2019年7月28日 更新

婉容の生い立ちやその最期とは?美人と言われた婉容の人生

ラストエンペラーという言葉を聞いたことはあっても、あまり深く知らない人が多いのではないでしょうか。ラストエンペラーには5人の妻がいましたが、その中でも『婉容』は特別美人だったそうです。しかし最後は壮絶なアヘン中毒で身を崩しました。

目次

嫌な思いやつらい思い、悲しい思いなどの『負』の感情につぶされることなく乗り越えてきた2人には、育った環境が全く違ってもわかりあえるものがありました。

自分にない魅力を感じ、自分にしかできないことで喜ばれることに感動し、一緒に成長を確認できることを嬉しく感じてしまうことは、愛し合う者たちにだけ理解できる感情です。

溥儀にとっては石ころのようにしか感じなかった宝石や豪邸を「もし昔に出逢えていたらうなるほどプレゼントできたのに」と感じる毎日でもありましたが、二人でいることが何よりも幸せでした。

溥儀にとって唯一の恋愛結婚

Wedding Love Happy - Free photo on Pixabay (509629)

男女問わず「性欲を感じる相手」「お気に入りの相手」「愛らしいと感じる相手」はいたとしても、愛し愛されるという恋愛感情を感じ合える相手に出逢ったことがなかった溥儀は、50歳を超えてようやく「人に愛し愛されることがこんなに気持ちいいなんて!」ということを知りました。

だからと言って、若い頃のように無茶をする感情ではなく、お互いに励ましあい労わりあうような「大事に包み込むような愛」で満たされていきました。体の関係はなくても十分に愛し合っていました。

溥儀の死後本を出版

Rose Book Old - Free photo on Pixabay (509631)

溥儀の死後、表舞台に登場する事はなく、独身を通しましたが、溥儀の晩年の行動を残すようになりました。

当時、李淑賢の近所に住み親しくしていた母を持つ、中国の著名な著作家である賈英華は、李淑賢にロングインタビューできたことで『末代皇帝シリーズ』と呼ばれる溥儀の伝記を多く残し世界的にも有名になりました。

李自身も『わが夫、溥儀―ラストエンペラーの妻となって』を著し、1986年、香港でこの本を基に『火龍』という溥儀の戦後から死去までを取り扱った映画が上映され、1997年、北京で死去しました。

溥儀に仕えた女性で唯一アヘン中毒になった婉容

Poppyseed Poppy Seed - Free photo on Pixabay (509636)

貴族出身で「西洋文化のほうが正しい」と教育され、西洋からの家庭教師に自分の名前を「エリザベス」とされることで特別な気分になり、中国文化の本質を見る機会もないまま独特な優越感を持つことになった婉容。

自分自身の努力でつかんだ『運命』による幸運でははなく『宿命』により与えられただけの幸運により、大きな嵐の中に放り込まれるような人生のドアを開けてしまいました。ここではアヘン中毒者となり生きた婉容の晩年について紹介していきます。

「西洋社会に通用する皇后になってほしい」という言葉で結婚を決意

Couple Romance Love - Free photo on Pixabay (509657)

自分の意思とは関係なく、2歳のころから皇帝にならされたりやめさせられたりを繰り返させられ、自分の価値を自分で理解できないまま「西洋の文化のほうが素晴らしい」という教育を施された溥儀。

人を大切にしたり愛したりすることもないまま、どうしようもない悔しさのせいで清朝の復興しか興味を持つことがなく、同志として婉容に興味を持つようになり、直接電話して「西洋社会に通用する皇后になってほしい」とプロポーズしました。

結婚初夜から異例

Sunset Kiss Couple - Free photo on Pixabay (509660)

得体のしれない歴史と環境の中で暮らす大人で、何でもありな性教育を施された溥儀には、女性の美しさや処女性など何の価値も持たないものでした。

セックスどころか男性とお付き合いしたこともなかった婉容は、一般常識の感覚では「新婚初夜は必ずセックスするもの」と疑いもしませんでしたが、そんな一般常識が溥儀に通じるはずはありませんでした。

婉容は「自分に何か落ち度があったのか?」と傷つき落ち込みます。いったい何が起こったかわからないほど暗く衝撃的な新婚1日目が終わりました。

続く窮屈な暮らし

Flower Life Crack - Free photo on Pixabay (509662)

周りに愛され大切にされ、無意識に「自分は特別な女性」と感じ育ってきた婉容は、溥儀と結婚することで、愛されていると感じることも大切にされていると感じることも、必要とされることも特別な女性と思わせてくれるようなこともなくなりました。

溥儀にとって、2人で西洋に留学することが夢になった瞬間に、婉容は、何をしてもどうでもよい存在になってしまいました。婉容は、次第にしたいこともなくなり、とにかく1日をやり過ごすことが課せられ、窮屈で退屈で刺激を求めて彷徨うようになっていきます。

友人が社交界にデビュー

Carnival Mask Masquerade Venetian - Free photo on Pixabay (509664)

紫禁城での暮らしは、想像し待ち望んでいたような西洋社会とはほど遠いものでした。楽しく英語を勉強したり、溥儀と英語のやり取りをしたり、国際社会で通じる皇后になることを待ち望んでいただけにショックだったでしょう。

自由のない窮屈な暮らし、皇后やの溥儀の取り巻きたちからの冷たい目線。そして、天津時代の女友達が社交界に華やかにデビューすると耳にし絶望します。私が誰よりも先に鮮烈デビューするはずだったのにと。

努力しても溥儀の心は掴めなかった

Heartsickness Lover'S Grief - Free photo on Pixabay (509667)

溥儀は、常識では考えられないような環境と大人にかしずかれて生きてきたのですから、貴族の令嬢の婉容がいくら心を掴もうと努力してみても、心を動かされるものは何もなかったのです。

2人を結びつけたのは西洋に留学することだけだったのですから無理もありません。

溥儀は、権力者には媚び、自分の妻になる女性は自分にかしずく女官や宦官などの一人として見ていました。清朝王室を取り戻すこと以外は、溥儀にとって特に気にするような価値はないものだったのです。

1924年クーデターにより紫禁城から追放される

Girl Upset Sad - Free photo on Pixabay (509668)

1911年に起きた『辛亥革命』により、約300年にわたる『清朝王室』が終わり『中華民国』が成立しました。

1924年、第二次奉直戦争の最中に中華民国の首都北京で起こされたクーデター『北京政変』により、溥儀は突然やって来た中華民国軍の使者に 『清帝辞位後の優待に関する条件』 の破棄を申し渡されます。

溥儀は今日より皇帝ではなく、中華民国の一般国民の身分となり、従来中華民国から支給されていたは年450万元は50元に。さらに、紫禁城に住んでいる清の王族は3時間以内に城を出ていくようにとの通達でした。

側室の文繍・溥儀と3人で暮らす

Rose Flower Broken - Free photo on Pixabay (509671)

6 / 7

関連する記事 こんな記事も人気です♪