目次
- 死の天使と呼ばれたヨーゼフメンゲレが求めていたもの
- ヨーゼフメンゲレの生涯
- 1911年裕福な家系に誕生
- 医学にたずさわり功績や実績を上げた
- 第二次世界大戦中にアウシュヴィッツに勤務
- ナチス人種論の熱狂的な信者であった
- 収容所のユダヤ人に人体実験を繰り返した
- クラシック音楽の指揮さながらの作業に人々は恐怖した
- 仲間内からはBeppoという愛称で親しまれた
- アウシュヴィッツ収容所解放直前逃亡
- ドイツ南部に身を潜め農家に住み込んで働く
- 国際手配となるも35年間生き延びる
- 1979年心臓発作によって溺死
- ヨーゼフメンゲレと息子
- 最初の結婚相手イレーネとの間に息子が誕生
- 1956年イレーネと離婚し息子とは離れ離れ
- 元妻と息子はヨーゼフメンゲレに会うためにアルゼンチンを訪れる
- 息子は父が戦犯だと知らなかった
- 父とのやり取りによって殺意を覚える
- 父親が白骨となり発見されるまで同じ地を踏むことは無かった
- ヨーゼフメンゲレと息子のやり取り
- 我々は過ちを犯した
- 決して人に危害をかけたことなどない
- 収容所の実験の科学への寄与を否定できようか
- 全ての種に寛容な世の中が間違っている
- 父親を見逃した理由は「息子だから」
- ヨーゼフメンゲレの功績
- 下顎構造の人種間の差に関する研究で人類学の博士号
- 口唇口蓋裂の家系調査において医学博士号を取得
- 双子の誕生に関する研究に成功していたという噂も
- ヨーゼフメンゲレが行った人体実験
- 血液を大量に抜く
- 熱湯に入れ麻酔なしで手術を行う
- 様々な薬物テスト
- 死に至るまで凍らせる
- 生きたまま解剖する
- 薬品を使い瞳の色を変える実験
- 臓器や四肢・生殖器の転換及び接合
- ヨーゼフメンゲレが双子に固執した理由
- アーリア人を量産するため
- 双子への純粋な興味・好奇心
- 比較対象として優れていた
- ヨーゼフメンゲレが残忍な人体実験を行った理由
- 実験対象を人間だとは思っていなかった
- 生命や人体への興味・関心
- 人殺しではなく研究課程
- これらが許される環境であった
- ヨーゼフメンゲレの目指していたもの
- 優れた民族の世界支配
- 人種の淘汰
- 知的探求心を満たしたい
- 全能感・高揚感に浸り続けたい
- ヨーゼフメンゲレはサイコパスだったのか
- 行った数々の非人道的な行動は良心が欠落している
- 実験対象に共感できなかった
- 自ら行った実験理由をナチスのせいにした
- 実験前に子どもたちを可愛がり自尊心を満たしていた
- 実験への罪悪感が乏しく自己弁護を行っていた
- ヨーゼフメンゲレ以外にも過激な人体実験が存在する
- スタンフォード監獄実験
- MKウルトラ計画
- 731部隊
- 強制マラリア感染
- コーネリアス・ローズが行った癌研究
- 新型タバコ普及は人体実験だという噂も
- 医療の発展と人体実験
- 医療は新しい治療法を開発することによって進歩する
- 寿命が延び続けているのは医療の発展のおかげ
- 動物実験では分かりえない事柄が多数存在する
- 医療の進歩と人体実験の必要性は度々議論され続けている
- 日本では「前向き研究」と呼ばれる臨床試験が存在する
- 倫理観などに配慮しつつ人体実験は現在でも存在している
- 多くの国が行っている動物実験はヨーゼフメンゲレが行った行為そのもの
- ヨーゼフメンゲレは実験対象を人間と認識していなかった
- 現代は動物実験によって人間への安全性を調査している
- 双方に共通するのは実験対象を命として捕らえていないという点
- 死の天使は他にも存在する
ヨーゼフメンゲレは配属直後から、収容されていた人々を使い、過激な人体実験を行います。その内容はあまりに酷く、生命に携わる医者の所業とは思えないものばかりでした。人体実験の対象とされたのは、大人ばかりではなく、非力な女性や妊婦、小さな子供も含まれていたのです。
ヨーゼフメンゲレの人体実験によって、毎日多くの人々が命を落としていきました。そういった日常を目の当たりにしていたヨーゼフメンゲレでしたが、罪の意識は全く見られず、嬉々として取り組んでいたのです。その姿はまるで、クラシックの音楽を指揮しているように優雅で、狂気的だったと言われています。
ヨーゼフメンゲレの人体実験によって、毎日多くの人々が命を落としていきました。そういった日常を目の当たりにしていたヨーゼフメンゲレでしたが、罪の意識は全く見られず、嬉々として取り組んでいたのです。その姿はまるで、クラシックの音楽を指揮しているように優雅で、狂気的だったと言われています。
仲間内からはBeppoという愛称で親しまれた
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現代であれば、ヨーゼフメンゲレの行いに激しい批判が挙がったでしょう。世界各国から非難され、多くの罪に問われる可能性も考えられます。しかし、ナチ党が政権をとっていた時代、ヨーゼフメンゲレの人体実験を咎める人々は存在しませんでした。
人々を、まるで指揮するがごとく殺害し続けたヨーゼフメンゲレは、仲間うちからBeppoという愛称で呼ばれ、親しまれます。Beppoとは、Josef(ヨーゼフ)のイタリア語読みジョゼッペに由来している愛称です。
人々を、まるで指揮するがごとく殺害し続けたヨーゼフメンゲレは、仲間うちからBeppoという愛称で呼ばれ、親しまれます。Beppoとは、Josef(ヨーゼフ)のイタリア語読みジョゼッペに由来している愛称です。
