目次
- 御巣鷹山が心霊スポットとなった理由と真偽
- 御巣鷹山が心霊スポットとなった理由
- 日本航空123便墜落事故
- 墜落現場の悲惨な状況
- 多くの遺書が見つかる
- 墜落事故から心霊現象が多発する
- 世界的最大死者数を出した日本航空123便墜落事故
- 日航機墜落事故または日航ジャンボ機墜落事故とも呼ばれる
- 1978年日本航空115便しりもち事故
- 損傷場所はボーイング社が修理し、その後も通常運行
- 1985年2月までに様々な不具合が発生する
- 1985年8月離陸12分後、緊急事態が発生
- 過酷な状況で操縦士は必至に着陸を目指す
- 離陸30分後、御巣鷹の尾根へ墜落
- 帰省シーズンやつくば万博に重なり乗客が多かった
- 乗員乗客524人のうち、520人が死亡
- 墜落事故および単独機の航空事故でも世界最多
- 墜落原因はボーイング社の不適切な修理と推定
- ボイスレコーダーには最後まで必死な声が残っていた
- 即死した人々も多かったが、墜落直後はかなりの乗客が生存していた
- 捜索隊が到着するまでの長い時間、人々は苦しみながら亡くなっていた
- 検死官も驚く悲惨な状況
- 人体のどの部分なのか判別できない肉片
- 頭部に目が3つ
- 遺体の腐敗が激しかった
- 炭化した遺体や、腕足など身体の一部しかない人も
- 日本航空123便墜落事故の調査及び裁判
- 運輸省航空事故調査委員会が調査
- 国家運輸安全委員会も調査に加わる
- ボーイング社が声明を発表
- 黙秘権を行使し真相に踏み込めなかった
- NTSBがボーイング社を擁護していたという見方が根強い
- 提出された報告書には不信な点が多くあった
- 遺族への賠償などは行われたが、原因究明や裁判は行われなかった
- 御巣鷹山で実際にあった心霊体験
- 「お母さん」と呼ぶ声
- 「大阪はどちらの方角ですか」という声
- 捜索した自衛隊員にしがみつく何十体もの霊たち
- 写真を撮ると人魂が写り込む
- 人の手首や顔を見かける・写り込む
- 御巣鷹山登山口までのトンネル
- 現場一帯におびただしい数の墓標
- 御巣鷹山は聖地であり、心霊スポットとして踏み込んではいけない
- 作業者・救助者の多くが、後日眠れないほどの悲鳴を聞く
- 搭乗前に危険を回避した人の証言
- 霊感があった女性
- 搭乗前に体の異変を感じる
- 友人に状態を訴え搭乗をキャンセル
- 明石家さんまも搭乗予定だった
- 大阪のラジオ番組のため搭乗予定だった
- 収録が早く終わり、一便早く飛行機に搭乗
- 日本航空123便墜落事故を逃れた
- その後、新幹線を利用するようになる
- 「いまる」の名前由来
- 搭乗を回避した有名人たち
- ジャニー喜多川
- 笑点メンバー
- 稲川淳二
- 麻美れい
- 搭乗を回避できなかった有名人たち
- 坂本九
- 北原遥子
- 石田一雄
- 日本航空123便墜落事故の真実が心霊現象の要因?様々な憶測
- 国常立尊説
- 核兵器の隠蔽論
- グリコ・森永事件の犯人抹殺説
- プラザ合意説
- 出雲族説
- 中曽根康弘隠蔽説
- 外部破壊説
- 御巣鷹山は遊び気分で踏み入っていい場所ではない
via pixabay.com
事故直後の状況は、当初誰も知ることが出来ませんでした。しかし、わずか4人ながらも生存者を救出することが出来たおかげで、事故当時の様子を知ることが出来たのです。奇跡的に生き残れた乗客は全員女性で、まず最初に発見されたのは、東京の実家に子供達と共に帰省し、自宅に戻る為に123便に乗った吉崎家の母と娘です。
吉崎さんの夫もその頃、東京出張を終え、一家5人が揃って帰宅する為に搭乗しました。その中で助かったのは、母親の博子さんと娘の1人である美紀子ちゃん(当時8歳)の2人です。残る2人の生存者は、北海道旅行の帰り、大阪の親戚の家へと向かう為に家族4人で搭乗した川上慶子ちゃん(当時12歳)と、当時日本航空でアシスタントパーサーを勤めていた落合由美さんです。
