2019年3月26日 更新

ブリカスの意味と歴史背景は?阿片戦争と海外の反応は?

「ブリカス」という言葉と意味をご存じですか?イギリスの帝国主義、阿片戦争、またそれに対する海外の反応などを通して歴史について学んでいきましょう。

負の歴史と見直そう

Monastery Cloister Abbey - Free photo on Pixabay (114495)

「学校では教えてくれないアメリカの歴史」という、ハワード・ジンの書いたアメリカ史があります。インディアンの虐殺からはじまってイラク戦争まで、アメリカの行ってきた侵略と蛮行の歴史を書いたものです。オリバー・ストーンのアメリカ史まで、最近は自国の「負の歴史」を見なおそうとする歴史の本が増えてきましたね?

歴史というものは、いわゆる「きれいごと」を教えてしまうものでしたが、そうしたきれいごとではなく真実に目を向けてみようという歴史の本が増えてきました。

また「アラブから見た十字軍」アミン・マアルーフのように、キリスト教の側じゃなくアラブ側から見た十字軍の歴史など、最近は歴史を相対的に見ようという動きが盛んになってきました。

人はどうしても自分に都合よく、物事を解釈しがちですが、都合の悪いところを直視しない限り、いくら戦争反対を叫んでもまるで無意味でしょう。

特に欧米のように影響力の大きな国ほど、自国に都合のいい歴史観が流布しているものです。

それではかつての大英帝国、イギリスはどうであったのかを見ていきましょう。

ブリカスの意味と語源

Buckingham Palace Queen - Free photo on Pixabay (115391)

「ブリカス」とは、イギリスの帝国主義政策に対する蔑称です。
「ブリカス」とは「ブリテン」と「カス」という蔑称の、合成語です、もともとは歴史系のネットの版から出てきた言葉です。

イギリスがブリカスと呼ばれる理由

London Buckingham Palace - Free photo on Pixabay (115467)

イギリスが、その植民地政策、帝国主義で汚い手段をとってきたために、そのように言われます。

ブリカスって言われても仕方がない?ブリカスの悪行6選

London Parliament England Ben - Free photo on Pixabay (115663)

それでは評判の悪い、イギリスの帝国主義政策についてみていきましょう。

阿片戦争

Tree Summer Beautiful - Free photo on Pixabay (116940)

阿片戦争とは1840年から二年間続いた、イギリスと中国の間でおきた戦争です。

当時、イギリスは植民地であったインドの生産品でいわゆる三角貿易を行っていました。
 中国→(絹、陶磁、紅茶)→イギリス
 イギリス→(綿製品)→インド
 インド→(阿片)→中国
これが三角貿易です。

イギリスにはこれといった生産品がなかったので、インドで栽培した阿片を商品化して中国に売りつけていたのです。
そして、専売制にして政府が管理しました。
また、毒性のある嗜好品なので国内消費には規制をかけました。危険と知りながら、高級な嗜好品として売りさばき、イギリス商人は巨額の富を得ました。

イギリスはインド各地を徹底的に調査し、中国人好みの阿片の製品化に成功しました、
・品質管理・市場調査・ブランド・新製品の開発 に力を入れて阿片の商品化に成功したのです。

阿片は贅沢品で、まず中国の上層階級から広がっていきました。清政府は禁令を出しましたが、瞬く間に広がっていきます、ついに林則徐が強硬政策をとり、これに抵抗したイギリス商人との間に起きたもめごとを発端とし、阿片戦争ははじまりました。
Hong Kong Sea Ship - Free photo on Pixabay (117743)

イギリスに降伏した中国は南京条約を結びます。
・香港島の割譲
・巨額賠償金の支払い
・関税の自由化
・五港の開放、外国人の居住権など

こうした不平等な条約に、アメリカ、フランスが便乗していきます。諸外国も殺到します、ロシア、ベルギー、ポルトガル・・抜け目がないのです。

アイルランド侵略

Tourmakeady Ireland Landscape - Free photo on Pixabay (117948)

アイルランドというと、難解な「ユリシーズ」のジェイムズ・ジョイス、また詩人のW.B.イェイツといった文学者を連想される方もいるかもしれませんね。
イェイツの言葉に「人は自分には理解できないもの、恐れるものを破壊する傾向にある」というものがあります。

