目次
- 寂しさを麻薬で埋めようとした美人皇后婉容の人生
- 婉容とは
- 愛新覚羅溥儀の妻
- 満州国皇后
- ゴベイル皇后とも呼ばれる
- アヘン中毒最期を迎えた皇后として知られる
- アヘンとは
- ケシの実から採取される麻薬
- 古くは鎮痛・鎮静剤として使用されていた
- アヘンによって引き起こされた戦争が阿片戦争
- 特別なキセルを用いて吸煙する
- 婉容の生い立ち
- 1906年誕生
- 西洋風教育を受ける
- 近代的でハイカラな生活を望んでいた
- 17歳で溥儀から結婚を申し込まれる
- 愛新覚羅溥儀とは
- 大清国第12代皇帝
- ラストエンペラーとして知られる
- のちに文史研究委員会専門委員や政協全国委員を兼任
- 側室を複数人もうけるも離婚や死別を繰り返す
- 正妻の婉容亡き後収容される
- 李淑賢と再婚するも約5年で死去
- 子どもはできなかった
- 同性愛という噂
- 李淑賢はインポテンツと証言
- 中国史上最初で最後の離婚を果たした文繍
- 第一の側室
- 側室となった文繍もまた溥儀から愛されることはなかった
- クーデターにより紫禁城を追い出される
- 北京から来た妹と外出しそのまま戻らず
- 弁護士をたて溥儀を相手に訴訟を起こす
- 「一度も溥儀の寵愛を受けられなかった」
- 「皇后からいじめを受け続けた」
- 離婚が成立
- 史上初の離婚に世間は大騒ぎとなった
- 最後の犠牲者と呼ばれた第三の側室李玉琴
- 15歳で側室となる
- 婉容と共にアヘンを持っていた
- 日本人によって送り込まれたスパイだと思われた
- 溥儀と離婚が成立
- 黄毓庚と再婚し男児に恵まれる
- 溥儀の側室だったため迫害を受ける
- 溥儀の計らいによって迫害が落ち着く
- 溥儀の最後の妻李淑賢
- 幼くして両親を亡くす
- 看護婦の資格を取得
- 結婚・離婚を経験
- 1962年溥儀と結婚
- 仲睦まじい結婚生活
- 溥儀にとって唯一の恋愛結婚
- 溥儀の死後本を出版
- 溥儀に仕えた女性で唯一アヘン中毒になった婉容
- 「西洋社会に通用する皇后になってほしい」という言葉で結婚を決意
- 結婚初夜から異例
- 続く窮屈な暮らし
- 友人が社交界にデビュー
- 努力しても溥儀の心は掴めなかった
- 1924年クーデターにより紫禁城から追放される
- 側室の文繍・溥儀と3人で暮らす
- 溥儀と文繍の離婚によって夫婦関係が悪化
- 愛人を作り妊娠・出産
- アヘンと出会う
- 1日200グラムを摂取するアヘン中毒者となる
- 溥儀は婉容を残し日本へ亡命を試みる
- 大小便を垂れ流し酷いありさまとなった
- 婉容はアヘンに逃げ最後には自身の全てを失った
寂しさを麻薬で埋めようとした美人皇后婉容の人生
via pixabay.com
中国は大きな共和国です。確かに「ラストエンペラー」と言われてみれば気が付くことですが『皇室』はありません。ですが、日本がアメリカに敗戦する前までは皇室がありました。
主題歌を坂本龍一さんが手掛け、ビートたけしさんなど日本が誇る俳優陣が、日中合同の映画「ラストエンペラー」に出演し世界で話題になりました。
ぼんやり知っている人は、ラスエンペラーを知ることで息をのむほど歴史が変わって見えます。ラストエンペラーってこんな人だった!ラスエンペラーの美人妻はこんな人だった!日本はこんな国だったのか!と。
主題歌を坂本龍一さんが手掛け、ビートたけしさんなど日本が誇る俳優陣が、日中合同の映画「ラストエンペラー」に出演し世界で話題になりました。
ぼんやり知っている人は、ラスエンペラーを知ることで息をのむほど歴史が変わって見えます。ラストエンペラーってこんな人だった!ラスエンペラーの美人妻はこんな人だった!日本はこんな国だったのか!と。
戦争とレイプは切り離せない関係?実際に起こった事件とは - POUCHS(ポーチス)
戦争を経験したことがない私たちは、幸せなことに戦争中に本当に起こった出来事を知りません。戦場は男性だけの戦争の場所ではなく、女性にとっても戦場でした。何でもありなのが戦争なので、男性は殺されて当然で、女性はレイプされて当然とされたのです。
婉容とは
via pixabay.com
婉容(えんよう)は、満州国の皇后。清最後の皇帝にして満州国皇帝の愛新覚羅溥儀の正妃でした。日本人なら『満州国』という言葉を聞いたことがある人は多いはずです。しかし、満州国がどんな国で、なぜなくなり、最後はどう終わったのか知っている人は少ないでしょう。
実際にそこで生まれた日本人も少なくはなかったので、悲惨な話はなかなか明かされません。戦時中の話なので、日本側から見た満州国と、中国側から見る満州国では見え方も違って当然です。
そんな激動の歴史の中で、ラスエンペラーの妻として大きく巻き込まれたのが妻の婉容でした。
