誰にも注目されないまま、1人でひっそり死亡していました。

寺岡恒一

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寺岡恒一(てらおかこういち)は、当時24歳で横浜国立大学出身の革命左派の構成員です。永田、坂口弘(永田の事実婚の相手)と共に、革命左派の幹部でもありましたが、彼は森によって死刑宣告を受け、殺害されてしまったのです。

寺岡は1972年(昭和47年)1月14日(金)~17日(月)の間、新たなアジトを探す為、ベースを離れていましたが、森と永田はその留守中に、幹部内で寺岡の総括を決定していました。理由としては、小嶋和子の遺体を殴ったことや、遠山美枝子を縛り上げる際「セックス中のように足を開け」と発言したことが上げられ、寺岡が戻った17日(月)から総括が始まったのです。

森は寺岡を正座させたまま追及を始め、ナイフで両足を刺した後、今度はアイスピックで心臓や頸椎を突き刺しましたが、寺岡は中々絶命しませんでした。その為、最後にはサラシで首を絞められ、1972年(昭和47年)1月18日(火)、寺岡恒一は「革命戦士として死ねないことが残念だ」という言葉を残して死亡しています。

山崎順

Psycho Shower Stabbing - Free vector graphic on Pixabay (715082)

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