2019年7月20日 更新

通州事件とは?発生の原因や海外の反応・事件内容の嘘と真実も

通州事件の嗜虐的な犯行の原因と、その裏に隠された陰謀に迫ります。猟奇的な犯行の被害者は日本人でした。南京事件の証拠と言われている写真には、通州事件のものも多く使われているのです。日本を辱めようとする嘘を見破り、生存者の証言から通州事件の真実に触れていきます。

目次

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事変とは国際法上の戦争ではないという意味があるので、宣戦布告はしていません。しかし、8月の第2次上海事変をもって、日本と中国は全面戦争へと突入したのです。

日本政府は1941年12月12日に、盧溝橋事件以降の対中国戦を含めて大東亜戦争と呼称しました。日本政府が中国に対し正式に宣戦布告をしたのは、太平洋戦争に突入してからです。

1937年7月13日大紅門事件

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停戦協定が締結されてから2日後の1937年7月13日、事件が起きました。北京の大紅門で日本軍のトラックが中国軍第38師に爆破され、4名の日本兵が死亡したのです。

大紅門は当時の北平南苑区に所在しており、現在は豊台区と改称しています。同じく13日、中国軍は上海租界駐留の日本軍にも攻撃を仕掛けています。

事件はそれだけで終わりませんでした。さらにその翌日の14日、日本軍騎馬兵1名が惨殺されるという事件が起きているのです。

1937年7月19日冀察政務委員会と日本とで停戦協定が締結

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中国共産党は7月15日に、国民党と共産党の協力による対日本全面抗戦を呼びかけました。これを受けて蒋介石は7月17日、「中華民国は力がないため進んで戦争を仕掛けてはいけないが、やむを得ない場合は徹底抗戦をする」と表明しています。

その後、中華民国政府は7月19日、国民党の第29軍代表張自忠を始めとする国民党関係者が、蘆溝橋事件を受けて締結された松井-秦徳純協定の細目の実施を申し出ました。
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細目の実施とは、共産党の策動を徹底的に弾圧すること、排日職員の取り締まり、排日団体の撤去、排日運動や排日教育を取り締ることでした。

その一方で、国民党は日本に対し、「盧溝橋事件に関することについては、地域レベルで決着を付けることは認めない」と通告をしています。

1937年7月25日廊坊事件

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1937年7月25日から26日にかけて、北京市近郊の廊坊駅において日本軍と中国軍の武力衝突がありました。これが廊坊(ろうぼう)事件です。

大紅門事件から7日後の7月20日、盧溝橋城と八宝山方面の部隊の一部が日本軍に銃撃を加え、これに対して日本軍が応戦するという事件がありました。

廊坊事件を受けて日本軍支那駐屯軍司令官は7月26日、陸軍参謀総長から武力の行使を認められます。日本軍は盧溝橋と八宝山の部隊に関しては27日正午まで、北平城内兵と西苑部隊に関しては28日正午までを期限とし、第29軍に退去勧告を出しました。

1937年7月26日広安門事件

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1937年7月は日本と中国の間に多くの衝突事件がありましたが、7月26日にも日本軍に対し挑発的な広安門事件が発生しています。この時、北京城内には中国軍2個師団に対し、日本軍は100名しかいませんでした。

戦力差を縮めるため、盧溝橋方面から1個大隊を北京に帰還させました。日本と中国の緊張が強まる中、7月入ってからいくつもの軍事衝突が起きています。

その都度、事件の拡大を防ぐために奔走しており、ここでまた軍事衝突が起こると事態の収拾は困難になります。そのため、日中両軍に自重するように厳重な申し入れをしていました。
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しかし、日本軍が広安門を半数ほど通過した時点で城門が閉ざされ、日本軍は城内と城外で分断されたのです。この時、城外に残された半数の日本軍部隊は、城壁の上から攻撃を受けています。

日本軍も城壁の内外から応戦をしますが、中国軍は射撃の他に手榴弾での攻撃も行いました。この戦闘で日本側の死者は2名で負傷者は17名に及び、その内の一人は桜井顧問に同行した通訳でもう一人は新聞記者でした。

1937年7月26日日本は第一次北支事変費予算案を閣議決定

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参謀本部作戦第1部長であった石原莞爾(いしわらかんじ)は、「対ソ連戦を見据えて満州を強化するべきであり、中国の兵を増員するべきではない。全面戦争を回避するため、派兵をせず不拡大でいきたい」と主張していました。

反対に、中国派兵に積極的な姿勢を見せていたのが杉山元(はじめ)陸軍大臣です。杉山陸軍大臣、梅津美治郎(うめつよしじろう)陸軍省次官、田中新一軍事課長などの強硬派が多数を占めていたのです。

近衛文麿(このえふみまろ)首相は事件不拡大に期待を寄せますが、勢力的には難しい状況でした。1937年7月7日の盧溝橋事件後に支那事変が発生しましたが、同年7月9日に第1次近衛(このえ)内閣は不拡大方針を閣議で確認します。
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閣議決定ではなく閣議で確認です。閣議で確認とは閣議了解であり閣僚全員の署名を必要としますが、閣議決定の方が重い意味を持ちます。

しかし、蒋介石が新たに4個師団を派兵しているとの知らせを受けたことで7月11日、北支派兵声明を発表しました。北支派兵とは、内地三個師団を中国に派兵するというものです。

近衛文麿(このえふみまろ)首相は北支派兵声明を発表しながらも事件不拡大を唱えます。しかし、7月17日には1000万の予備費支出、7月26日には9700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議決定しました。
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さらに7月31日には4億円超の第二次北支事変費予算を追加します。事件不拡大を唱えながら、それとは反対の行動をとっていたのです。

この状況を心配した石原は7月18日に入ってから杉山に「日中戦争に突入すると底無し沼にはまる。北支の日本軍全体を山海関の満支国境まで引き下げ、近衛首相が自ら南京で蒋介石と膝詰めで談判する」と提案をします。

杉山と梅津は「近衛首相は自信があるのか。近衛首相に気迫はないだろう」と返しました。当時、近衛自身は首脳会談に積極的であり、南京行きの飛行機の手配も済ませていたのです。
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しかし、直前になって蒋介石との首脳会談を断念しています。8月9日に上海で大山事件が発生し、日中両軍による戦闘が開始されたことを受け、8月13日に近衞内閣は二個師団追加派遣を閣議で決定しました。

8月15日に入ると海軍は南京に渡洋爆撃を開始します。近衞は「今や断固たる措置をとる」との断固膺徴声明を発表し、同年8月17日に「不拡大方針を放棄する」と閣議決定しました。断固膺徴とは討ち懲らすということです。

しかし、同年の7月26日には9700万円余の第一次北支事変費予算案を閣議で決定していることから、1937年の7月26日には不拡大方針への期待は薄れていたと言えるでしょう。

1937年7月27日関東軍による冀東保安隊への誤爆

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廊坊事件の後日本側は宝通寺に駐屯する国民革命軍第29軍717部隊に対し、1937年7月27日午前3時までに武装を解除して北京へ撤退するよう要求をしました。

しかし、要求を聞き入れなかったばかりではなく戦闘準備を進めている様子が伺えたため、日本軍の萱嶋連隊は同月27日午前4時に攻撃を開始したのです。

戦闘は数時間で終わりましたが日本側は11名の戦死者と多数の負傷者を出しました。その後、萱嶋連隊は、北京郊外の南苑にて起きている戦闘の援護に向かうよう命令を受けます。

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