実際にそこで生まれた日本人も少なくはなかったので、悲惨な話はなかなか明かされません。戦時中の話なので、日本側から見た満州国と、中国側から見る満州国では見え方も違って当然です。
そんな激動の歴史の中で、ラスエンペラーの妻として大きく巻き込まれたのが妻の婉容でした。
愛新覚羅溥儀の妻
via pixabay.com
辛亥革命により清朝が打倒され、共和国家『中華民国』が樹立されたことにより、ラストエンペラーは権力をはく奪され、紫禁城の一角に軟禁状態を強いられました。
そんな16歳のラストエンペラー溥儀に、1歳年上の17歳の婉容が正妻=皇后として迎えられました。
たとえ正妻でも、溥儀との面会には互いの従者を通じての相手方の承諾が必要で、幼少時より大清皇帝で「妻も妾も君主の奴隷」と教育された溥儀に、夫婦としての愛情をもって接せられることも同衾されることもほとんどなく、また広い城内で溥儀の側室と顔を合わせることもほどんどありませんでした。
そんな16歳のラストエンペラー溥儀に、1歳年上の17歳の婉容が正妻=皇后として迎えられました。
たとえ正妻でも、溥儀との面会には互いの従者を通じての相手方の承諾が必要で、幼少時より大清皇帝で「妻も妾も君主の奴隷」と教育された溥儀に、夫婦としての愛情をもって接せられることも同衾されることもほとんどなく、また広い城内で溥儀の側室と顔を合わせることもほどんどありませんでした。
満州国皇后
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今では考えられないほどおとなしくて平和な日本は、アメリカやロシアと対等に戦争していました。そして1931年、ほぼロシアのものであった満洲を日本に取り入れようとした関東軍の独断で満州事変が起こされます。
溥儀は日本陸軍から「大清帝国の復興である新国家『満州国』の皇帝になるように」と要請を受け受諾し、天津から満州へ移住しました。大清帝国とは、1616~1912年、満洲族の愛新覚羅家が満洲で建国し中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝です。首都は盛京(瀋陽)で、後に北京に置かれました。
婉容は溥儀から満州に来るよう求められましたが「皇后の身分にも皇帝の元へも戻る意思がない」と断りました。しかし、日本で教育を受け関東軍の命を受けた「清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女」川島芳子こと『愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)』に欺かれ、満州に連れ出されました。
溥儀は日本陸軍から「大清帝国の復興である新国家『満州国』の皇帝になるように」と要請を受け受諾し、天津から満州へ移住しました。大清帝国とは、1616~1912年、満洲族の愛新覚羅家が満洲で建国し中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝です。首都は盛京(瀋陽)で、後に北京に置かれました。
婉容は溥儀から満州に来るよう求められましたが「皇后の身分にも皇帝の元へも戻る意思がない」と断りました。しかし、日本で教育を受け関東軍の命を受けた「清朝の皇族・第10代粛親王善耆の第十四王女」川島芳子こと『愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら けんし)』に欺かれ、満州に連れ出されました。
ゴベイル皇后とも呼ばれる
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婉容は、中華人民共和国とモンゴルを支配し大清帝国にした満洲人が所属する社会&軍事組織の一人『ゴベイル氏(Gobeir hala、郭布爾、郭布羅、郭博勒)』の栄源(Žung-yuwan、ジュンユワン)の娘として、北京で生まれました。
さらに、中国の三国時代に華北を支配した王朝である『魏(ぎ)』の詩人曹植の『洛神賦』から婉容と名づけられました。
ラストエンペラーに嫁いでからは、実家の姓から『ゴベイル(郭布爾)皇后』とも呼ばれました。
さらに、中国の三国時代に華北を支配した王朝である『魏(ぎ)』の詩人曹植の『洛神賦』から婉容と名づけられました。
ラストエンペラーに嫁いでからは、実家の姓から『ゴベイル(郭布爾)皇后』とも呼ばれました。
アヘン中毒最期を迎えた皇后として知られる
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婉容は、第二次世界大戦で日本がアメリカに敗戦後、溥儀が日本への亡命を企て逃亡した後、義妹の浩らわずかな親族や従者と共に満州に取り残され、ソ連・モンゴル連合軍とともに満州にやってきた八路軍(1937~1945年、日中戦争時期に華北で活動していた中国共産党軍)に逮捕されました。
