2019年8月7日 更新

御巣鷹山では度々心霊現象が?日本航空123便墜落事故との関係とは

520人の尊い命が一瞬で奪われてしまった、日航機墜落事故。あまりにも悲惨な事故だったせいか、墜落現場となった御巣鷹山では度々心霊現象があると言われています。今回は、日本航空123便墜落事故の概要と噂されている陰謀論を含め、御巣鷹山の心霊現象を検証します。

目次

御巣鷹山が心霊スポットとなった理由と真偽

Japan Airlines Model Planes - Free photo on Pixabay (531825)

御巣鷹山(おすたかやま)とは、長野県と群馬県の県境にある高天原山(たかまがはらやま)に属する山の尾根のことです。昭和生まれの人であれば「御巣鷹山」という名前を聞いただけで、日本の航空史上最も犠牲者を多く出したという、日本航空123便墜落事故を想い出す人が多いでしょう。

当時は連日ショッキングな映像や情報が報道されていたこともあって、今もYOU TUBEに数々の映像が残されています。事故や災害などで突然多くの人達が亡くなると、そこに無念さや悲しみ、怖かったであろうという死者の気持ちを汲み取るせいか、どうしてもその現場は心霊スポットと呼ばれることが多くなります。

日本航空123便墜落事故の原因は、当時の事故調査委員会が出したものはありますが、様々な証言や情報などと辻褄の合わないことが多く、未だに謎と疑問が残っています。その疑惑が益々人々の不安や恐怖を呼び、事故現場での恐怖体験をする人が増えていったのかもしれません。今回は、そんな御巣鷹山が心霊スポットとなった理由と真偽について検証していきます。

御巣鷹山が心霊スポットとなった理由

Wildfire Fire Smoke - Free photo on Pixabay (536902)

日本人は無宗教や無信仰と言われがちですが、元々アニミズム(自然崇拝)の考えがある為、山や海、森の木々、石などにも神や魂、そして意志を感じるという人が多いでしょう。

地震や津波、台風や洪水、そして噴火など、歴史を振り返ってみても、古来より現代に至るまで、日本は厳しい自然環境を持つ国土なことから、日本人は自然に対する感謝や畏怖の念を持つようになりました。特に山は今でも霊山や霊峰と呼ばれるように、元々信仰の対象でもある神聖な場所です。

のちに詳しく説明しますが、日本航空123便墜落事故が起きた現場の御巣鷹山も、本来は古事記にも登場する高天原山(たかまがはらやま)と呼ばれる霊峰です。元々不思議な力を感じさせる場所で起きた、悲惨な飛行機事故も相まって、人々は尚更怖さを感じてしまうのかもしれません。ここでは、御巣鷹山が心霊スポットとなった理由を紹介します。

日本航空123便墜落事故

Airplane Fly Jet - Free vector graphic on Pixabay (537026)

日本航空123便墜落事故は、1985年(昭和60年)8月12日(月)に起きました。2019年(令和元年)8月12日で、事故から34年の時が経ちますが、今年は当時と同じ月曜日となります。

今も昔も、8月12日はお盆の入り前日で、当時も多くの人々が「明日から夏休み」という日の夕方を迎えていたでしょう。そんな解放感溢れる、18時出発予定のJAL123便には、帰省や旅行、出張先から自宅へ帰るという人達など524名が乗っていました。

満席の123便は、約12分の遅れはありましたが、穏やかな夏の夕暮れの中離陸します。天気良好、機長はベテラン、機体は当時最も安全だと言われたジャンボ飛行機のボーイング。誰しもがきっと、不安など感じてはいなかったでしょう。しかし、離陸からすぐ機体にトラブルが発生し、機内は阿鼻叫喚の時間を迎えることになりました。機長の懸命の操縦も虚しく、18時56分123便は、離陸からわずか32分で御巣鷹山に墜落してしまったのです。

墜落現場の悲惨な状況

The Forest Fell Fire Smoke - Free photo on Pixabay (537229)

事故当日、日航機が行方不明らしいと世間の人々が知ったのは、午後7時30分前後です。各テレビ局はニュース速報として、「羽田発大阪行きの日航機123便がレーダーから消える」というテロップを流しました。

しかし、当初は現場が分からず、出てくる情報もバラバラで捜索隊も報道陣も、正確な位置を掴めずにいたのです。その後位置が確定しても、事故現場は道も無い山奥の中だった為、最初に衝撃的な現場の映像がテレビに流されたのは、翌日13日(火)の夕方でした。

飛行機の形に焼けた跡が残る山からは、まだ白い煙が立ち上っていました。バラバラになった機体にはJALの文字、辺りにあった木や草などが真っ黒に焦げ炭化しているという、絶望的な状況がテレビに映し出されていたのです。

多くの遺書が見つかる

Agenda Note Book Schedule - Free photo on Pixabay (537373)

