2019年10月23日 更新

遠山美枝子とは?遠山美枝子の生い立ちや連合赤軍やリンチ事件の概要

学生運動から暴力革命を目指し始めた組織の1つが連合赤軍です。遠山美枝子もそのメンバーの1人でしたが、仲間内でのリンチの対象とされ、無残な死に方をしてしまいました。今回は遠山美枝子の生涯を通し、連合赤軍の正体や彼女が犠牲となったリンチ事件について紹介します。

目次

元を正せば共産主義思想は、ユダヤ人のマルクスが生み出し、世界中にその思想を広めていき、ついにはソ連のスターリン、そして中華人民共和国の毛沢東へと踏襲されていきました。

元は同じですが、マルクス主義として世に広まった時の土壌はヨーロッパだった為、フランス革命以後は途中から平民も議会に参加出来るような議会制度が確立したことで、暴力だけに頼る必要が少なくなっていくのです。

次のレーニンも、マルクス主義を踏襲しつつ、やはり最初は暴力革命を謳っていたのですが、晩年は社会党との統一戦線などを行いました。しかし、毛沢東は終生「暴力革命」を掲げ共産化を進めます。連合赤軍は、この毛沢東主義に心酔していた為、暴力革命を目指していたのです。

連合赤軍の総括について

Pointing Accusation Accuse - Free image on Pixabay (715006)

連合赤軍の総括は「真の共産主義化」をさせることという、意味の分からない理由を付け正当化していましたが、森と永田は最初から12名のメンバーを許すつもりは無かったのでしょう。

どんな答えを出してもおかしな屁理屈を捏ね、正解を絶対に出さなかったことからも、気に入らない者は粛正するという毛沢東主義の恐ろしさを窺わせます。

ここでは、改めてどのような状況の中で「総括」が行われていたのか、詳しく解説していきます。

総括の対象者は、連合赤軍のリーダーの森恒夫と永田洋子が決める

Anger Angry Bad - Free image on Pixabay (715010)

始めは人数も少なく、銃や弾薬の欲しかった赤軍派の森恒夫が、革命左派を吸収した上で、自分がリーダーとなるチャンスを窺っていたことから始まった総括合戦は、革命左派が山に来る時に、水筒を持って来なかったという理由から始まりました。

これに負けじと、永田洋子が赤軍派の遠山美枝子の指輪や、会議中に髪の毛を梳かしたなどという、女性らしさを批判し続け、いつしか森と永田が気に喰わない相手を名指しして、総括の対象を決定するようになりました。

どれも難癖に近い理由ばかりで、総括に付き合わされていたメンバーも、最後まで意味は分からないまま、自分がターゲットにならぬようリンチを続けていたのです。

作業から外される

Desperate Sad Depressed - Free photo on Pixabay (715016)

総括の対象となった者は、自己批判をしつつ答えが出るまで糾弾されたり、作業から外される程度の懲罰を受けていました。しかし、所詮は山での逃亡生活中の為、作業と言っても具体的な革命行動に必要なものはありません。

せいぜい山を下りての買い出しや、新たに参加するメンバーの送迎、オルグや他組織との会合などがある程度で、後は食事の用意や、洗濯、ベースの解体や修繕などの日常的な作業しか無かったでしょう。

これでは作業を外された方が楽に見えてしまう為、森と永田も総括をエスカレートさせていったのかもしれません。

政治的な反省を迫る

Hand Finger Pointing - Free photo on Pixabay (715020)

分裂を繰り返して集まったメンバーですが、森は永田達の革命左派の元リーダーである「川島豪(かわしまつよし)」などが行った武力闘争なども批判し始めました。

これは、獄中から永田達に指示を続けていた川島と手を切らせる目的もあり、森は革命左派の全組織である「警鐘」「社学同ML(マルクス・レーニン)派」に至るまで、過去の活動を否定し続け、永田達にも反省を促していたのです。

内心は不服ながらも、永田が森に迎合するようになったせいで、他のメンバーも同意することしか出来ませんでした。

長時間の正座を強要

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総括の対象となった者は、過去の自分の言動を振り返りながら、過ちを反省し、真の共産主義化をするまで自己批判をし続ける必要があります。

反省を促されているのですから、当事者は正座で総括を受け続けるのですが、いつまでも許してもらうことが出来ず、ついには柱や外の木に両手足を縛りつけられてしまうのです。

遠山美枝子を含む数人は、逆エビ反りの姿で縛り上げられるなど、総括中の拘束はどんどん厳しくなっていきました。

暴力も行われた

Fist Rebellion Rebel - Free photo on Pixabay (715031)

森が総括で暴力を始めて使ったのは、1971年(昭和46年)12月26日(日)で、最初に殴られたのは加藤能敬(かとうよしたか)という男です。

この男は数日前から総括させられている身でしたが、当初は反省を述べたり、正座や食事抜きという懲罰で済んでいました。

しかし、まだ許されていない状況の中で、加藤は隣に寝ていた小嶋和子の身体を触ったということが判明した為、今までの総括では意味が無いと永田と森が言い始め、その日から暴力は正当化されてしまったのです。

暴力は1人対仲間全員のリンチ

Head Wireframe Face - Free image on Pixabay (715034)

森は「殴って気絶した後には共産主義化出来る」という理屈を述べ、総括する為に全員が暴力を振るうことは、相手を指導することでもあり、自分の弱さを克服する為だと全員に暴力を振るわせました。

その時は1人に対して、全員が殴ったり、蹴ったりするなどして暴行を加え、総括を繰り返していくのです。殴ることを躊躇する者にも「これは援助だ」と叱咤して、リンチに参加させるのです。

当初は顔だけでしたが、そのうち背中や腹、大腿部などを角材などで殴るようにもなっていきました。

自殺を試みた者もいた

Tongue Human Child - Free photo on Pixabay (715036)

繰り返し暴行を受け、飲まず食わずのまま外に縛られ放置されていた者の中には、あまりの辛さに舌を噛み切って自殺を試みた者もいました。

しかし、すでに衰弱した身体ではそれも叶わず、氷点下の雪山の中で自殺することも出来ないまま、ただ死の瞬間を虚しく待つだけだったのです。

最期の時を待ちながら、彼らは自分の人生を後悔したり、共産主義思想の洗脳を解くことが出来たのか、今となっては知る余地もありません。逮捕を恐れ山での逃亡生活をするよりも、大人しく獄中にいた方がマシな人生を送れたとも言えるでしょう。

死刑宣告で死ぬ者もいた

Hanging Rope Hangman - Free vector graphic on Pixabay (715038)

総括中の暴力では無く、森に「死刑」を宣告され殺されてしまった者もいましたが、これでは完全なる粛正です。森と永田は革命を目指して、時々街へ下りては仲間を増やすべく「オルグ(勧誘)」に出ていました。

しかし、一方で総括という名目を使っては、次々と気に入らない同士を死に追いやるという共産主義的な思考は、普通の人間にとって理解することは不可能です。

結局、森と永田はお山の大将を気取り、支配することの喜びを味わっていただけで、革命など本気では目指していなかったのかもしれません。

飢えや寒さで死ぬ者も

Skeleton Skull Bones - Free image on Pixabay (715040)

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