2019年7月28日 更新

婉容の生い立ちやその最期とは?美人と言われた婉容の人生

ラストエンペラーという言葉を聞いたことはあっても、あまり深く知らない人が多いのではないでしょうか。ラストエンペラーには5人の妻がいましたが、その中でも『婉容』は特別美人だったそうです。しかし最後は壮絶なアヘン中毒で身を崩しました。

目次

第二次世界大戦末期の1945年、日ソ中立条約を破った赤軍(ソ連陸軍)による関東軍への攻撃と、その後の日本の降伏により、満洲国皇帝・溥儀が退位し満洲国は滅亡しました。

満洲地域はソ連の占領下となり、内戦で中国国民党と中国共産党が争奪戦を行い、1949年に建国された『中華人民共和国』の領土になりました。

皇帝を退位した溥儀は、1960年、中華人民共和国中国人民政治協商会議の文史研究委員会専門委員になり、1964年、政協全国委員を兼任しました。

側室を複数人もうけるも離婚や死別を繰り返す

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1922年、満洲旗人でダフール族の郭布羅氏の娘『婉容』を皇后として、蒙古旗人の鄂爾徳特氏文の娘『文繍』を側室として迎え、紫禁城において盛大な結婚式を挙げ、中国の皇帝として初めてイギリスや日本、フランスなどの外交官を中心とした外国人を招待した歓迎会も催しました。

婉容と文繍は確執が深まり、文繍と別居後「文繍が生涯再婚をしない」という条件で離婚。溥儀は中国の歴史上、初の離婚歴を持つ皇帝になりました。中国土で日本により『満州国』が建国され、溥儀は利用されていると知りながら、廃人状態の婉容と共に、公人として数々のレセプションに参加します。

そんな時、温厚でやさしく溥儀を愛した『譚玉齢(たん・ぎょくれい)』を側室に迎えます。溥儀も玉齢を愛しましたが、日本軍に毒殺されます。日本の干渉を恐れたは溥儀、貧農の生まれで天真爛漫で善良な15歳の少女『李玉琴(り・ぎょくきん)』を側室に迎えますが、のちに離婚。玉琴は婉容の面倒を最後までみました。

正妻の婉容亡き後収容される

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正妻の婉容亡き後、溥儀がソ連の強制収容所に収監された翌年1946年、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、証人として連合国側から指名された溥儀は、ソ連の監視下で空路東京へ護送され、ソ連側の証人としてソ連に有利な証言を強要されました。

その後の1950年には、ソ連と同じく連合国の1国であり、国連の常任理事国でもあった中華民国ではなく、国共内戦にソ連の援助を受けて勝利した中国共産党によって前年に中国大陸に建国された中華人民共和国へ身柄を移されました。

公式な裁判ではなく、弟の溥傑や同じくソ連軍にとらえられた満洲国の閣僚や軍の上層部61人、1,000人を超える日本軍の捕虜らと共に、中国「戦犯」として収監され「再教育」を受けました。1959年、戦争犯罪人に対する特赦令を受け、溥儀も溥傑も釈放されました。

李淑賢と再婚するも約5年で死去

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1962年、溥儀は看護婦で一般人の『李淑賢』と結婚しましたが、腎臓がんを患いました。中華人民共和国による文化大革命の嵐の中、清朝皇帝だったな溥儀の治療を行うことは『反革命的』だと、狂ったように私刑や処刑、粛清を実施した国策による『紅衛兵』に攻撃されるのを恐れ入院を拒否されました。

政協主席も務める周恩来の手配で、北京市内の病院に入院することになりましたが、溥儀が治療を受けていることを聞きつけた紅衛兵が入院先に押しかけて騒ぎ、医師たちは溥儀に治療を施さず放置しました。

報告を受けて立腹した周恩来は、直接院長に電話して溥儀の治療を行わせましたが、既に末期状態だった溥儀は治療のかいもなく死去しました。

子どもはできなかった

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看護師の李淑賢(り・しゅくけん)と結婚した溥儀は、高い文化教養を身に着けた溥儀は研究員として静かなつましい生活を送りました。たがいに好き合っての恋愛結婚で、溥儀にとってもっとも幸福な結婚生活だったと言われています。

