2019年7月28日 更新

婉容の生い立ちやその最期とは?美人と言われた婉容の人生

ラストエンペラーという言葉を聞いたことはあっても、あまり深く知らない人が多いのではないでしょうか。ラストエンペラーには5人の妻がいましたが、その中でも『婉容』は特別美人だったそうです。しかし最後は壮絶なアヘン中毒で身を崩しました。

目次

寂しさを麻薬で埋めようとした美人皇后婉容の人生

Fisherman Fishing Boat - Free photo on Pixabay (509448)

中国は大きな共和国です。確かに「ラストエンペラー」と言われてみれば気が付くことですが『皇室』はありません。ですが、日本がアメリカに敗戦する前までは皇室がありました。

主題歌を坂本龍一さんが手掛け、ビートたけしさんなど日本が誇る俳優陣が、日中合同の映画「ラストエンペラー」に出演し世界で話題になりました。

ぼんやり知っている人は、ラスエンペラーを知ることで息をのむほど歴史が変わって見えます。ラストエンペラーってこんな人だった!ラスエンペラーの美人妻はこんな人だった!日本はこんな国だったのか!と。

婉容とは

Fashion High Heels Shoes - Free photo on Pixabay (509449)

婉容(えんよう)は、満州国の皇后。清最後の皇帝にして満州国皇帝の愛新覚羅溥儀の正妃でした。日本人なら『満州国』という言葉を聞いたことがある人は多いはずです。しかし、満州国がどんな国で、なぜなくなり、最後はどう終わったのか知っている人は少ないでしょう。

実際にそこで生まれた日本人も少なくはなかったので、悲惨な話はなかなか明かされません。戦時中の話なので、日本側から見た満州国と、中国側から見る満州国では見え方も違って当然です。

そんな激動の歴史の中で、ラスエンペラーの妻として大きく巻き込まれたのが妻の婉容でした。

愛新覚羅溥儀の妻

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辛亥革命により清朝が打倒され、共和国家『中華民国』が樹立されたことにより、ラストエンペラーは権力をはく奪され、紫禁城の一角に軟禁状態を強いられました。

そんな16歳のラストエンペラー溥儀に、1歳年上の17歳の婉容が正妻=皇后として迎えられました。

たとえ正妻でも、溥儀との面会には互いの従者を通じての相手方の承諾が必要で、幼少時より大清皇帝で「妻も妾も君主の奴隷」と教育された溥儀に、夫婦としての愛情をもって接せられることも同衾されることもほとんどなく、また広い城内で溥儀の側室と顔を合わせることもほどんどありませんでした。

満州国皇后

Roof China Dragon Forbidden - Free photo on Pixabay (509453)

今では考えられないほどおとなしくて平和な日本は、アメリカやロシアと対等に戦争していました。そして1931年、ほぼロシアのものであった満洲を日本に取り入れようとした関東軍の独断で満州事変が起こされます。

溥儀は日本陸軍から「大清帝国の復興である新国家『満州国』の皇帝になるように」と要請を受け受諾し、天津から満州へ移住しました。大清帝国とは、1616~1912年、満洲族の愛新覚羅家が満洲で建国し中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝です。首都は盛京(瀋陽)で、後に北京に置かれました。

婉容は溥儀から満州に来るよう求められましたが「皇后の身分にも皇帝の元へも戻る意思がない」と断りました。しかし、日本で教育を受け関東軍の命を受けた「清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女」川島芳子こと『愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)』に欺かれ、満州に連れ出されました。

ゴベイル皇后とも呼ばれる

China House Roof - Free photo on Pixabay (509454)

婉容は、中華人民共和国とモンゴルを支配し大清帝国にした満洲人が所属する社会&軍事組織の一人『ゴベイル氏(Gobeir hala、郭布爾、郭布羅、郭博勒)』の栄源(Žung-yuwan、ジュンユワン)の娘として、北京で生まれました。

さらに、中国の三国時代に華北を支配した王朝である『魏(ぎ)』の詩人曹植の『洛神賦』から婉容と名づけられました。

ラストエンペラーに嫁いでからは、実家の姓から『ゴベイル(郭布爾)皇后』とも呼ばれました。

アヘン中毒最期を迎えた皇后として知られる

Roof China Dragon Forbidden - Free photo on Pixabay (509455)

婉容は、第二次世界大戦で日本がアメリカに敗戦後、溥儀が日本への亡命を企て逃亡した後、義妹の浩らわずかな親族や従者と共に満州に取り残され、ソ連・モンゴル連合軍とともに満州にやってきた八路軍(1937~1945年、日中戦争時期に華北で活動していた中国共産党軍)に逮捕されました。

その後、親族や従者と引き離され、釈放の許可が出たものの引き取り手がなく、軍の移動に伴い留置所や刑務所を転々としました。

監獄内では、アヘン中毒の禁断症状と栄養失調がすすみ「どうせ死ぬのだから」と苦痛を和らげるアヘンも水も与えられず、やがて世話に訪れた浩のことも誰かわからず錯乱した状態で孤独の内に死亡しました。

アヘンとは

Poppy Papaver Flower - Free photo on Pixabay (509458)

いわゆる『麻薬』で、ケシの実から採取されるアルカロイドは『オピエート』と呼ばれ、『オピエート』から合成されるものが『オピオイド』です。

麻薬(narcotic)とは、本来このようなオピエートやオピオイドを指します。

アヘンの名の由来は、英語名(opium)の中国語の音訳である『阿片(a piàn アーピエン)』を音読みしたものです。『明』の時代の中国、江戸時代の日本では『阿芙蓉(あふよう)』と書きました。

ケシの実から採取される麻薬

Opium Poppy Mohngewaechs - Free photo on Pixabay (509459)

アヘン(阿片、鴉片、opium)は、ケシ(芥子、opium poppy)の実から採取される果汁を乾燥させたものです。ケシの開花10~20日後、花弁が落ちた未熟果(ケシ坊主)の表皮に、朝に浅い切り込みを入れると、乳液状の物質が分泌されるので、夕方に掻き採って集め、乾燥させると黒い粘土状の半固形物になります。

これが「ヘラ掻き」という収穫方法で得る生アヘンです。1kgのアヘンを得るのに約2000本のケシの実が必要ですが、貧しい農民が栽培に従事する非合法栽培地域では現在も「ヘラ掻き」で生アヘンを得ています。有機溶媒で化学的に麻薬成分アルカロイドを抽出・精製する方法が合法的栽培で主流です。

生アヘンは不純物を大量に含み、効き目がモルヒネやヘロインより数段劣るので、価値を高めるにさらに煮出し乾燥させ精製し、モルヒネやヘロインに加工しますが量は20~25%に減ります。

古くは鎮痛・鎮静剤として使用されていた

Poppy Pods Seed-Pods - Free photo on Pixabay (509460)

ケシの実の乳液は古代から鎮痛・鎮静作用が知られ、医薬品として用いられてきました。紀元前3400年頃、イラクの一部メソポタミアでケシが栽培され、紀元前3000年頃、メソポタミアのシュメール人によるケシの実の乳液が採取されました。

紀元前2000年頃、ケシ栽培がヨーロッパや中東、中央アフリカに伝わり、紀元前1500年頃、鎮痛剤などの薬剤としてエジプトでアヘン製造がされていました。

紀元前300年頃には、一部で遊興的な使用も行われましたが、アヘンはすでに鎮痛剤、睡眠剤として利用されていました。英語名opiumは、この時代のラテン語名opiumを引き継いだものです。

アヘンによって引き起こされた戦争が阿片戦争

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