2019年7月20日 更新

通州事件とは?発生の原因や海外の反応・事件内容の嘘と真実も

通州事件の嗜虐的な犯行の原因と、その裏に隠された陰謀に迫ります。猟奇的な犯行の被害者は日本人でした。南京事件の証拠と言われている写真には、通州事件のものも多く使われているのです。日本を辱めようとする嘘を見破り、生存者の証言から通州事件の真実に触れていきます。

目次

通州戦闘詳報には「守備隊は全滅ス」と書かれていますが、全員が死亡して全滅したわけではありません。この戦闘は7月30日の午後、日本軍の偵察機が応援に来るまで続きました。

それまでの間、籠城戦で奮闘し、負傷した人たちもいるのです。通州事件で命は助かったものの、重軽傷を負った通州守備隊関係者の数は20名に及びます。

城内の敵3300名と城外の敵2000名に対し、非戦闘員を含む163名で応戦したのですから、いかに通州守備隊が勇猛果敢に戦ったのかが分かります。

Aircraft World War Ii Aichi - Free photo on Pixabay (483983)

電話線を切断され、さらに通信機が破壊された状態で、通州守備隊は外部との連絡を絶たれていました。これも張慶餘が率いる反乱軍の仕業です。

しかし、山田自動車部隊の積荷である弾薬が、次々と爆発炎上をしたのが不幸中の幸いでした。大爆発によって空高く登る黒煙は、24kmも離れた北京市からも見えたのです。

異常事態であると判断し、天津から日本軍の偵察機が飛来しました。繰り返される日本軍用機の低空飛行により、反乱軍はついに退散したのです。

日本居留民114名が保安隊に殺害される

Skull Bones Skeleton - Free photo on Pixabay (480595)

通州事件で犠牲になったのは、通州守備隊の関係者だけではありませんでした。民間人の犠牲者225名の内114名の日本居留民が、張慶餘が率いる保安隊第一小隊をはじめとする反乱軍の餌食になったのです。

その殺害方法は想像を絶するものであり、人間の成せることではありません。目を覆うほどの惨劇は、正に鬼畜の所業です。婦女子は強姦をされた後に凄惨な死を遂げ、妊婦は腹を蹴破られました。

老若男女が犠牲となり、子供も例外ではありませんでした。

朝鮮人111名が保安隊に殺害される

Skeletons Funny Hear No Evil Speak - Free photo on Pixabay (480594)

通州事件では111名の朝鮮人も犠牲になったのです。とは言っても、当時の朝鮮は国際法の手続きに沿って日本に併合されていたので、正確には朝鮮系日本人ということになります。

しかし、通州事件には朝鮮系日本人がかかわっているため、便宜上日本人と朝鮮人に分けて説明します。朝鮮人が中国人に同情をされていたなら、張慶餘の餌食にはならなかったでしょう。

朝鮮人の横暴ぶりが中国人に嫌われていたことと、朝鮮系であっても日本人であることから通州事件のターゲットになりました。朝鮮人が犠牲になったのは、自業自得とも言えるのです。

通州事件までに起こった事件・出来事について

Mark Marker Hand - Free image on Pixabay (497587)

通州事件は突発的に起きた暴動ではありません。事前に念入りな準備をした上で行われた反乱です。通州事件が起きるまで、日本と中国の間にはいろいろな事件や出来事がありました。

これらの事件や出来事は、通州事件を知る上で欠かせないことです。通州事件の惨劇が起こるまでの、日本と中国の間の事件と出来事を追いながら通州事件までの流れを見てみましょう。

1937年7月7日盧溝橋事件が勃発

Bridge Crossing Reflection - Free photo on Pixabay (480601)

盧溝橋(ろこうきょう)は北京西部に流れる永定河(えいていが)に架かる橋で、1192年に完成しました。北京市から約22km西に中国人民抗日戦争記念館があり、そこからさらに西へ850mほど進んだところです。