落合さんは勤務後、自宅の大阪に戻る最中事故に遭いましたが助かることが出来ました。彼女達4人の証言によれば、墜落した直後はまだ多くの乗客達のうめき声や、苦しそうな息遣いが聴こえたということなので、当初はまだかなりの乗客が生存していたことが分かります。
吉崎さんの夫もその頃、東京出張を終え、一家5人が揃って帰宅する為に搭乗しました。その中で助かったのは、母親の博子さんと娘の1人である美紀子ちゃん(当時8歳)の2人です。残る2人の生存者は、北海道旅行の帰り、大阪の親戚の家へと向かう為に家族4人で搭乗した川上慶子ちゃん(当時12歳)と、当時日本航空でアシスタントパーサーを勤めていた落合由美さんです。
落合さんは勤務後、自宅の大阪に戻る最中事故に遭いましたが助かることが出来ました。彼女達4人の証言によれば、墜落した直後はまだ多くの乗客達のうめき声や、苦しそうな息遣いが聴こえたということなので、当初はまだかなりの乗客が生存していたことが分かります。
捜索隊が到着するまでの長い時間、人々は苦しみながら亡くなっていた
via pixabay.com
情報が交錯した上に、123便が墜落した場所は足場も無いような断崖状態の山奥で、救助隊が現場にたどり着くまでには約16時間も掛かってしまいます。
救出された4人の証言によれば、事故直後はまだ多くの息遣いが聴こえていたという状況の中で、生存者の川上さんの父と妹、そして吉崎博子さんの長男も、最初は声が聴こえていたと言います。
しかし、夜が明けるまでの間に救助は来ず、多くの人達が痛みと苦しみ、そして絶望の中でこの世を去ってしまったのです。
救出された4人の証言によれば、事故直後はまだ多くの息遣いが聴こえていたという状況の中で、生存者の川上さんの父と妹、そして吉崎博子さんの長男も、最初は声が聴こえていたと言います。
しかし、夜が明けるまでの間に救助は来ず、多くの人達が痛みと苦しみ、そして絶望の中でこの世を去ってしまったのです。
検死官も驚く悲惨な状況
via pixabay.com
生存者4人が発見された場所からは、機体の後部に座っていた人達の遺体も多く発見されました。生存者含む後部の座席に乗っていた機体の一部は、墜落した際に尾根への激突せずに斜面を滑り落ちていたのです。
その為、高天原山の谷間で発見された遺体は損傷が少なく、身元確認や遺体の引き渡しなどもスムーズに行われました。しかし、墜落の瞬間、山の尾根に激突してしまった機体の前部と中部にいた人達の遺体は、火災も発生したことによって、とても損傷の激しい遺体となってしまうのです。
その現場は、地獄絵図のようになっており、ある意味遺体に慣れているはずの検死官ですら、とてもショックを受けたと言われています。ここでは、そんな検死官も驚いた悲惨な状況を紹介していきます。
その為、高天原山の谷間で発見された遺体は損傷が少なく、身元確認や遺体の引き渡しなどもスムーズに行われました。しかし、墜落の瞬間、山の尾根に激突してしまった機体の前部と中部にいた人達の遺体は、火災も発生したことによって、とても損傷の激しい遺体となってしまうのです。
その現場は、地獄絵図のようになっており、ある意味遺体に慣れているはずの検死官ですら、とてもショックを受けたと言われています。ここでは、そんな検死官も驚いた悲惨な状況を紹介していきます。
人体のどの部分なのか判別できない肉片
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追突した衝撃と激しい火災によって、現場には人体のどの部分かも判別出来ない、肉片があちこちに飛び散っていました。これでは一体、誰の遺体から剥がれ落ちた肉片なのかも分かりませんが、遺族にとっては大切な人の身体の一部なのです。
現場に駆け付けた消防団や自衛隊、警察、消防の人達は、残された遺族の為に必死でこの肉片も集めました。現場では、「足元に注意しろ!」という怒号が飛び交うほど、そこらじゅうに機体の残骸や遺体、そして肉片が落ちていたのです。
肉片だけではなく、髪の毛だけという残留物もあり、遺体捜査と回収は困難を極めていきました。
