目次
- 通州事件の概要
- 通州虐殺事件とも呼ばれる
- 事件前夜日本人居留民宅に印をつけて回る
- 反乱の首謀者は保安隊第一総隊長の張慶餘
- 中国人部隊が日本軍および日本人居留民を襲撃・殺害
- 通州特務機関は10近く殺され壊滅
- 通州守備隊は死者20名
- 重軽傷者20名
- 日本居留民114名が保安隊に殺害される
- 朝鮮人111名が保安隊に殺害される
- 通州事件までに起こった事件・出来事について
- 1937年7月7日盧溝橋事件が勃発
- 停戦協定が結ばれる
- 1937年7月11日北支事変
- 1937年7月13日大紅門事件
- 1937年7月19日冀察政務委員会と日本とで停戦協定が締結
- 1937年7月25日廊坊事件
- 1937年7月26日広安門事件
- 1937年7月26日日本は第一次北支事変費予算案を閣議決定
- 1937年7月27日関東軍による冀東保安隊への誤爆
- 中華国民政府はラジオ放送でデマを流す
- 日本軍は天津地域を占領
- 1937年7月29日事件と同時期に天津中国軍は日本軍に反撃
- 通州事件の原因
- 盧溝橋事件
- 日本軍守備隊の主力が留守であった
- 反乱首謀者の張慶余が宋哲元と密約を交わしていたという噂
- 密輸やアヘン等の麻薬密輸に従事していたことが原因とも言われている
- 保安隊を誤爆したため反乱が起きたという誤爆説
- 反乱の原因については今でも多くの議論がなされている
- 生存者の証言
- 朝鮮人の人々は盛んに日本の悪口を言っていた
- 日本人の悪口を支那の人達に言いふらしていた
- 日本人は朝鮮を日本領土にして朝鮮人を奴隷にしようとしている
- 日本人は支那を領土にして支那人を奴隷にしようとしている
- 日本軍と日本人を追い出さなくてはならない
- 日本人を殺し日本軍を全滅させる
- 残忍な殺害について
- 日本人居留民の家は一軒残らず襲撃された
- 強姦され、後陰部を露出したまま射殺された
- 陰部が銃剣で刺され、えぐられた
- 日本人男子は全て首に縄を付けられ引き回された
- 眼玉をくりぬかれた
- 腹部を銃剣で刺された妊婦
- 手の指が切断された
- 内臓が散乱するまで刺された
- 鼻に針金を通された子供
- 片腕を切られた老婆
- 犠牲者が投げ込まれた池はの血によって赤く染まった
- 通州事件のその後
- 1937年7月30日日本軍奈良部隊が冀東政府保安隊約300人を攻撃
- 主犯とされる張慶餘は中将まで昇格した
- 暴虐支那を懲らしめろという世論が巻き起こる
- 在日中国人などは報復を恐れ帰国
- 1937年12月冀東政府による謝罪と慰謝金が支払われ収束
- 事件関係者は処罰または逃亡
- 2015年南京大虐殺資料が正式に登録される
- 南京事件の登録を受け日本側は通州事件資料の申請を発表する
- 通州事件の嘘・真実
- 眼玉をくりぬかれた等の残忍な殺害は見られなかった
- 中国人看護婦に庇われ生存した日本人もいる
- 日本だけが一方的に被害にあったわけではない
- 通州事件に関する海外の反応
- 報復行為を繰り返す時代であった
通州戦闘詳報には「守備隊は全滅ス」と書かれていますが、全員が死亡して全滅したわけではありません。この戦闘は7月30日の午後、日本軍の偵察機が応援に来るまで続きました。
それまでの間、籠城戦で奮闘し、負傷した人たちもいるのです。通州事件で命は助かったものの、重軽傷を負った通州守備隊関係者の数は20名に及びます。
城内の敵3300名と城外の敵2000名に対し、非戦闘員を含む163名で応戦したのですから、いかに通州守備隊が勇猛果敢に戦ったのかが分かります。
それまでの間、籠城戦で奮闘し、負傷した人たちもいるのです。通州事件で命は助かったものの、重軽傷を負った通州守備隊関係者の数は20名に及びます。
城内の敵3300名と城外の敵2000名に対し、非戦闘員を含む163名で応戦したのですから、いかに通州守備隊が勇猛果敢に戦ったのかが分かります。
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電話線を切断され、さらに通信機が破壊された状態で、通州守備隊は外部との連絡を絶たれていました。これも張慶餘が率いる反乱軍の仕業です。
しかし、山田自動車部隊の積荷である弾薬が、次々と爆発炎上をしたのが不幸中の幸いでした。大爆発によって空高く登る黒煙は、24kmも離れた北京市からも見えたのです。
異常事態であると判断し、天津から日本軍の偵察機が飛来しました。繰り返される日本軍用機の低空飛行により、反乱軍はついに退散したのです。
しかし、山田自動車部隊の積荷である弾薬が、次々と爆発炎上をしたのが不幸中の幸いでした。大爆発によって空高く登る黒煙は、24kmも離れた北京市からも見えたのです。
異常事態であると判断し、天津から日本軍の偵察機が飛来しました。繰り返される日本軍用機の低空飛行により、反乱軍はついに退散したのです。
日本居留民114名が保安隊に殺害される
