2019年7月20日 更新

通州事件とは?発生の原因や海外の反応・事件内容の嘘と真実も

通州事件の嗜虐的な犯行の原因と、その裏に隠された陰謀に迫ります。猟奇的な犯行の被害者は日本人でした。南京事件の証拠と言われている写真には、通州事件のものも多く使われているのです。日本を辱めようとする嘘を見破り、生存者の証言から通州事件の真実に触れていきます。

目次

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27日夕方、萱嶋連隊は南苑に急行しました。萱嶋連隊を支援するため、関東軍飛行第15戦隊所属の軽爆撃機が攻撃を開始しますが、宝通寺の717部隊と誤って隣接する冀東保安隊を誤爆してしまいました。

この誤爆により冀東保安隊は数名の死傷者を出してしまったのです。誤爆の報を受けた特務機関長の細木茂中佐は、取り急ぎ殷汝耕長官の元を訪れます。
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深く謝罪をすると共に、保安隊教導総隊に対し釈明と鎮静に努め、遺族に対しても弔問をしました。誤爆による事態の悪化を防ぐために奔走したのです。

細木茂中佐の誠意ある行動で事態は悪化することなく収束しますが、この誤爆が遺恨を残し通州事件の惨劇に繋がりました。

中華国民政府はラジオ放送でデマを流す

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事態を終息しようと翻弄する日本軍とは逆に、中国は反撃の準備を進めていました。その一つが南京放送からのラジオ放送でした。国民党はラジオ放送の中で、次のようにアナウンスをしたのです。

「盧溝橋で日本軍は第29軍に惨敗をした。豊台と廊坊は完全に中国が奪還した。日本軍の壊滅も近いだろう」いうものでした。これは国民党政府による、事実無根のデマ放送です。
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さらに「蒋介石委員長は近日中に第29軍を以って大挙冀東を攻撃する。その時こそ偽都通州の日本軍を屠(はふ)り、逆賊殷汝耕を血祭りにする」ともアナウンスしています。

国民党政府のデマとプロパガンダが、後の通州事件に大きな影響を与えました。通州事件は日本にとって許しがたい鬼畜の暴挙です。

しかし、中国側から見ると国民党軍の兵士を鼓舞したという意味で、プロパガンダとデマ放送が功を成したと言えます。

日本軍は天津地域を占領

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広安門事件の後、中国駐屯軍司令官の香月中将は、7月27日正午から総攻撃の決意を固めました。廊坊事件の後、中国側に要求した撤退の期限が7月28日の正午であったため、攻撃開始を7月28日午前8時まで延期しています。

天津では中国軍の攻撃を受けて、第2師団歩兵第79連隊が応戦をしました。7月30日までに、日本軍の猛攻で北平と天津地域一帯は掃討され、日本軍の支配下に置かれることになったのです。

しかし、これらの戦闘はあまりにもタイミングが良すぎました。一見すると日本軍の勝利に見えますが、この戦闘の裏で別の事件が進行していたのです。一連の軍事衝突の裏には、中国側の緻密な計算がありました。

1937年7月29日事件と同時期に天津中国軍は日本軍に反撃

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1937年7月28日、天津では第2師団歩兵第79連隊の5個小隊が守備を固めていました。そこへ中国軍が戦闘を仕掛けてきたのです。

兵力的には日本軍の方が不利でしたが、臨時航空兵団の活躍により中国軍の撃退に成功しています。この戦闘は同年7月30日、中国軍が後退をするまで続きました。

最終的に日本軍が天津を占領して終わりましたが、通州事件は1937年7月29日、この戦闘の最中に起きたのです。北平と天津での戦闘のため、通州は手薄になっていました。

通州事件の原因

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通州事件の原因は単純なものではありません。さまざまな事件や陰謀、そして遺恨がありました。それらが重なった結果、反乱だけに収まらず執拗な惨劇が起きたのです。

盧溝橋事件

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原因の一つに盧溝橋事件が挙げられます。通州事件の発端と言っても過言ではありません。国民党政府は日本軍からの攻撃を受けたと言い、日本軍は国民党軍から攻撃を受けたと言っています。

双方がお互いに、相手の方から攻撃を仕掛けてきたと言っているわけです。辻褄が合わない背景については、国民党軍と日本軍を戦わせて、お互いに遺恨を残すように共産党が仕組んだ陰謀という説があります。

事実、共産党のパンフレットには「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志の指導によって行われた」と書かれており、周恩来首相は「共産党軍が日本軍と国民党軍に発砲し、日本軍と国民党軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害した」と発言をしています。

日本軍守備隊の主力が留守であった

放棄されました 発電所 ホーム - Pixabayの無料写真 (480658)

通州事件があった1937年7月29日、通州の守備は手薄になっていました。通州の守備は主力部隊の歩兵第2連隊1200名が南苑に出兵しており、戦闘部隊としては通州警備隊49名が残ったのです。

その他に憲兵分遣隊や山田自動車部隊などもありましたが、山田自動車部隊は戦闘部隊ではないため軽装であり、憲兵分遣隊は拳銃しか所持していません。通州警備隊ですら小銃と手榴弾程度しかありませんでした。

日本側の守備は非戦闘部隊と合わせて120名ほどであり、中国側は4300名です。さらに中国側は重機関銃、軽機関銃、野砲、迫撃砲なども備えており、日本軍側は兵士の人数と装備で圧倒的に不利な状況でした。

反乱首謀者の張慶余が宋哲元と密約を交わしていたという噂

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「張慶余が宋哲元と密約を交わしていた」という噂も無視はできません。元々、張慶余は宋哲元と面識はありませんでしたが、哥老会がこの二人を結びつけたのです。

哥老会は哥弟会とも呼ばれ、明朝の失業軍人などによって組織された秘密結社です。張慶余と宋哲元は哥老会の会員でした。また、宋哲元は五虎将の一人と言われるほどの大物です。

宋哲元は哥老会・河北省支部の指揮者である張樹声(ちょうきせい)の内密な要請を受けて、張慶餘、張硯田と密会を果たしたのです。この密会と保安隊による通州決起が関連していることを張慶餘は言っています。

密輸やアヘン等の麻薬密輸に従事していたことが原因とも言われている

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