2019年7月28日 更新

婉容の生い立ちやその最期とは?美人と言われた婉容の人生

ラストエンペラーという言葉を聞いたことはあっても、あまり深く知らない人が多いのではないでしょうか。ラストエンペラーには5人の妻がいましたが、その中でも『婉容』は特別美人だったそうです。しかし最後は壮絶なアヘン中毒で身を崩しました。

目次

1917~1922年、中華民国で国父と呼ばれる初代中華民国臨時大総統&中国国民党総理『孫文』の指導下で、中華民国の打倒を図ったのが『護法運動』。護法運動は2回あり、2回目が『第二次奉直戦争』。

1924年、第二次奉直戦争の最中に、直隷派軍閥の馮玉祥によって中華民国の首都北京で起こされたクーデターが『北京政変』です。

『北京政変』により、紫禁城を突然追い出された皇帝・溥儀、皇后・婉容、側室・文繍は、天津にある日本租界の張園で奇妙な3人暮らしを始めました。

北京から来た妹と外出しそのまま戻らず

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皇帝・溥儀、皇后・婉容、側室・文繍の3人は、広々とした紫禁城では顔を合わせることもなかった生活から、毎日顔を合わせなければならないほど狭い空間で、息の詰まるような生活をすることになりました。

婉容は、上流階級の生まれで、ヨーロッパ式の教育を受け英語はペラペラという才女です。当然一夫一妻を考えていましたから、文繍の存在が疎ましくてなりません。文繍は文繍で、気位の高い婉容には相当のライバル意識を燃やしたので、溥儀は困りました。

そしてある日、側室・文繍が北京から来た妹と外出した後そのまま帰ってきませんでした。

弁護士をたて溥儀を相手に訴訟を起こす

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文繍は、溥儀が少しも自分をかまってくれず、皇后である婉容に嫌がらせされる生活に嫌気がさし、ある日突然家を出て弁護士をたて溥儀に離婚を要求しました。

仰天した太監(女官や宦官)や、文繍の実家、親戚がなだめすかしても文繍は溥儀のところに戻りませんでした。文繍は自分の気持ちを「園中の鹿を哀れむ」と「野生の動物は飼うべきものではない。自由がない。牢獄の囚人のように、赦免されないかぎり出られない」いう文章で表しました。

「一度も溥儀の寵愛を受けられなかった」

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文繍は、溥儀との離婚裁判で「私は皇帝に9年間も仕えましたが、一度も寵愛を受けず、ひとりで暮らし、皇后からいじめを受け、耐えがたかった」訴えました。この離婚は世間を騒がせ、新聞でも大々的に報道されました。

物心ついた時から「自分の世話は周りがすべてするもの」と思って育ち、お互いを憎々しげにしている女性しか知らないまま、多くの女官らによってさまざまな性の悪戯を教えられた溥儀にとっては、女性とは「美しく欲しいもの」ではなく「自分を傷つけるめんどくさいもの」としか思えなかったのでしょう。

「皇后からいじめを受け続けた」

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溥儀には5人の『母』がいました。もちろん生母は一人ですが、紫禁城に住む先代、先々代皇帝のお后達は、皇帝を継いだ溥儀を名目上の母親になりました。

このお后達により、溥儀は生母に会うことを禁止さたあげくに、毎朝名目上の母親達へ挨拶しに行かなければなりませんでした。幼い溥儀にとってこれはかなりの苦痛でした。

あげくに、9歳まで乳母の乳を欲しがり伯母のいうことしか聞かなかったため、嫉妬から生母に会うことも禁止されました。皇后たちはこのような女性しかいなかったので、いじめは当たり前でした。

離婚が成立

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のちに中華民国となる清国内の外国人居留地での静かな暮らしの中で、溥儀の正妻『婉容』との確執が深まった側室『文繍』は出て行き帰らないまま、溥儀に対して慰謝料を求めて告訴しました。

1931年「文繍が生涯再婚をしない=皇室内のことを話さないなら」という条件で離婚が成立し、溥儀から慰謝料5万5千元が支払われましたが、文繍は溥儀の性癖や家庭内および宮廷内の内情をマスコミに暴露したために、すべての位を剥奪され平民とされ小学校の教師になり1953年に死亡しました。

史上初の離婚に世間は大騒ぎとなった

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皇帝には離婚する自由もありませんでした。そして、溥儀にとって妻とは身を飾るアクセサリーにすぎず、結婚も主人と奴隷の関係でしかありませんでした。溥儀は清王朝を再興し、その皇帝になることために生きることしか興味がなかったので、結婚も離婚もどうでもよいものでしかありませんでした。

ですが、再び真に中国に皇帝として返り咲くために対面を汚されることは許しませんでした。史上初の離婚した皇帝となり世間は驚きましたが、内情を暴露されますます騒ぎになりました。

最後の犠牲者と呼ばれた第三の側室李玉琴

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李玉琴は、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の4番目の妻で3番目の側室でした。彼女は自分自身を「世間から隔絶された宮殿に閉じ込められてきた、中国3千年に及ぶ帝国制における最後の犠牲者」と呼びました。

溥儀は生涯子ができませんでした。関東軍が欲しかったのは日本人の血を受け継ぐ溥儀の子でした。関東軍は溥儀の2番目の正妻を毒殺してもなお、しきりに溥儀に日本女性との結婚を勧めます。

「日本女性と結婚するなんてベッドに日本人の目と耳を取り付けるようなものだ」と考えた溥儀はあわてて第4夫人となる側室をを迎えました。

15歳で側室となる

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李玉琴は、1928年7月15日、先祖が山東省出身の漢民族の子孫として長春郊外の貧農に生まれました。1943年、まだ新京南嶺女子優級学校1年の15歳の時に、吉岡中佐によって「宮中に入って勉強できる」と連れてこられ『福貴人』という身分を与えられ溥儀の側室になりました。

溥儀の自伝「わが半生(邦題)」の中で、李玉琴についてはごく僅かな記述しかされていません。

愛新覚羅溥儀の実弟、愛新覚羅溥傑の著作「溥儀離開紫禁城以後」の中で、李玉琴の言葉が『彼が最初に私を見たとき、彼は私に「心が満たされる毎日が送られる」と言った。私が日本人によって送られたスパイだと思われるまでは』 と記述されています。

婉容と共にアヘンを持っていた

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1945年、日本の敗戦後、溥儀に従い吉林省通化市まで逃亡した李玉琴と皇后婉容はアヘンを持っていました。中国共産軍の東北抗日聯軍に逮捕されますが、調査後「李玉琴だけは日本軍に強制された被害者だ」とされ釈放されました。

軍の要請により、溥儀との離婚声明を書いた上で、李玉琴の家族が玉琴を連れて長春に帰ることができました。「日本女性を妻に迎えるくらいなら」と迎えられ、ペット感覚で側室にされていたので、特にそれ以上を望まれることがなかったのです。

日本人によって送り込まれたスパイだと思われた

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