現場に駆け付けた消防団や自衛隊、警察、消防の人達は、残された遺族の為に必死でこの肉片も集めました。現場では、「足元に注意しろ!」という怒号が飛び交うほど、そこらじゅうに機体の残骸や遺体、そして肉片が落ちていたのです。
肉片だけではなく、髪の毛だけという残留物もあり、遺体捜査と回収は困難を極めていきました。
頭部に目が3つ
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検死官も驚いたという衝撃的な遺体の中に、1つの顔に何故か目が3つも付いている頭部がありました。同じく、首の肉の中から入れ歯のような歯が埋まっているというものも発見されます。
何故そのような遺体になってしまったかと言えば、墜落した時の衝撃は想像を超えるほどの強さだった為、誰かの遺体にぶつかって一体化してしまったのです。そのような遺体を、検死官達は注意深く剥がして分離させ、2体分の遺体にしていきました。
現場ではこのように、遺体とも呼べない状況の人達が多く、遺体確認をする遺族達もその場で失神してしまったり、発狂してしまうという人達もいて、臨時の遺体安置所となった群馬県内にある小中高の体育館でも、毎日壮絶な戦いが繰り広げられていたのです。
何故そのような遺体になってしまったかと言えば、墜落した時の衝撃は想像を超えるほどの強さだった為、誰かの遺体にぶつかって一体化してしまったのです。そのような遺体を、検死官達は注意深く剥がして分離させ、2体分の遺体にしていきました。
現場ではこのように、遺体とも呼べない状況の人達が多く、遺体確認をする遺族達もその場で失神してしまったり、発狂してしまうという人達もいて、臨時の遺体安置所となった群馬県内にある小中高の体育館でも、毎日壮絶な戦いが繰り広げられていたのです。
遺体の腐敗が激しかった
via pixabay.com
事故が起きたのは8月です。墜落した場所は夕方の山奥だった為、多少気温は低かったかもしれません。しかし、回収された遺体は学校の体育館に収容されていきます。
とても暑い日が続く中、遺体確認にも時間が掛かる為、安置されていた遺体はどんどん腐敗していきました。衝突と火災の激しかった場所で発見された遺体の多くは、シートベルトで身体の上下が分離されていたり、頭部が欠損しているなどしていた分、余計に腐敗は早く進んでいくのです。
あまりの臭いと悲惨な遺体の数々に、検死官や身元確認をする為の歯科医や医者、そして遺族達も嘔吐し、当然食欲も無くなっていきました。特に検死に使われていた群馬県藤岡市民体育館は、強烈な死臭がいくら清掃や消毒をしても取れなかった為、最終的に取り壊されてしまったのです。
とても暑い日が続く中、遺体確認にも時間が掛かる為、安置されていた遺体はどんどん腐敗していきました。衝突と火災の激しかった場所で発見された遺体の多くは、シートベルトで身体の上下が分離されていたり、頭部が欠損しているなどしていた分、余計に腐敗は早く進んでいくのです。
あまりの臭いと悲惨な遺体の数々に、検死官や身元確認をする為の歯科医や医者、そして遺族達も嘔吐し、当然食欲も無くなっていきました。特に検死に使われていた群馬県藤岡市民体育館は、強烈な死臭がいくら清掃や消毒をしても取れなかった為、最終的に取り壊されてしまったのです。
炭化した遺体や、腕足など身体の一部しかない人も
via pixabay.com
事故現場は遺体の腐敗臭の他に、油の臭いもしていたと言われています。墜落の衝撃で火災に巻き込まれてしまった遺体は、炭のように真っ黒に焼けこげていました。
同じように火災で焼けこげてしまった周辺の木々には、炭化している腕や足などの身体の一部だけが引っ掛かって残っていたという遺体もあったのです。
遺体は損傷が激しいだけではなく、その残された部位に砂や砂利、泥や木の葉なども付着していました。大の男でも、躊躇するほど悲惨な遺体を、丁寧に洗浄し髪を梳くなどして体裁を整え、少しでも死者や遺族の気持ちを慰めようと頑張っていたのは女性の看護婦達でした。
同じように火災で焼けこげてしまった周辺の木々には、炭化している腕や足などの身体の一部だけが引っ掛かって残っていたという遺体もあったのです。