離陸からわずか12分後に始まった恐怖の32分間。原因もよく分からないまま激しく揺れる飛行機の中で、乗客の数人は震える手で墜落するまでの間にメモを残していました。

その時の恐怖心や、死を覚悟して残される家族に向けた遺書めいたメモが、事故現場捜索後に発見されています。当時報道されたものや、今もネットに残されているそのメモは6人ほどの物ですが、もしかするともっと多くの人達が何か言葉を残していたのかもしれません。

そのメモには、飛行機に乗ってしまった後悔の言葉や恐怖心が綴られ、文字もいかに激しい揺れの中で書いたのかと想像出来るほど乱れています。読み取るのにも困難なほど乱れた文字からも、乗客達がどれだけ恐ろしい時間を耐えていたのかが見えてきます。

墜落事故から心霊現象が多発する

Forest Foggy Misty - Free photo on Pixabay (537514)

日航機123便の524名の乗客のうち、520人が御巣鷹山で命を落としました。昭和時代の報道はあまりタブーが無く、雑誌などには、壮絶な死を遂げた犠牲者達の遺体などがそのまま写されています。捜索に入った地元の消防団員や、警察、消防、自衛隊員なども、地獄絵図のような現場を見て、口では言い表せない程の絶望感を味わっていました。

命あるものは誰しもがいつかは死にます。しかし、病死や老衰などでこの世を去るのと違い、事故や自然災害は予想や覚悟も出来ないまま、ある日突然大切な人と別れることになるのです。このような時、命を落とした方も残されてしまう方にも、「後悔」という念が残ってしまいます。

この後悔には、突然死を与えられた時の恐怖や痛み、そして原因に対する憎しみや恨みなど、負の感情が込められます。残された方にも、助けられなかった人達へ謝罪の心や、絶望感などを味わう為、事故や災害などで大量に人が亡くなった場所では心霊現象を感じやすくなるのでしょう。御巣鷹山も、墜落事故の後から心霊現象が多発したと言われてます。

世界的最大死者数を出した日本航空123便墜落事故

Candle Candles Wax - Free photo on Pixabay (537657)

日本航空123便墜落事故は、世界的に見ても最大の死者数を出した事故です。

航空史上最も死者数が多いのは、1977年(昭和52年)3月27日(日)、スペイン領にあるテネリフェ空港で起きた、ジャンボ飛行機同士の衝突事故です。死亡者数は583名と日航機123便よりも多いのですが、この事故で亡くなったのは、ジャンボ飛行機2機分合わせた乗客の死者数なのです。

しかし、単独機の事故として、死者数520名をも出してしまった日本航空123便墜落事故は、世界的に見ても航空史上最も犠牲者の多い飛行機事故となってしまいました。ここでは、世界的最大死者数を出した日本航空123便墜落事故についての概要を紹介していきます。

日航機墜落事故または日航ジャンボ機墜落事故とも呼ばれる

Airplane Wing Sky - Free photo on Pixabay (537776)

事故を起こした日本航空は、当時親しみを込めて「日航さん」とも呼ばれていました。

戦後誕生した鉄道やフェリー、飛行機などの交通機関は、「親方日の丸」と言われていたように、半官半民や公共企業として運用されていました。その中で登場した日本航空株式会社も、「フラッグ・キャリア」と呼ばれ、国を代表する航空会社となっていたのです。

そして、事故を起こした日本航空123便は、アメリカのボーイング社が開発、製造した「ボーイング747」という機体です。世界で初めて大量輸送を実現可能とし、庶民達も憧れの空の旅を楽しめるようになったことで「ジャンボジェット」という愛称で親しまれていました。そのようなことから、この事故は「日航機墜落事故」や「日航ジャンボジェット機墜落事故」とも呼ばれることもあります。

1978年日本航空115便しりもち事故

Aircraft Airline Airliner - Free vector graphic on Pixabay (538058)

科学や工業の力がいくら発展しても、それを操作するのが人間である以上、100%安心で安全なものなどこの世にはありません。どんなに細心の注意を払っていたとしても、1度もミスをしたことがないという完璧な人はいないでしょう。

未だにハッキリとした原理も判明していない、あの巨大な鉄の塊である飛行機が空を飛んでいるという状況の中で、無事に飛んで帰ってくること事態が実は奇跡とも言えます。そのような安全性を保つ為に、当然製造されている飛行機の機体は高額になってしまいます。その為、完全にバラバラになったのでなければ、同じ機体を修理して使用していました。

日本航空123便に使用されていたボーイング747は、機体記号JA8119というものですが、事故が起きる7年前の1978年(昭和53年)6月2日(金)、この機体は日本航空115便としてやはり大阪へ向かったのです。空の旅は無事に進み、いよいよ伊丹空港に着陸するという時に、機体尾部をぶつけてしまうという事故を起こしてしまいました。

損傷場所はボーイング社が修理し、その後も通常運行

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