2019年7月28日 更新

婉容の生い立ちやその最期とは?美人と言われた婉容の人生

ラストエンペラーという言葉を聞いたことはあっても、あまり深く知らない人が多いのではないでしょうか。ラストエンペラーには5人の妻がいましたが、その中でも『婉容』は特別美人だったそうです。しかし最後は壮絶なアヘン中毒で身を崩しました。

目次

溥儀は「中国が日本に乗っ取られるかもしれない」と感じずにいられない日々を送っていたので、弟の溥傑が日本女性と結婚する時には生きた心地がしませんでした。

弟の溥傑の正室になる嵯峨浩の『嵯峨家』は、公家の中でも五摂家につぐ名家といわれ、明治天皇の生母の実家である中山家とも、大正天皇の生母の実家である柳原家とも親戚であり、浩の父方の祖母は明治天皇の従姉妹にあたりました。

関東軍は、満州国を完全に支配するために「子がいない溥儀に代わって、弟の溥傑に日本女性を娶わせて生まれた男子を皇帝にすれば良い」と考えたのです。溥儀は寄ってくる女性すべてを「日本軍のスパイでは?」と考えていました。

溥儀と離婚が成立

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李玉琴は、溥儀と離婚声明を書いて実家に連れて帰られた後も、すぐに離婚できたわけではありませんでした。収容所にいる溥儀を何度か訪ねましたが、1956年、長春市図書館で仕事を始め、1957年、ようやく正式に溥儀と離婚が成立しました。

もともと、皇室に憧れがあったわけではなく、時代の波に翻弄されただけなので、皇帝の側室という身分にも全く未練がありませんでした。もちろん、皇室内部のことをマスコミにばらすようなこともしませんでした。

黄毓庚と再婚し男児に恵まれる

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1958年、吉林省のラジオ局エンジニア黄毓庚と結婚し、後に男児を2人を産みました。貧乏で電気もない生活に育ち、教養が低く扱い易さを理由に皇宮に迎えいれられた李玉琴は、単純で幼稚、庶民的で物怖じせず天真爛漫で明るい性格だったことを溥儀に気に入られたそうです。

皇室に入ることで、アヘン中毒になるなど思ってもいないほうに流されてしまってからは、皇室に未練を残すこともありませんでした。素直で単純だからこそ、さっさと再婚して幸せになれたのでしょう。

溥儀の側室だったため迫害を受ける

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中華人民共和国で『毛沢東』主導により、「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の革命運動は、1966~1976年まで続き、1977年に終結宣言されました。

李玉琴は、溥儀に側室になることで「地位や家柄が高い人」=「貴人」にされたため、文化大革命のとき迫害を受けました。15歳の時にわけもわからないまま、吉岡中佐によって「宮中に入って勉強できる」と連れてこられ皇室の側室にされた李玉琴は、自分だけではなく家族のためにとても後悔したでしょう。

溥儀の計らいによって迫害が落ち着く

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文化大革命のあらしが吹き荒れる間、実権派打倒に猛威を振るった学生や工場労働者などからできた紅衛兵は、数百万人とも数千万人ともいわれる死亡者、行方不明者を出しました。

中華人民共和国の成立に貢献した政治家や知識人も弾圧を受け、拷問が原因で死亡する人もいました。

溥儀の貴人だったため迫害を受けていた李玉琴のために、腎臓がんの病床溥儀は「李とその家族にはいかなる特権も与えなかった」と証明書を書いてくれました。2001年、李玉琴は肝硬変を6年患った後、長春で死去しました。

溥儀の最後の妻李淑賢

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李淑賢(り しゅくけん)は、バツイチだった上に、お嬢様でものし上がりたいとも思わないごく普通の看護師だったので、結婚相手にと紹介された溥儀のことは「相手が自分とは身分がちがう人だから、結婚なんてとてもとても」と思っていました。

しかし、もう裕福でも権力者でもない溥儀が、顔を洗うときも周りを水だらけにして上着までびしょぬれにし、ご飯を食べるときもボロボロこぼすのを見て「放っておけない」と思ったようです。

幼くして両親を亡くす

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李淑賢は、1925年、杭州の漢族の家に生まれ、幼くして両親を亡くし、継母の下で苦労しながら育ちました。

溥儀の人生も、誰にも理解されず、命を狙われ、利用され、信じれば裏切られ、心が休まることがなく孤独でした。そんな人生を与えられた彼は、自分のことだけで精一杯で、周囲を顧みず、生きようとする力だけは誰よりも強くなければ簡単に殺されていたでしょう。

「運命は変えることができるが、宿命は変えることができない」という有名な言葉がありますが、李淑賢と溥儀が惹かれあったのは、互いの宿命を理解しあえたことも一つあるのでしょう。

看護婦の資格を取得

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働きながら夜間の職業学校に通い、看護婦の資格を取得しました。そんな働き者の李淑賢ですから、2歳から皇帝だった溥儀の「普通の人ならだれでもできる」ことができないという、ほほえましいエピソードを持つ溥儀に振り回されるように愛してしまったのでしょう。

「もらった給料=生活費と知らず、無くなれば給料日でもないのに事務所へ行って給料を貰おうとした」「バスに乗ろうとした時、乗降口に立っているバスガイドに、レディーファストで「どうぞお先に」と言ったら、そのままバスが発車し停留所に置き去りにされた」などがそうです。

結婚・離婚を経験

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看護婦の資格を取得した頃、最初の結婚・離婚を経験しています。一度結婚・離婚を経験した人は、結婚の現実を知ることができます。その現実を生かすも殺すも自分次第です。

幼くして母から離され皇帝となったゆえに、誰にも咎められることなく行うことがむしろ推奨された「早熟すぎる性への誘惑」と「下僕に行われる残虐行為」そして、意図せず正しいことが真逆になるかのような即位と退位の繰り返し。

宦官との情交に耽り、妻たちを蔑ろにし、強者にへつらうのが当たり前だった溥儀も、自分ができないことを一生懸命し、人に好かれることで変わってきていました。

1962年溥儀と結婚

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1962年、溥儀は5回目で李淑賢は2回目の再婚同士で結婚しました。2人の結婚には、溥儀の庇護者だった周恩来首相も祝福しました。

溥儀は、家事能力どころか一般市民としての常識も欠落しており、李淑賢には驚きの日々の連続でしたが「私が守る」とばかりに愛情を感じるようになり、溥儀にとっても生涯唯一の恋愛結婚でした。

経験もあり、強い恋愛感情から結びついたカップルには、お金や権力などは魅力的なものに映らなかったようです。

仲睦まじい結婚生活

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