2019年7月28日 更新

婉容の生い立ちやその最期とは?美人と言われた婉容の人生

ラストエンペラーという言葉を聞いたことはあっても、あまり深く知らない人が多いのではないでしょうか。ラストエンペラーには5人の妻がいましたが、その中でも『婉容』は特別美人だったそうです。しかし最後は壮絶なアヘン中毒で身を崩しました。

目次

阿片戦争(First Opium War)は、清とイギリスの間で1840~1842年に行われた戦争です。

イギリスが、インドで製造したアヘンを、清に輸出して巨額の利益を得ていたため、アヘンの蔓延に危機感をつのらせた清がアヘンを全面禁輸し、イギリス商人が保有するアヘンを没収・焼却したため、反発したイギリスと戦争になりました。

結果、イギリスの勝利に終わり、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となる『南京条約』が締結されました。

特別なキセルを用いて吸煙する

Smoker Opium India - Free photo on Pixabay (509462)

医薬用のアヘンは、黄褐色ないし暗褐色で特異な匂いがあり、強い苦味があります。吸煙用のアヘンは、生アヘンを水に溶かして不溶分を除去し、蒸発濃縮してエキス状としたもので、特別なキセルを用いて小さなランプの火で発煙させ吸煙します。

アヘンは、中枢神経を麻痺させるので、鎮静、鎮痙(ちんけい)、鎮痛、鎮咳(ちんがい)、下痢止め、催眠、麻酔補助などの目的で使用されます。効果はモルヒネと同様ですが、作用は緩やかで遅く、副作用として悪心、嘔吐、頭痛、めまい、便秘、皮膚病、排尿障害、呼吸抑制、昏睡などの慢性中毒をおこし、廃人同様になります。

婉容の生い立ち

Baby Ten Small - Free photo on Pixabay (509470)

溥儀は、婉容死去の知らせを3年後に拘留先のソ連で受け、自伝『我的前半生』(邦題『わが半生』)の中で、婉容について「私が彼女について知っているのは、アヘン吸毒の習慣に染まったこと、許し得ない行為があったことぐらいである」とだけ書いています。

ラストエンペラーは婉容を最初の妻にし、数人の側室と結婚し離婚もしましたが、結果的に離婚しなかった『婉容』はどんな女性だったのでしょうか。ここでは婉容の生い立ちについて紹介していきます。

1906年誕生

Baby Foot Blanket - Free photo on Pixabay (509472)

婉容は、1906年11月13日、清の北京『南鑼鼓巷』と呼ばれるエリアで生まれました。父は、郭布爾(Gobeir、ゴベイル)栄源(Žung-yuwan、ジュンユワン)で、母は愛新覺羅氏でした。弟の郭布羅潤麒で、溥儀の妹韞穎と結婚。

婉容という名前は、中国後漢末期から三国時代にかけての192~232年、現在の安徽省亳州市である豫州沛国譙県出身、魏の皇族の詩人『曹 植(そう しょく/そう ち)』の詩からつけられました。

『曹 植』は、陳王に封じられ、諡が思であったことから『陳思王』とも呼ばれます。唐の李白・杜甫以前の中国を代表する文学者として「詩聖」の評価を受けた建安文学の三曹の一人です。

西洋風教育を受ける

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婉容は、天津のミッション・スクールで西洋風の教育を受けたり洋食を食べて成長しました。

フランス租界・イギリス租界・ドイツ租界などがあるハイカラな街だった当時の天津で婉容は英語が大好きなハイカラで自由でおしゃれなお嬢さまとして育っていきました。

婉容は溥儀に恋心を抱かれてプロポーズされたのではなく、自分と同じくらいに西洋的で聡明な婉容と一緒に中国を変えたい!英国オックスフォード大学にむけて留学したい!と望まれたのです。

近代的でハイカラな生活を望んでいた

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婉容は、満州族の貴族出身で、裕福な家庭に育ちました。婉容が育った『天津』は当時、中国に進出した諸外国の領事館がひしめく国際的な都市となっていました。

