2019年8月7日 更新

御巣鷹山では度々心霊現象が?日本航空123便墜落事故との関係とは

520人の尊い命が一瞬で奪われてしまった、日航機墜落事故。あまりにも悲惨な事故だったせいか、墜落現場となった御巣鷹山では度々心霊現象があると言われています。今回は、日本航空123便墜落事故の概要と噂されている陰謀論を含め、御巣鷹山の心霊現象を検証します。

目次

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この日本航空115便しりもち事故では死亡者は出なかったものの、25名の負傷者を出しており、あわや大惨事となるところでしたが、乗客は何とか地上に降り立つことが出来ました。

この時ぶつけた部分は、飛行機の後方にある圧力隔壁(あつりょくかくへき)と呼ばれるところで、客席の圧力を保つ為の設備です。飛行機は何万フィートも上空を飛ぶため、酸素も薄く、当然気圧や重力などの負荷がとても大きくなります。それらの負荷から機体や乗客を守る為に、客席には一定の圧力を掛けてあるのです。

その与圧区域と非与圧区域を分ける為に設けられた圧力隔壁が、しりもち事故で破損し、日本航空はボーイング社に修理を依頼しました。

1985年2月までに様々な不具合が発生する

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実はこのJA8119という機体は、しりもち事故から4年後の1982年(昭和57年)8月19日(木)に、千歳空港でも着陸ミスによって、第4エンジンを接触するという事故を起こしています。123便としてJA8119が大事故を起こすまでに、2度の事故を起こし、それ以後1985年(昭和60年)2月までの間、この機体は様々な不具合が発生していました。

特に顕著だったのは、機体後方部にある化粧室のドアの不具合が多く、歪みがあったのではないか?とも言われています。その他事故原因の一端を担った原因として考えられているのは、企業の利益追求やコスパ重視という姿勢です。山崎豊子原作の「沈まぬ太陽」を小説や映画などで見たことがある人は分かるでしょうが、当時の日航は利益や会社の名を上げていく為に、路線や便を増やしていたのです。

そのおかげで点検・保守・修理を担当する整備員の時間や人手が足りず、入念な点検をすることが出来なかったのです。現在もそうですが、コスパ重視と人材を酷使する企業の姿勢では、確実な安全を保障することはできません。

1985年8月離陸12分後、緊急事態が発生

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飛行機に乗る際一番緊張する瞬間は、やはり離陸と着陸の瞬間でしょう。もちろん、一番恐怖心を感じるのは、飛行中に乱気流などで機体が揺れる時ですが、大抵の人は離陸して安定した飛行に入るとホッとします。

乗客達が一息付いた離陸から約12分後の、1985年(昭和60年)8月12日(月)午後6時24分。突然「パーンッ!」という破裂音が機内に響き渡りました。

その直後、客席には酸素マスクが落ちてきた為、乗客達は少し動揺し始めたのですが、乗務員達の冷静な対応で、この時乗客達はすぐに落ち着いたと言われています。しかし、機長達は機体の異変に気が付き、すぐさま「スコーク77」と呼ばれる緊急救難信号を発信したのです。

過酷な状況で操縦士は必至に着陸を目指す

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この日123便のコックピットにいたのは、飛行時間約1万2千以上のベテラン機長である高濱雅巳(たかはままさみ)、そして機長昇格訓練の為に機長席にいた、副機長の佐々木祐(ささきゆたか)、更に航空機関士である福田博(ふくだひろし)の3人です。

「パーンッ!」という破裂音を聞いた時、123便は神奈川県の相模湾上空24000フィート(高度約7200m地点)を目指して上昇中でした。この時点で、機長達も機体に何が起きたのかという原因は把握していません。

しかし、機体をコントロールする油圧システムが全て壊れたことと、操縦が不可能になってしまったということは分かっていました。機長達はそのような過酷な状況の中で、何とか羽田空港に戻ろうと必死に操縦桿を握っていたのです。

離陸30分後、御巣鷹の尾根へ墜落

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機長達は機体がどのような状況だったのかを最後まで把握出来ないまま、32分間操縦桿を握り続けていました。機長は、管制官に伝えた「アンダーコントロール(操縦不能)」という言葉を継げつつ、最初の17分程はダッチロールと呼ばれる横揺れを起こしながらも、上空20000フィート(高度約6000m)以上を保っていたのです。

しかし、飛行機の昇降に使う主翼の一部である「フラップ」を下げて、機体を水平に保とうとした瞬間、無常にも南西風に煽られ機体は急降下を始めました。

最後の最後まで必死に機体を上昇させようと、機長は声を上げて指示や操作を行っていましたが、午後6時56分、機体は急降下したまま御巣鷹の尾根へと墜落し、機体は仰向け状態になったまま山肌に滑り落ちていったのです。

