目次
- 日本一スパルタ指導で有名な「日生学園」
- 日生学園とは
- 日生学園の歴史
- 全寮制の共学校
- 校風・教育方針
- 所在地・偏差値
- 学園長「青田強」について
- 日生学園で起きた過去の暴力事件
- 1985年に内部告発で発覚
- スパルタ指導で過激な暴力
- 自殺者・死亡事故にまで発展
- 学校側は改善しなかった
- 行政指導が入った
- スパルタ指導の内容とは
- 「刑務所」と呼ばれていた
- マラソン
- お菓子・雑誌持込禁止
- 校内の上下関係
- 男女交際禁止
- 修学旅行などの娯楽行事はない
- 「しばき」の存在
- スパルタ指導は生徒だけではなかった
- 当時の日生学園生徒の1日のスケジュール
- 水・日曜以外は朝4時起床
- 登校前の心行をする
- 集団登校し学園生活の1日が始まる
- 放課後は心行・歌・自習などをする
- 自由時間は一切ない
- 当時の日生学園生徒の日曜のスケジュール
- 日曜は朝7時起床
- 朝食をとり歌を歌う
- 寮へ戻り自習
- 当時の日生学園の変わった風習
- 休み時間はトイレ以外で席を立ってはいけない
- 下級生は先輩のおかわり・お茶当番
- 雨具の所持禁止
- 私語厳禁
- 学校の歌が10曲ある
- 制服には種類がある
- 現在の日生学園
- 未だに根付いている風習もある
- 指導は穏やかになっている
- 日生学園を卒業した有名人
- 浜田雅功さん
- 今田耕司さん
- 現在は平穏な学校生活が送られている
日本一スパルタ指導で有名な「日生学園」
via pixabay.com
日生学園は日本一のスパルタ指導をしていたことで有名な高校です。現在は穏やかになりましたが当時は行き過ぎたスパルタ指導やいじめにより脱走者や自殺者が出るほどでした。
今回POUCHSは、具体的にどのようなスパルタ指導が行われていたのか、生徒の一日のスケジュールはどれほど厳しいものだったかを調査してみました。
また、日生学園で起きた暴力事件や現在の日生学園の様子、かつて在籍していた有名人についてもまとめていきます。
※POUCHSは恋愛やライフスタイルを応援する記事を多数取り扱っています。こちらの記事も、ぜひ一緒にご覧ください。
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日生学園とは
via pixabay.com
三重県で開校された日生学園は現在も校名を変えて存在しています。当時とは違い学業に重きを置いているほか、部活動も活発になっているようです。
日生学園の歴史や教育方針、偏差値を見ていきましょう。
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日生学園の歴史
via pixabay.com
日生学園は1965年に認可された学校法人です。1966年、当時の三重県上野市に日生学園高等学校を開校しました。入学希望者が増えたため、1980年に日生学園第二高等学校、1982年に日生学園付属中学校、1983年に日生学園第三高等学校を開校しています。
現在はそれぞれ名称を変更しており、日生学園高等学校は日生学園第一高等学校を経て桜丘高等学校、日生学園第二高等学校は青山高等学校、日生学園付属中学校は桜丘中学校、日生学園第三高等学校は自由ヶ丘高等学校となりました。
三重県津市白山町にある青山高等学校に本部を置いています。当時は学力を重視しない校風だったこともあり、誰でも入学できたと言われています。
現在はそれぞれ名称を変更しており、日生学園高等学校は日生学園第一高等学校を経て桜丘高等学校、日生学園第二高等学校は青山高等学校、日生学園付属中学校は桜丘中学校、日生学園第三高等学校は自由ヶ丘高等学校となりました。
三重県津市白山町にある青山高等学校に本部を置いています。当時は学力を重視しない校風だったこともあり、誰でも入学できたと言われています。
全寮制の共学校
via pixabay.com
当時の日生学園第一高等学校と日生学園第二高等学校である現在の桜丘高等学校と青山高等学校は全寮制の共学校です。共学ではありますが現在も男女交際は禁止されています。
当時の男女比は8対2でしたが話すこともままならない状態だったため男子生徒が女子生徒を意識することはあまりなかったようです。寮は24時間教師に監視されていて自由がなかったため刑務所と呼ばれていました。
当時の日生学園第三高等学校である現在の自由ヶ丘高等学校は男子校です。
当時の男女比は8対2でしたが話すこともままならない状態だったため男子生徒が女子生徒を意識することはあまりなかったようです。寮は24時間教師に監視されていて自由がなかったため刑務所と呼ばれていました。
当時の日生学園第三高等学校である現在の自由ヶ丘高等学校は男子校です。
校風・教育方針
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日生学園は不登校の生徒や問題を抱えている生徒を積極的に受け入れていました。当時の指導は日本一厳しいと言われているほどでしたが暴力事件が表面化するまでは子供の精神を鍛え直せるということで保護者から厚い支持を受けていました。