マルコポーロが「東方見聞録・第4章」の中で「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と書き記しており、西ヨーロッパではマルコポーロの橋と呼ばれています。

この歴史的な橋が日本で有名になったのは、日本と中国の間で起こった盧溝橋事件がきっかけです。1937年7月7日の午後10時40分頃、北京市郊外の盧溝橋で、中国国民党軍第29軍による日本軍への発泡が発端でした。
War Soldiers Marine Bataile Of - Free photo on Pixabay (485856)

日本軍は1937年7月6日と7日に、盧溝橋東北で演習をしていました。この演習の実施については7月4日の時点で中国側に通知をしています。

夜間演習中の午後10時40分頃、永定河堤防の中国軍が日本軍に対して実弾を発泡してきました。中国軍の発泡を受けて、日本軍は撤収をしています。

豊台部隊長は盧溝橋の中国兵に対し、不法行為を厳しく非難するとともに中国軍の撤退を要求しました。しかし、交渉中の8日午前4時過ぎ、中国軍は集結中の日本軍に対して迫撃砲や小銃で再び攻撃をしてきたのです。
Stahlhelm War Harmony - Free photo on Pixabay (485870)

中国軍の攻撃に対して日本軍は自衛のため応戦をし、龍王廟を占拠します。日本軍は蘆溝橋の中国軍に対し武装解除を要求しました。

午前9時半頃、中国側の停戦要求により停戦状態に入りますが、日本軍は油断することなく中国軍の行動を監視します。この戦闘で日本軍は数十名の死傷者を出し、中国側は負傷者60数名と死者20名の被害を出しました。

盧溝橋で起きた日本軍への発砲事件の背景には、当時の中国共産党・北方局書記であった劉少奇(りゅうしょうき)が絡んでいると言われています。劉少奇は、後に第2代国家主席になった人物です。
Borders Country Flag - Free vector graphic on Pixabay (485900)

劉少奇の指導により、秘密党員が陰謀工作を仕掛けた可能性が指摘されています。日本軍と中国国民党軍を戦わせて、中国共産党軍にとって後々有利な展開にしようとしたと言うものです。

盧溝橋事件のあった翌日の8日、中国共産党は日本に対する全面抗戦を呼びかけています。中国共産党軍が兵士に配布したパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志の指導によって行われた」と書かれていました。
Beijing China Tiananmen Square - Free photo on Pixabay (486569)

それだけではありません。中華人民共和国が成立した1949年10月1日、周恩来首相は「あの時、我が共産党軍が日本軍と国民党軍に発砲し、日本軍と国民党軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害した。

そのことが共産党に今日の栄光をもたらした」 と発言しています。

停戦協定が結ばれる

Hand Greeting Agreement - Free photo on Pixabay (480604)

7月11日午後8時、盧溝橋事件を受けて現地停戦協定が締結されました。これは松井-秦徳純協定と呼ばれ、責任者の処罰、中国軍の盧溝橋付近・永定河左岸からの撤退、抗日団体の取り締まりなど今後の保証、中国側の謝罪を織り込んだ停戦を主意とするものです。

しかし、現地停戦協定を締結しても、事態が終息へと向かうことはありませんでした。日本政府と中国政府は共に、停戦協定と並行して兵力の増員を押し進めたのです。これが後の事件に繋る大きな原因となりました。

1937年7月11日北支事変

City War Destroyed - Free image on Pixabay (480613)

北支事変というと聞き覚えのない人も多いでしょう。北支事変というのは支那事変のことです。また、支那事変は日華事変とも呼ばれていましたが、公式呼称ではありません。

盧溝橋事件が起きた場所は北支那(華北地方)です。北支那の盧溝橋で起きた衝突であり、日本と中国の全面戦争ではない、というのが日本政府の見解でした。

このような理由から日本政府は1937年7月11日、北支事変を公式呼称としたのです。同年8月に起きた第2次上海事変を期に北支事変という呼称は、同年9月2日の閣議で支那事変と改称されました。

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