まさにアイルランドはイギリスにとって宗派の違う、「理解できない」「恐れる」存在であったので、侵略、ホロコーストの憂き目にあったのでした。イギリス帝国主義の発端は、まずアイルランドから始まります。

1649年8月、クロムウェルを司令官とする軍隊はダブリンに上陸し、多くのアイルランド住民を虐殺しました。カトリック地主の土地が大量に没収され、それらの土地はプロテスタント地主の手に次々と渡り、アイルランドの植民地化は進んでいくのす。

イギリスのアイルランド侵略は、ダブリンを拠点としてそこからさらに西方のアメリカ大陸、西インド諸島への勢力拡張につながりました。

三枚舌外交

無念無想 on Instagram: “#映画 #映画鑑賞 #アラビアのロレンス ピーター・オトゥール アレック・ギネス アンソニー・クイン ・ 実在のイギリス陸軍将校のトマス・エドワード・ロレンスが率いた、オスマン帝国からの#アラブ独立闘争(アラブ反乱)を描いた歴史映画であり、#戦争映画…” (118279)

今のアラブの紛争、パレスチナ問題の根本には、イギリスの三枚舌外交があります。

オスマン帝国を崩壊させるため、イギリスはアラブに「アラブの土地に」と約束をします、アラブ人に反乱を起こさせるためです。
また、ユダヤ人には「ナショナルホームを作る」という約束をします、ユダヤ人から資金を引き出したかったのです。

フランスには、領土を山分けする約束をします、これをサイクス・ピコ協定といいます。フランスはこれに乗じてレバノンを作ることになりました。

またイギリスはオスマン帝国の一部をクウェートにしました。これは湾岸戦争につながっていきます。

映画「アラビアのロレンス」では、ロレンスを悲劇の英雄に祭り上げることによって、イギリスの狡猾さと悪事を隠すためのプロパガンダ映画ともいわれていますね。

奴隷貿易

Chains Feet Sand - Free photo on Pixabay (118360)

イギリスの奴隷貿易は大西洋の三角貿易、西アフリカーイギリスー西インド諸島 で行われました。
西インド諸島で、ヨーロッパ、イギリスへ輸出する砂糖の労働力のために、アフリカから西インド諸島に奴隷が送られたのです。

奴隷たちは劣悪な奴隷船にすし詰め状態でおしこめられ、1662~1807年の間のイギリス船で、約45万人が輸送途上で死亡しました。
1807年に奴隷貿易が廃止されるまで、イギリスは340万人の奴隷を輸送したと言われています。
ヨーロッパ各国の行った奴隷貿易は、その後、アフリカの社会、政治に深刻な悪影響をもたらしました。

イギリスの奴隷貿易の平均年間収益は約15万ポンド。
人を商品にするという、おぞましい商売です。

インド植民地支配

KEITA on Instagram: “🙏ガンジーの言葉🙏#マハトマガンジー#愛#名言 #言葉#生き方” (118557)

非暴力と不服従の方法で、イギリスに植民地化されていたインドで民族独立運動を成功させたガンジーはご存じですね。
ガンジーは暗殺されましたが、その死後も多くの政治家に影響を与えました。

イギリスによって搾取されていたインド。ガンジーが憎んだのは、イギリスではなく、搾取を基本とする資本主義、帝国主義でした。
ガンジーが、日本の満州侵略と帝国主義をも批判したのは言うまでもありません。

植民地と統治する宗主国の間には、必ず人種差別の問題も起こります。
ガンジーは弁護士としてイギリスに留学するエリートでしたが、人種差別を受けて、人権の問題にも取り組むのです。

イギリスにとってインドに対する綿製品輸出は、インドが世界各国に原料や食料を輸出しながら営々として稼いだものを吸い上げるためのパイプでした、しかしこうしたイギリスの弾圧政策は逆にインドの民族運動を強めることにつながっていったのです。
こうした運動の中心にガンジーがいました。

インドのタタ財閥の急成長も、イギリスの撤退を促します。インドを失ったかつての大英帝国は、こうして斜陽の国になっていきます。
しかし、第二次大戦後は、アメリカがかつてのイギリスに変わって、インドの輸入の主なパイプを握るようになっていきました。

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