遺体は損傷が激しいだけではなく、その残された部位に砂や砂利、泥や木の葉なども付着していました。大の男でも、躊躇するほど悲惨な遺体を、丁寧に洗浄し髪を梳くなどして体裁を整え、少しでも死者や遺族の気持ちを慰めようと頑張っていたのは女性の看護婦達でした。
日本航空123便墜落事故の調査及び裁判
via pixabay.com
日本航空123便墜落事故からすでに34年の月日が流れ、遺族達の高齢化も進んできています。しかし、やはり当時の調査が中途半端だった為、今でも再調査を望む遺族や、事故原因の真相を調査し続けている人達も多く存在しているのです。
ネットでは様々な陰謀論が囁かれていますが、真実はいつでも1つしかありません。どちらか偏った意見だけで判断せず、陰謀論も全体を俯瞰して眺め、答えを導き出していくことが重要です。
ここでは、日本航空123便墜落事故の調査及び裁判など、当時の状況から検証していきます。
ネットでは様々な陰謀論が囁かれていますが、真実はいつでも1つしかありません。どちらか偏った意見だけで判断せず、陰謀論も全体を俯瞰して眺め、答えを導き出していくことが重要です。
ここでは、日本航空123便墜落事故の調査及び裁判など、当時の状況から検証していきます。
運輸省航空事故調査委員会が調査
via pixabay.com
冒頭でも触れていますが、事故発生後運輸省では、航空事故調査委員会を立ち上げます。立ち上げるというより、元々運輸省に設置されていた部署なのですが、実はこの組織が誕生したきっかけも悲惨な航空機事故でした。
この事故は、全日本空輸(全日空:ANA)が岩手県雫石町の上空で起こしたものです。旅客機であるボーイング727と航空自衛隊の戦闘機が衝突し、乗員乗客162名の死者を出した「全日空機雫石衝突事故」は、1971年(昭和46年)7月30日(金)に発生しています。
ちなみに、運輸省は2005年(平成13年)1月5日(金)まで存在していた、日本の中央省庁の1つです。現在は、国土交通省となりましたが、当時の運輸省は飛行機や船、鉄道などの運輸行政を取り扱う省庁でした。この事故調査委員会のことを、略して「事故調」「事故調委」と呼ぶため、そちらで覚えている人も多いかもしれません。
この事故は、全日本空輸(全日空:ANA)が岩手県雫石町の上空で起こしたものです。旅客機であるボーイング727と航空自衛隊の戦闘機が衝突し、乗員乗客162名の死者を出した「全日空機雫石衝突事故」は、1971年(昭和46年)7月30日(金)に発生しています。
ちなみに、運輸省は2005年(平成13年)1月5日(金)まで存在していた、日本の中央省庁の1つです。現在は、国土交通省となりましたが、当時の運輸省は飛行機や船、鉄道などの運輸行政を取り扱う省庁でした。この事故調査委員会のことを、略して「事故調」「事故調委」と呼ぶため、そちらで覚えている人も多いかもしれません。
国家運輸安全委員会も調査に加わる
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事故を起こした機体は、アメリカのボーイング社が開発、製造した飛行機です。123便で使用されていたのは、ボーイング747という機体ですが、当時この747型は旅客機最大のものだったのです。
その為、日本航空123便墜落事故の原因が、機体そのものにあった場合、ボーイング社の売り上げや評判が下がってしまうでしょう。そのことを恐れたボーイング社とアメリカは、国際運輸安全委員会(NTBS)と共にボーイング社でも調査員を入れ、日本へやってきました。
その為、日本航空123便墜落事故の原因が、機体そのものにあった場合、ボーイング社の売り上げや評判が下がってしまうでしょう。そのことを恐れたボーイング社とアメリカは、国際運輸安全委員会(NTBS)と共にボーイング社でも調査員を入れ、日本へやってきました。
ボーイング社が声明を発表
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