結婚当時、溥儀56歳、李淑賢37歳と夫婦ともども高齢であることもあり子どもを授かることはありませんでした。李淑賢は溥儀が入院し治療を施さず放置されたときも手厚い看病をし、溥儀の死後も独身を貫きました。

同性愛という噂

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加藤康男著『ラストエンペラーの私生活』の中で、溥儀に仕えた宦官(かんがん)により「溥儀の性体験は、14歳のときで相手は若い宦官だった。宦官が奉仕し溥儀は感極まり精を放った。その後も1945年の満洲国崩壊まで同性愛者だった」と暴露されています。

ちなみに『宦官』とは、皇帝や后たちの身の回りを世話するために去勢(性器を切除)した男性のことです。生殖機能を奪われ、家族を持つこともできない宦官は「召使い」「奴隷」で、歴史の表舞台に出ない存在でしたが、皇帝に最も近いところにいた彼らは、皇帝の手足や頭脳となり政治や軍事を動かしました。

この本の中で、溥儀は「女役」で宦官との情交されていたとばらされています。

李淑賢はインポテンツと証言

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溥儀の5人目の妻で2人目の正妻である2人目の正妻である李淑賢は、溥儀の同性愛を否定し「インポテンツだったため正常な夫婦関係が築けなかった」と主張しています。どちらにしろ特殊な環境で生まれ育った溥儀のことは、溥儀にしかわかりません。

溥儀は、正常と異常の判断がつく前に、女官や宦官による遊蕩と欲望の被害者となり、宮廷内にはびこった性的堕落の因習に巻き込まれたのです。

紫禁城に住む先代、先々代皇帝のお后達には、生母に会うことを許されず、しまいには乳母にも会わせてもらえなくなくなった後で「私の身辺にはもはや『人間性』に通じた人は1人もいなくなった」と自伝『わが半生』 で述べています。

中国史上最初で最後の離婚を果たした文繍

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文繍は、モンゴル人で『エルデト(Erdet、額爾徳特)』氏(=性)の出身、父の名前は『端恭』です。読書と書道が趣味の文繍は小柄な女性で、後に溥儀と離婚して、学校を設立して教師の道を歩んだ才媛でした。

その容貌だけ見ると、ちょっと器量が良いとは言いにくいですが、溥儀が皇后を選んだ際、婉容と文繍の写真を見せられて、文繍の写真に○をつけたそうですが、西太后亡き後、紫禁城内で力を奮っていた先帝光緒帝の側室瑾妃の差し金で、結局は婉容が選ばれたという話もあります。

普通の男子なら婉容の方を選びそうなものですが、溥儀は女性に関心がなかったと言われるので、婉容のような女性っぽいタイプは苦手だったとか。

第一の側室

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1921年、文繍は敬懿皇貴妃により溥儀の皇后候補に推されましたが、生家は没落しており、溥儀が清朝第12代皇帝になる前に『西太后』により毒殺された清朝第11代皇帝『光緒帝』の側妃の一人『瑾妃(きんひ、gincihiyangga fei)』に否決されました。翌年、溥儀の淑妃(側室)となったわけです。

瑾妃も、「上半身から下半身までほとんど同じ太さ」のくびれのないドラム缶体型で『月餅』と揶揄されていたほど丸顔だったそうです。

側室となった文繍もまた溥儀から愛されることはなかった

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「溥儀が皇后を選んだ際、婉容と文繍の写真を見せられて、文繍の写真に○をつけた」といっても、おそらく自分にとって邪魔にないような女性を選んだだけです。一度も愛されることはありませんでした。

溥儀自身も「側室制度は時代遅れの慣習」として淑妃(側室)を迎えることに反対しましたが、側近らの勧めで1人だけ迎えることに同意しただけで、はっきり言って嫌だったのです。

溥儀はあくまでも国のための結婚であり、好きで結婚するわけでもないのに、側室まで迎えさせられたのですから、気持ちを察することは難しくありません。

クーデターにより紫禁城を追い出される

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