紫禁城で婉容に謁見した外国人は「触れれば壊れてしまう繊細で美しい陶器のよう」と彼女の美しさをそのようにたたえたというほど、ミッション・スクールで西洋風の教育を受けて育ち容姿端麗でハイカラなお嬢様の婉容。

英語も堪能で、ゆくゆくは外交官の妻となり海外で生活するのを夢見ていました。

17歳で溥儀から結婚を申し込まれる

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2歳で、西太后から第12代清朝皇帝に指名され、6歳で退位してから『紫禁城』で皇帝としての扱いで軟禁生活を受けていた16歳の溥儀から「西洋社会に通用する皇后になってほしい」と直接プロポーズされました。

婉容は、西洋社会で活躍できる皇后になる夢を抱いて3000年続いた伏魔殿『紫禁城』での暮らすことを決意しました。胸にたくさんの希望を抱え、その後に何が待っているか想像できないほどに夢を抱えて飛び込もうとしたのです。

愛新覚羅溥儀とは

Balloon Chinese Lanterns Lantern - Free photo on Pixabay (509476)

愛新覚羅溥儀の誕生した1906年、日本は日露戦争に勝利後1年、世界史的に共産主義、無政府主義が活発化していました。

中国は日清戦争敗北後1898年、第11代皇帝の支持下で清朝を強国にするという政治改革を起こそうとしたものの、西太后が溥儀の母の父である栄禄ら保守派によるクーデターが勃発。わずか100日の「革命」で近代化が一時挫折します。

1900年、憎い外国人やキリスト教徒を殺害する乱を応援した清朝政府は、西洋列強を敵に回し再敗北。西洋化する必要にせまられた中国大陸は「中国のものだが中国のものでない」という西洋列強の植民地然となりました。

大清国第12代皇帝

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清朝中国の重要な政策は、すべて咸豊帝の后『西太后』が決めていました。第二のアヘン戦争といわれるアロー戦争のゴタゴタの中で咸豊帝が崩御した後、即位した2人の皇帝の後見という形で権勢をふるっていたのです。

第11代皇帝の支持下で日本の明治維新をリスペクトした革命『戊戌の変法』を弾圧し、秘密結社による『義和団の乱』で西洋人やキリスト教徒殺害を黙認、西洋にむけて宣戦布告したのも西太后です。

ついに死の床についた西太后は、ここまで忠実に自分に仕えてきた第11代皇帝光緒帝の弟『醇親王載灃』と西太后の弟の娘『孝定景皇后』から生まれた『溥儀』を次の皇帝にすることに決め、1908年、自分が死ぬ前日に第11代皇帝を毒殺。溥儀が第12代皇帝になりました。

ラストエンペラーとして知られる

China Beijing Forbidden City - Free photo on Pixabay (509478)

中国は古代から二千年以上『君主制』国家でしたが、民主主義が世界で主流になってきていました。清国内部は深刻な腐敗で革命勢力が増長し、知識人、海外の中国人(華僑)、兵士、一般庶民まで中国全土で立ち上がり「清王朝打倒」「君主のいない共和制国家・中国」を目指しました。

「皆の意志で国を動かす」という民主主義の国家ビジョンは、長い間『皇帝』に支配され続けていた中国民衆には魅力的に見えました。1911年に民主化運動『辛亥革命』が勃発。アジア初、君主を戴かない共和制国家『中華民国』誕生。

1912年、6歳の溥儀は退位しますが、数百人の宦官や女官にかこまれる「大清皇帝」として革命政府に軟禁されることになりました。1931年、日本軍が中国の一部に『満州国』をつくり、第二次世界大戦で日本が敗戦するまで溥儀は再び皇帝になります。

のちに文史研究委員会専門委員や政協全国委員を兼任

The Forbidden City In Beijing - Free photo on Pixabay (509479)

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