2019年7月20日 更新

通州事件とは?発生の原因や海外の反応・事件内容の嘘と真実も

通州事件の嗜虐的な犯行の原因と、その裏に隠された陰謀に迫ります。猟奇的な犯行の被害者は日本人でした。南京事件の証拠と言われている写真には、通州事件のものも多く使われているのです。日本を辱めようとする嘘を見破り、生存者の証言から通州事件の真実に触れていきます。

目次

通州事件の概要

Telescope By Looking View - Free photo on Pixabay (497582)

中国の北京市から車で東へ30分ほど、距離にして約24kmの位置に通州区があります。1900年代の通州と言えば、北京の次に繁栄を極めた都市です。

1937年7月29日、この通州区で中国人により、朝鮮系を含む日本人居留民200名以上が虐殺されるという凄惨な事件が起きました。

強姦した後に腹を割いたり、首を切り落としたり、嗜虐的な虐殺が繰り広げられたのです。老弱男女の区別なく、日本人だけがこの嗜虐的な事件の被害者となりました。これが、通州事件です。

通州虐殺事件とも呼ばれる

Background Blood Stain - Free image on Pixabay (479186)

通州事件は、その凄惨さから通州虐殺事件とも呼ばれています。妊婦の腹を蹴破ったり眼玉をえぐり取ったり、およそ人間とは思えない猟奇的な犯行手口でした。正に鬼畜の所業です。

日本では中国によって捏造された南京事件だけが騒がれ、中国人により行われた通州事件は影を潜めています。通州事件の獣性むき出しの犯行手口は、南京で日本兵が行ったとされている残虐な手口に酷似しているのです。

通州事件で行われた嗜虐敵な手口は、中国では決して珍しいものではありません。南京大虐殺の証拠だと言われている凄惨な写真の中には、この通州事件の被害者のものも多いのです。

事件前夜日本人居留民宅に印をつけて回る

Front Door Letter-Box Slot - Free photo on Pixabay (480508)

事件前夜、中国人は日本人宅のドアに印を付けています。このことから突発的な事件ではなく、計画的な犯行であることが分かるのです。通州には日本人の他に、当然ながらたくさんの中国人も住んでいました。

その中から日本人宅だけを見つけてドアに印を付けるのですから、念入りな準備が進められていたのは間違ないのです。中国人が進めた準備は、それだけではありませんでした。

通州事件の当日は電話線も切断されており、外部との連絡も取れなくなっていたのです。

反乱の首謀者は保安隊第一総隊長の張慶餘

Monk Portrait Chinese - Free photo on Pixabay (480528)

鬼畜の所業である通州事件を率いたのは、冀東防共(きとうぼうきょう)自治政府保安隊・第一総隊長の張慶餘(ちょうけいよ)です。張慶餘の生年は1895年なので、通州事件の時は42歳でした。

張慶餘が率いる第一総隊は2000名の規模であり、重機関銃や野砲の他、騎馬部隊なども整っている精鋭部隊です。他に張慶餘は教導総隊の副総隊長も努めていました。

教導総隊の総隊長は殷汝耕(いんじょこう)でしたが名目だけで、事実上は張慶餘が教導隊の隊長です。教導総隊幹部訓練所は1300名の規模でした。
Asia Temple China - Free photo on Pixabay (483409)

張慶餘は北京模範団歩兵科を卒業後、国民革命軍・第51団長になっています。1933年5月31日に中国河北省塘沽(タンクー)で、塘沽協定が締結されました。塘沽協定とは日本と中国の間で結ばれた停戦協定のことです。

停戦協定が結ばれたことにより冀東は非軍事区画となり、河北特種員警部隊が組織されました。この時、張慶餘は、河北特種員警部隊の第一総隊長に任命されています。

1935年に河北特種員警部隊は河北保安隊と改称され、同年の11月に冀東防共自治委員会が成立すると再び冀東保安隊と改称しています。
Skull Helmet Wartime - Free image on Pixabay (483323)

張慶餘は引き続き第一総隊長を努めながら保安処長を兼任しましたが、1936年春に劉宗紀(りゅうそうき)が保安処長に就任すると、張慶餘は第一総隊長専任に戻りました。

治安を守る保安隊の総隊長が、凄惨な通州事件を率いた鬼畜だったのです。

中国人部隊が日本軍および日本人居留民を襲撃・殺害

Man Dead Death - Free image on Pixabay (479213)

1937年7月29日深夜3時過ぎ、通州警備隊歩兵小隊長の藤尾中尉は1発の銃声を聞きます。その後さらに1発から2発の銃声が響きました。中国人部隊による、通州の日本人居留民200名以上の虐殺が始まったのです。

虐殺を行ったのは張慶餘が率いる保安隊第一総隊をはじめ、保安隊第二総隊と教導総隊です。保安隊は第一総隊から第五総隊で編成されていましたが、第四総隊と第五総隊は天津に分駐していました。

第一総隊2000名と教導総隊1300名は通州城内に配備され、張硯田(ちょうけんでん)が率いる第二総隊2000名と警備大隊500名は通州城外に配備されていたのです。
Jiayuguan City Gate Tower - Free photo on Pixabay (483662)

城門は一度閉じられましたが、深夜に再び開放されました。その時に第二総隊の半数である1000名が通州城内に押し寄せたのです。一時は反乱を企てた中国人部隊4300名が通州城内にいたと言われています。

一旦は城内に入った第二総隊ですが、城外を警護するため城内から出ました。それでも城内の鬼畜は3300名にも登ります。一方、通州城内にいた日本側の武装部隊は、藤尾小隊長が率いる警備隊49名だけです。

この他に山田正輜(まさし)重兵大尉が率いる山田自動車部隊53名も城内にいましたが、本来の任務は輸送です。山田自動車部隊は軽装備のため、戦闘部隊としては見なされていませんでした。

通州特務機関は10近く殺され壊滅

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戦闘詳報は、午前3時半頃には張慶餘が率いる反乱軍が、2階建ての警備隊本館と兵舎を完全に包囲していたと記録しています。コンクリートの壁に砲弾を撃ち込み、陥落するのも時間の問題となっていたのです。

保安隊の主力部隊が守備隊本館を襲撃している間に、反乱軍の別部隊は午前3時頃、冀東政府長官公署を襲っていました。冀東政府長官公署では無抵抗の殷汝耕(いんじょこう)長官が拘束され、張慶餘に身柄を渡されています。

午前3時半時頃に特務機関が襲撃され、午前4時頃には憲兵隊や領事館警察署も襲撃を受けて陥落しました。張慶餘が率いる反乱軍の襲撃により、10近くに及ぶ日本側の特務機関が壊滅をし、日本人が殺害されたのです。

通州守備隊は死者20名

Skulls Genocide Murder - Free photo on Pixabay (479180)

張慶餘が率いる反乱軍に対し、通州守備隊は非戦闘員を含む163名で応戦しました。しかし午前4時過ぎ、奮戦虚しく通州守備隊は壊滅したのです。この激戦の中で、通州守備隊は20名の死者を出しました。

通州守備隊関係者の合計死者は、山田自動車部隊の7名と憲兵隊1名、警察官などを含む32名です。生存者である兵站司令部の辻村憲吉中佐は、通州戦闘詳報に被害を記録しています。

報告書には「通州守備隊、藤尾中尉以下数十名全滅。通州特務機関、細木中佐以下13名全滅。居留民約380名中、約250名以上惨殺。居留者で生存者はわずか3名のみ」と記されています。

重軽傷者20名

Burglary Glass Blood - Free photo on Pixabay (480585)

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