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通州事件で犠牲になったのは、通州守備隊の関係者だけではありませんでした。民間人の犠牲者225名の内114名の日本居留民が、張慶餘が率いる保安隊第一小隊をはじめとする反乱軍の餌食になったのです。
その殺害方法は想像を絶するものであり、人間の成せることではありません。目を覆うほどの惨劇は、正に鬼畜の所業です。婦女子は強姦をされた後に凄惨な死を遂げ、妊婦は腹を蹴破られました。
老若男女が犠牲となり、子供も例外ではありませんでした。
その殺害方法は想像を絶するものであり、人間の成せることではありません。目を覆うほどの惨劇は、正に鬼畜の所業です。婦女子は強姦をされた後に凄惨な死を遂げ、妊婦は腹を蹴破られました。
老若男女が犠牲となり、子供も例外ではありませんでした。
朝鮮人111名が保安隊に殺害される
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通州事件では111名の朝鮮人も犠牲になったのです。とは言っても、当時の朝鮮は国際法の手続きに沿って日本に併合されていたので、正確には朝鮮系日本人ということになります。
しかし、通州事件には朝鮮系日本人がかかわっているため、便宜上日本人と朝鮮人に分けて説明します。朝鮮人が中国人に同情をされていたなら、張慶餘の餌食にはならなかったでしょう。
朝鮮人の横暴ぶりが中国人に嫌われていたことと、朝鮮系であっても日本人であることから通州事件のターゲットになりました。朝鮮人が犠牲になったのは、自業自得とも言えるのです。
しかし、通州事件には朝鮮系日本人がかかわっているため、便宜上日本人と朝鮮人に分けて説明します。朝鮮人が中国人に同情をされていたなら、張慶餘の餌食にはならなかったでしょう。
朝鮮人の横暴ぶりが中国人に嫌われていたことと、朝鮮系であっても日本人であることから通州事件のターゲットになりました。朝鮮人が犠牲になったのは、自業自得とも言えるのです。
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通州事件までに起こった事件・出来事について
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通州事件は突発的に起きた暴動ではありません。事前に念入りな準備をした上で行われた反乱です。通州事件が起きるまで、日本と中国の間にはいろいろな事件や出来事がありました。
これらの事件や出来事は、通州事件を知る上で欠かせないことです。通州事件の惨劇が起こるまでの、日本と中国の間の事件と出来事を追いながら通州事件までの流れを見てみましょう。
これらの事件や出来事は、通州事件を知る上で欠かせないことです。通州事件の惨劇が起こるまでの、日本と中国の間の事件と出来事を追いながら通州事件までの流れを見てみましょう。
1937年7月7日盧溝橋事件が勃発
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盧溝橋(ろこうきょう)は北京西部に流れる永定河(えいていが)に架かる橋で、1192年に完成しました。北京市から約22km西に中国人民抗日戦争記念館があり、そこからさらに西へ850mほど進んだところです。
マルコポーロが「東方見聞録・第4章」の中で「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と書き記しており、西ヨーロッパではマルコポーロの橋と呼ばれています。
この歴史的な橋が日本で有名になったのは、日本と中国の間で起こった盧溝橋事件がきっかけです。1937年7月7日の午後10時40分頃、北京市郊外の盧溝橋で、中国国民党軍第29軍による日本軍への発泡が発端でした。
マルコポーロが「東方見聞録・第4章」の中で「世界中どこを探しても匹敵するものがないほどの見事さ」と書き記しており、西ヨーロッパではマルコポーロの橋と呼ばれています。
この歴史的な橋が日本で有名になったのは、日本と中国の間で起こった盧溝橋事件がきっかけです。1937年7月7日の午後10時40分頃、北京市郊外の盧溝橋で、中国国民党軍第29軍による日本軍への発泡が発端でした。
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日本軍は1937年7月6日と7日に、盧溝橋東北で演習をしていました。この演習の実施については7月4日の時点で中国側に通知をしています。
夜間演習中の午後10時40分頃、永定河堤防の中国軍が日本軍に対して実弾を発泡してきました。中国軍の発泡を受けて、日本軍は撤収をしています。
豊台部隊長は盧溝橋の中国兵に対し、不法行為を厳しく非難するとともに中国軍の撤退を要求しました。しかし、交渉中の8日午前4時過ぎ、中国軍は集結中の日本軍に対して迫撃砲や小銃で再び攻撃をしてきたのです。
夜間演習中の午後10時40分頃、永定河堤防の中国軍が日本軍に対して実弾を発泡してきました。中国軍の発泡を受けて、日本軍は撤収をしています。