その後、親族や従者と引き離され、釈放の許可が出たものの引き取り手がなく、軍の移動に伴い留置所や刑務所を転々としました。
監獄内では、アヘン中毒の禁断症状と栄養失調がすすみ「どうせ死ぬのだから」と苦痛を和らげるアヘンも水も与えられず、やがて世話に訪れた浩のことも誰かわからず錯乱した状態で孤独の内に死亡しました。
その後、親族や従者と引き離され、釈放の許可が出たものの引き取り手がなく、軍の移動に伴い留置所や刑務所を転々としました。
監獄内では、アヘン中毒の禁断症状と栄養失調がすすみ「どうせ死ぬのだから」と苦痛を和らげるアヘンも水も与えられず、やがて世話に訪れた浩のことも誰かわからず錯乱した状態で孤独の内に死亡しました。
アヘンとは
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いわゆる『麻薬』で、ケシの実から採取されるアルカロイドは『オピエート』と呼ばれ、『オピエート』から合成されるものが『オピオイド』です。
麻薬(narcotic)とは、本来このようなオピエートやオピオイドを指します。
アヘンの名の由来は、英語名(opium)の中国語の音訳である『阿片(a piàn アーピエン)』を音読みしたものです。『明』の時代の中国、江戸時代の日本では『阿芙蓉(あふよう)』と書きました。
麻薬(narcotic)とは、本来このようなオピエートやオピオイドを指します。
アヘンの名の由来は、英語名(opium)の中国語の音訳である『阿片(a piàn アーピエン)』を音読みしたものです。『明』の時代の中国、江戸時代の日本では『阿芙蓉(あふよう)』と書きました。
ケシの実から採取される麻薬
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アヘン(阿片、鴉片、opium)は、ケシ(芥子、opium poppy)の実から採取される果汁を乾燥させたものです。ケシの開花10~20日後、花弁が落ちた未熟果(ケシ坊主)の表皮に、朝に浅い切り込みを入れると、乳液状の物質が分泌されるので、夕方に掻き採って集め、乾燥させると黒い粘土状の半固形物になります。
これが「ヘラ掻き」という収穫方法で得る生アヘンです。1kgのアヘンを得るのに約2000本のケシの実が必要ですが、貧しい農民が栽培に従事する非合法栽培地域では現在も「ヘラ掻き」で生アヘンを得ています。有機溶媒で化学的に麻薬成分アルカロイドを抽出・精製する方法が合法的栽培で主流です。
生アヘンは不純物を大量に含み、効き目がモルヒネやヘロインより数段劣るので、価値を高めるにさらに煮出し乾燥させ精製し、モルヒネやヘロインに加工しますが量は20~25%に減ります。
これが「ヘラ掻き」という収穫方法で得る生アヘンです。1kgのアヘンを得るのに約2000本のケシの実が必要ですが、貧しい農民が栽培に従事する非合法栽培地域では現在も「ヘラ掻き」で生アヘンを得ています。有機溶媒で化学的に麻薬成分アルカロイドを抽出・精製する方法が合法的栽培で主流です。
生アヘンは不純物を大量に含み、効き目がモルヒネやヘロインより数段劣るので、価値を高めるにさらに煮出し乾燥させ精製し、モルヒネやヘロインに加工しますが量は20~25%に減ります。
古くは鎮痛・鎮静剤として使用されていた
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ケシの実の乳液は古代から鎮痛・鎮静作用が知られ、医薬品として用いられてきました。紀元前3400年頃、イラクの一部メソポタミアでケシが栽培され、紀元前3000年頃、メソポタミアのシュメール人によるケシの実の乳液が採取されました。
紀元前2000年頃、ケシ栽培がヨーロッパや中東、中央アフリカに伝わり、紀元前1500年頃、鎮痛剤などの薬剤としてエジプトでアヘン製造がされていました。
紀元前300年頃には、一部で遊興的な使用も行われましたが、アヘンはすでに鎮痛剤、睡眠剤として利用されていました。英語名opiumは、この時代のラテン語名opiumを引き継いだものです。
紀元前2000年頃、ケシ栽培がヨーロッパや中東、中央アフリカに伝わり、紀元前1500年頃、鎮痛剤などの薬剤としてエジプトでアヘン製造がされていました。
紀元前300年頃には、一部で遊興的な使用も行われましたが、アヘンはすでに鎮痛剤、睡眠剤として利用されていました。英語名opiumは、この時代のラテン語名opiumを引き継いだものです。
アヘンによって引き起こされた戦争が阿片戦争
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