帰省シーズンやつくば万博に重なり乗客が多かった

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冒頭でも触れましたが、123便はお盆入り前日の夕方だったことで、帰省ラッシュや夏休みにつくば万博を観ようとしていた観光客、出張帰りのビジネスマンなどたくさんの乗客がいました。

犠牲者の中には、当時甲子園で大活躍していた若き清原と桑田がいたPL学園の試合を観る為、初めての1人旅をしようとしていた小学生の男の子もいたのです。

逆に東京ディズニーランドなどで遊んだ観光客が、大阪に帰宅する為に123便を利用している人達も大勢いました。このように、当日はキャンセル待ちの人も出る程、空港内も混雑していたのです。

乗員乗客524人のうち、520人が死亡

Helicopters Mh-65 Dolphin Search - Free photo on Pixabay (538984)

123便が連絡を断ってから約30分後、テレビでニュース速報が流れた時点では、飛行機が行方不明になったという情報しかありませんでした。各局はその後、番組を変更して臨時報道番組を夜通し続けます。

当初は、安否確認の為だったのでしょうが、524名の乗員乗客達の名前が、次々と読み上げられていました。しかし、翌日墜落だと判明して現場の映像が流れると、生存者は絶望的に思え、読み上げられる名前の多さに世間の人々は戦慄を覚えたのです。

事故発覚から一夜明けた13日(火)の午前11時半頃、4名の生存者が発見されたことで、乗客の安否を心配していた家族達に一筋の希望を与えましたが、結局、家族達の必死の願いや祈りも虚しく、520人もの人達はすでに死亡していました。

墜落事故および単独機の航空事故でも世界最多

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人は決められてきた寿命からは逃れられないのでしょう。飛行機だけではなく、日常生活の中でも事故は起こります。バス、JR、地下鉄、フェリーなどの公共交通機でも、自動車や徒歩、自転車にバイクなど個人での移動中など、いつ何処で事故に巻き込まれるかは分かりません。

冒頭でも、日本航空123便墜落事故は、単独機の航空事故では世界で最も多い死者を出した事故だと述べていますが、飛行機事故は世界各地で起きています。

墜落や衝突、火災などの人為的ミスや、整備不良から起こった事故の他に、飛行機はテロリスト襲撃を受けたり、ハイジャックされるというリスクも孕んでいます。しかし、航空史上単独機での事故にも係わらず、520名もの死者を出した航空事故は、123便以外未だにありません。

墜落原因はボーイング社の不適切な修理と推定

Wrench Spanner Repair - Free photo on Pixabay (539207)

事故が発覚してすぐ、運輸省は航空事故調査委員会を立ち上げ、123便が墜落した原因を調べる為に、14日(水)現場入りしました。

同時に、アメリカ国家運輸安全委員会(NTBS)からも何故か調査団が入り、事故から約1ヶ月後にボーイング社は、1978年(昭和58年)に起きた「しりもち事故」の際に自社社員が修理した、隔壁部分の設置ミスがあったことを発表したのです。

運輸省の航空事故調査委員会、略して事故調も修理ミスが事故の原因となったと発表しますが、この後様々な矛盾と疑問を感じるような証拠が次々と表れます。当時、独自に調査していた日本航空の調査団も異を唱えますが、事故調は頑なに再調査をしなかった為、未だ原因が確定したとは言い切れません。

ボイスレコーダーには最後まで必死な声が残っていた

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飛行機には、ブラックボックスが設置されています。このブラックボックスとは、飛行機が事故を起こした際の原因調査に使用するもので、当日のフライトデーターや、コックピット内での会話などを記録するボイスレコーダーが入っているのです。

日本航空123便墜落事故後も、わりと早くブラックボックスは発見されて回収もしたのですが、当時は非公開で、一般人はマスコミが意図的に抜き出した、文字での内容しか分かりませんでした。その為、機長が悪者にされてしまい、残された家族の元には、連日脅迫や中傷の電話などが多く掛かってきたと言います。

しかし、このボイスレコーダーは、何故か事故から15年後に何処からか流出し、必死で最後まで戦う機長達の声が残されていたことが判明したのです。最初の「パーンッ!」という破裂音から始まったその内容は、最後に機長が「あぁ、ダメだ…」と呟き、ドーンッと飛行機が落ちていく音までが残されていますが、そこには墜落直前まで、必死に飛行機をコントロールを続けようとしていた機長達の声がありました。現在も、YOU TUBEでその声を聞くことが出来ます。

即死した人々も多かったが、墜落直後はかなりの乗客が生存していた

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