2019年7月28日 更新

婉容の生い立ちやその最期とは?美人と言われた婉容の人生

ラストエンペラーという言葉を聞いたことはあっても、あまり深く知らない人が多いのではないでしょうか。ラストエンペラーには5人の妻がいましたが、その中でも『婉容』は特別美人だったそうです。しかし最後は壮絶なアヘン中毒で身を崩しました。

目次

第二次奉直戦争の最中に中華民国の首都北京で起こされたクーデター『北京政変』により紫禁城をたたき出された婉容たちは、溥儀の実家『醇王府』に戻ります。

「北京は危ない」と耳にした溥儀が、ジョンストン等の勧めで外国公使館区に庇護を受けに、イギリス公使館に交渉をしに行きますが、面倒を避けたかったイギリス公使は 「日本公使館の方が良い」 とし、溥儀御一行は日本公使館に入りました。

しかし、すさまじいほどの図々しさと我ままな溥儀御一行を日本公使はもてあまし、3ヵ月後、溥儀達は天津の日本租界区に移ることになりました。

溥儀と文繍の離婚によって夫婦関係が悪化

Depression Man Marital - Free photo on Pixabay (509675)

婉容は、側室の文繍も蔑みいじめていました。我慢の糸が切れた文繍が、溥儀と婉容との3人の奇妙な共同生活を脱け出し離婚したのを機に、溥儀と婉容の夫婦仲は悪化していきました。

溥儀は文繍に対する愛情はありませんでしたが、婉容が文繍を追い出したことで、文繍に離婚を切り出され皇室内のことを暴露されるなど「皇帝としてはありえない屈辱を味会わされたのは婉容のせいだ」と考えたせいでした。

溥儀は、宦官との情交に耽り、妻たちを蔑ろにし、強者にへつらう人でもあったのです。

愛人を作り妊娠・出産

Pregnant Mother Body - Free photo on Pixabay (509674)

婉容たちは、日本軍による厳しい監視生活を夫婦ともに強いられていました。そして、イライラした溥儀はそのストレスを婉容らに当たり散らしていました。耐えかねた婉容は密かに愛人を作っていました。

そして妊娠。溥儀との子供は物理的にありえない中、あくまでも「溥儀の子供です」と言い張りましたが、溥儀は日本軍に知られたくなかったため、出産時に医者を呼ぶことも禁止しました。

生まれたのは女の子でしたが、溥儀の「捨ててしまえ」の一言で、生後1時間もしないうちにボイラーに投げ込まれ殺害されました。

アヘンと出会う

Poppy Seed Head Ovary - Free photo on Pixabay (509676)

溥儀が、婉容自身の望みでもあった海外脱出を諦め、清朝王室の復活にしか興味を示さなくなると、鬱屈した気分を晴らそうとした婉容は、この頃の中国で流行っていた煙草を吸い始めました。

近親者達の話によると、溥儀が同性愛者か性機能不能で、海外留学どころではないほど清朝王室の復活にしか興味がなくなると、婉容に全く興味をなくしたため、婉容は女として生きる目的をだんだん見失っていきました。

とうとう寂しさに耐えかねた婉容は、アヘンに手を出し始めました。

1日200グラムを摂取するアヘン中毒者となる

Poppies Flowers Poppy - Free photo on Pixabay (509677)

お金に糸目はつける必要がなかった婉容は、1日に200gのアヘンを吸っていたせいで重度のアヘン中毒に陥りました。ボロ同然の擦り切れた服をまとい、髪は乱れたまま、食べた直後に食べたことを忘れるようになりぶくぶく太り始めます。不健康な生活のせいでついに視力まで失い、自力で立ち上がることすらできなくなりました。

時には精神錯乱にも襲われるようになり、溥儀との仲は冷め切っていて、おしゃれだった婉容は化粧もやめ、髪を振り乱し、服装にも気を使わなくなってしまいました。

溥儀は婉容を残し日本へ亡命を試みる

Aircraft Double Decker Oldtimer - Free photo on Pixabay (509678)

可憐でおしゃれで美しかった婉容がアヘン中毒者になったと噂が広まるのはあっという間でした。夫婦ということで、一緒に社交界の場に出るのに、溥儀は婉容のその変わり果てた姿を見られることを恥じ怒り「なぜこの自分がこんな女と一緒にいなければならないのか」と邪魔にしか思えなくなりました。

「日本が戦争に負けるかもしれない」「満州国がなくなるかもしれない」「皇帝の自分は何をされるかわからない」と思った溥儀は、婉容を助けるどころか離婚を考え始め、足手まといになった婉容を置き去りにして、日本への亡命を試みました。

大小便を垂れ流し酷いありさまとなった

Toilet Paper Hygiene Role - Free photo on Pixabay (509679)

日本の敗戦後、溥儀は勝手に日本へ亡命し、わずかな親族や従者と共に取り残された婉容は、ソ連・モンゴル連合軍とともに満州にやってきた中国共産党軍に逮捕され各地を転々としました。

終日、狂気のように叫んだり呻いたりしながら、板敷きの上を転げまわり、目を剥いて苦悶する婉容を、動物園の動物を見るような目で中国共産党軍幹部らが見に来ました。

寝台からコンクリートの床に転がり落ちたままで、お食事も遠くの入口に何日間も置きっぱなしで、大小便が垂れ流しとなっており、それはもうひどい臭気でしたが「どうせ死ぬのだから」と放置され、 1946年そのまま死去しました。

婉容はアヘンに逃げ最後には自身の全てを失った

Shanghai Cheongsam - Free photo on Pixabay (509690)

良家のお嬢様で、西洋的な教育と暮らしを施され、いづれは外交官の男性に嫁ぎ西洋で暮らすのが夢だった婉容。同じく、清朝王室の復活のために西洋の文化にあこがれる教育を施され、いずれ留学するなら婉容と一緒に行きたいと願っていた溥儀。

2人はハイカラなものを好み、溥儀は写真を撮ることも好きであったため、若いころの美しいかった婉容の写真はたくさん残されています。

日本が戦争していた頃に、間に挟まれていた中国にはこんなラストエンペラーの物語がありました。知って歴史を見ると、またずいぶん印象は変わってきます。

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