現在でも不登校の生徒や問題を抱えている生徒を受け入れているため生徒の出身地は北海道から沖縄まで幅広くなっています。現在は勉学に力を入れておりスパルタ教育もないので、暴力事件は表面化しましたが安心して子供任せられると考えている保護者は多いでしょう。
現在でも不登校の生徒や問題を抱えている生徒を受け入れているため生徒の出身地は北海道から沖縄まで幅広くなっています。現在は勉学に力を入れておりスパルタ教育もないので、暴力事件は表面化しましたが安心して子供任せられると考えている保護者は多いでしょう。
所在地・偏差値
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当時の日生学園第二高等学校、現在の青山高等学校は三重県津市白山町、当時の日生学園第一高等学校と日生学園付属中学校、現在の桜丘高等学校と桜丘中学校は三重県伊賀市、当時の日生学園第三高等学校、現在の自由ヶ丘高等学校は兵庫県姫路市にあります。
当時の偏差値はかなり低く40を切るほどでした。不登校の生徒や問題を抱えている生徒を受け入れる学校は偏差値が低くなる傾向があるので仕方のないことかもしれません。入学するための試験では名前を書けば合格できたと言われています。
現在の青山高等学校では特進Sクラスの偏差値が42、特進クラスの偏差値が40、進学クラスの偏差値が38なのでクラスによって違いはあるものの多少偏差値が高くなっていると言えます。
当時の偏差値はかなり低く40を切るほどでした。不登校の生徒や問題を抱えている生徒を受け入れる学校は偏差値が低くなる傾向があるので仕方のないことかもしれません。入学するための試験では名前を書けば合格できたと言われています。
現在の青山高等学校では特進Sクラスの偏差値が42、特進クラスの偏差値が40、進学クラスの偏差値が38なのでクラスによって違いはあるものの多少偏差値が高くなっていると言えます。
学園長「青田強」について
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日生学園を開校したのは青田強という人物です。「一流の人間を育てる」という教育方針を定めて厳しい教育を生み出しました。日生学園の校名は「太陽のような人を育てる」「日の精神を生きる」という意味が込められています。
青田強氏は1986年に死去しており、息子の青田進氏が跡を継いでいます。青田進氏は大学卒業後すぐに日生学園の教師になり父親が亡くなるまでは教頭や副校長の職に就いていました。
息子が理事長として学園を継いだことによって徐々にスパルタ指導はなくなっていきました。不登校の生徒を大学へ進学させるプログラムを発案するなど不登校の生徒への教育に力を入れています。
青田強氏は1986年に死去しており、息子の青田進氏が跡を継いでいます。青田進氏は大学卒業後すぐに日生学園の教師になり父親が亡くなるまでは教頭や副校長の職に就いていました。
息子が理事長として学園を継いだことによって徐々にスパルタ指導はなくなっていきました。不登校の生徒を大学へ進学させるプログラムを発案するなど不登校の生徒への教育に力を入れています。
日生学園で起きた過去の暴力事件
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指導という名の暴力によって生徒たちは押さえつけられていました。厳しい校風へのストレスもあってか上級生から下級生へのいじめや暴力は日常茶飯事でした。
ルールを守らないと教師から体罰を加えられ、上級生の気に障ることがあれば下級生が殴られるひどい環境だったため耐えきれなくなった生徒が脱走を試みましたがすぐに連れ戻されてしまい失敗に終わることが多かったようです。
連れ戻された後に暴力を振るわれるなど、学校が生徒のことを暴力で支配していたため暴行事件や自殺者がでる問題が次々と起こりました。
ルールを守らないと教師から体罰を加えられ、上級生の気に障ることがあれば下級生が殴られるひどい環境だったため耐えきれなくなった生徒が脱走を試みましたがすぐに連れ戻されてしまい失敗に終わることが多かったようです。
連れ戻された後に暴力を振るわれるなど、学校が生徒のことを暴力で支配していたため暴行事件や自殺者がでる問題が次々と起こりました。
1985年に内部告発で発覚
via pixabay.com
1985年に教師による内部告発が週刊誌に掲載されて大きな注目を集めました。教師からの指導の域を超えた暴力や上級生からのいじめや暴力により自殺が相次いだこと、脱走が頻繁に繰り返されていたことを受けて現役の教師が内部告発したのです。
教師間でも暴力が振るわれていたため我慢の限界に達したのでしょう。内部告発により日生学園の名は世間に広く知られることになり事件が表面化しました。
教師間でも暴力が振るわれていたため我慢の限界に達したのでしょう。内部告発により日生学園の名は世間に広く知られることになり事件が表面化しました。
スパルタ指導で過激な暴力
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