豊台部隊長は盧溝橋の中国兵に対し、不法行為を厳しく非難するとともに中国軍の撤退を要求しました。しかし、交渉中の8日午前4時過ぎ、中国軍は集結中の日本軍に対して迫撃砲や小銃で再び攻撃をしてきたのです。
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中国軍の攻撃に対して日本軍は自衛のため応戦をし、龍王廟を占拠します。日本軍は蘆溝橋の中国軍に対し武装解除を要求しました。
午前9時半頃、中国側の停戦要求により停戦状態に入りますが、日本軍は油断することなく中国軍の行動を監視します。この戦闘で日本軍は数十名の死傷者を出し、中国側は負傷者60数名と死者20名の被害を出しました。
盧溝橋で起きた日本軍への発砲事件の背景には、当時の中国共産党・北方局書記であった劉少奇(りゅうしょうき)が絡んでいると言われています。劉少奇は、後に第2代国家主席になった人物です。
午前9時半頃、中国側の停戦要求により停戦状態に入りますが、日本軍は油断することなく中国軍の行動を監視します。この戦闘で日本軍は数十名の死傷者を出し、中国側は負傷者60数名と死者20名の被害を出しました。
盧溝橋で起きた日本軍への発砲事件の背景には、当時の中国共産党・北方局書記であった劉少奇(りゅうしょうき)が絡んでいると言われています。劉少奇は、後に第2代国家主席になった人物です。
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劉少奇の指導により、秘密党員が陰謀工作を仕掛けた可能性が指摘されています。日本軍と中国国民党軍を戦わせて、中国共産党軍にとって後々有利な展開にしようとしたと言うものです。
盧溝橋事件のあった翌日の8日、中国共産党は日本に対する全面抗戦を呼びかけています。中国共産党軍が兵士に配布したパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志の指導によって行われた」と書かれていました。
盧溝橋事件のあった翌日の8日、中国共産党は日本に対する全面抗戦を呼びかけています。中国共産党軍が兵士に配布したパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志の指導によって行われた」と書かれていました。
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それだけではありません。中華人民共和国が成立した1949年10月1日、周恩来首相は「あの時、我が共産党軍が日本軍と国民党軍に発砲し、日本軍と国民党軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害した。
そのことが共産党に今日の栄光をもたらした」 と発言しています。
そのことが共産党に今日の栄光をもたらした」 と発言しています。
停戦協定が結ばれる
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7月11日午後8時、盧溝橋事件を受けて現地停戦協定が締結されました。これは松井-秦徳純協定と呼ばれ、責任者の処罰、中国軍の盧溝橋付近・永定河左岸からの撤退、抗日団体の取り締まりなど今後の保証、中国側の謝罪を織り込んだ停戦を主意とするものです。
しかし、現地停戦協定を締結しても、事態が終息へと向かうことはありませんでした。日本政府と中国政府は共に、停戦協定と並行して兵力の増員を押し進めたのです。これが後の事件に繋る大きな原因となりました。
しかし、現地停戦協定を締結しても、事態が終息へと向かうことはありませんでした。日本政府と中国政府は共に、停戦協定と並行して兵力の増員を押し進めたのです。これが後の事件に繋る大きな原因となりました。
1937年7月11日北支事変
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北支事変というと聞き覚えのない人も多いでしょう。北支事変というのは支那事変のことです。また、支那事変は日華事変とも呼ばれていましたが、公式呼称ではありません。
盧溝橋事件が起きた場所は北支那(華北地方)です。北支那の盧溝橋で起きた衝突であり、日本と中国の全面戦争ではない、というのが日本政府の見解でした。
このような理由から日本政府は1937年7月11日、北支事変を公式呼称としたのです。同年8月に起きた第2次上海事変を期に北支事変という呼称は、同年9月2日の閣議で支那事変と改称されました。
盧溝橋事件が起きた場所は北支那(華北地方)です。北支那の盧溝橋で起きた衝突であり、日本と中国の全面戦争ではない、というのが日本政府の見解でした。
このような理由から日本政府は1937年7月11日、北支事変を公式呼称としたのです。同年8月に起きた第2次上海事変を期に北支事変という呼称は、同年9月2日の閣議で支那事変と改称されました。
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