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ナチ党に所属していたものたちは、ナチ党の思想に添っていれば、人々を殺害し続けていても、それらを行う権利を有していると誰もが思っていたと言えるでしょう。
こういった思想は、戦争時どの国でも、どんな組織でも多々見られます。自分たちの思想、理想を叶えるために必要な事だと、自分たちに都合のいい解釈を続け、多くの犠牲者を生みだすのです。宗教でも、同じです。
キリスト教徒は、自分たちが間違っていないと思い込み、ナチ党と同じようにユダヤ人やユダヤ教徒を迫害し続けました。この時代、ヨーゼフメンゲレだけが、異常な言動を行っていたわけではないのです。
こういった思想は、戦争時どの国でも、どんな組織でも多々見られます。自分たちの思想、理想を叶えるために必要な事だと、自分たちに都合のいい解釈を続け、多くの犠牲者を生みだすのです。宗教でも、同じです。
キリスト教徒は、自分たちが間違っていないと思い込み、ナチ党と同じようにユダヤ人やユダヤ教徒を迫害し続けました。この時代、ヨーゼフメンゲレだけが、異常な言動を行っていたわけではないのです。
アウシュヴィッツ収容所解放直前逃亡
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思想や人種の違いによって多くの人々を収容し、残虐な人体実験を行っていたアウシュヴィッツ強制収容所は、第二次世界大戦終戦間際の1945年1月17日に、ソ連赤軍によって解放されます。つまり、ヨーゼフメンゲレが所属していたナチスの敗戦であり、ヨーゼフメンゲレが行ってきたことが、戦犯として咎められる事態となったのです。
ソ連赤軍がアウシュヴィッツ強制収容所を開放する数日前、ヨーゼフメンゲレは逃亡します。ナチスの敗戦を確信し、自身の保身に走ったのです。
ソ連赤軍がアウシュヴィッツ強制収容所を開放する数日前、ヨーゼフメンゲレは逃亡します。ナチスの敗戦を確信し、自身の保身に走ったのです。
ドイツ南部に身を潜め農家に住み込んで働く
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ヨーゼフメンゲレは、第二次世界大戦終戦間際、国防軍兵士になりすまし、病院部隊に身を隠しました。もちろん、自分の素性を偽ってです。一度、アメリカ軍の捕虜となったものの、ナチス親衛隊特有の刺青がなかったことから、アメリカ軍はヨーゼフメンゲレの素性を知ることもなく、その後解放します。
解放されたヨーゼフメンゲレは、出身地に近いドイツ南部の村に潜伏しました。そこでも、自らの素性を偽り、住み込みで農家の手伝いをして生活します。
解放されたヨーゼフメンゲレは、出身地に近いドイツ南部の村に潜伏しました。そこでも、自らの素性を偽り、住み込みで農家の手伝いをして生活します。
国際手配となるも35年間生き延びる
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ヨーゼフメンゲレがドイツ南部で潜伏していた当時、アウシュヴィッツ強制収容所の同僚たちは被告人として裁判で裁かれていました。裁判では、ヨーゼフメンゲレの名前が取り上げられたものの、既に死亡しているとされます。ヨーゼフメンゲレ以外の医者たちは、1948年処刑されました。
当時の仲間たちが処刑された翌年、ヨーゼフメンゲレはアルゼンチンに逃亡します。ヨーゼフメンゲレの逃亡は、裕福な実家が支援していたようです。実家の支援を受け、薬品会社の経営者として生活し、逃亡生活を続けました。
一度は死亡していると思われたヨーゼフメンゲレでしたが、生きていることが発覚し、国際指名手配を受けます。生存が発覚した理由は、1度目の妻との離婚がきっかけです。。国際指名手配を受けたヨーゼフメンゲレでしたが、その後35年間も裁かれることなく逃亡生活を続けました。
当時の仲間たちが処刑された翌年、ヨーゼフメンゲレはアルゼンチンに逃亡します。ヨーゼフメンゲレの逃亡は、裕福な実家が支援していたようです。実家の支援を受け、薬品会社の経営者として生活し、逃亡生活を続けました。
一度は死亡していると思われたヨーゼフメンゲレでしたが、生きていることが発覚し、国際指名手配を受けます。生存が発覚した理由は、1度目の妻との離婚がきっかけです。。国際指名手配を受けたヨーゼフメンゲレでしたが、その後35年間も裁かれることなく逃亡生活を続けました。
1979年心臓発作によって溺死
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約35年間逃亡生活を続けたヨーゼフメンゲレは、1979年心臓発作を起こし溺死しました。死亡した当時は、ヨーゼフメンゲレ本人と発覚しませんでしたが、1992年遺骨のDNA鑑定によって、死亡した男性がヨーゼフメンゲレであったことがわかります。
周囲の人々は、悪名高いヨーゼフメンゲレと、死亡した男性が同一人物であったことに驚いたようでした。気さくで礼儀正しく、「何かの間違いだ」と発言する人や、「あのような残虐行為は命令され仕方なくやった」などと、援護する声も挙がったほどです。
しかし一部の証言では、小さな物音にも過敏に反応し、追跡に怯えていたようだといったものもあります。ヨーゼフメンゲレは逃亡中、悠々自適に人生を謳歌していたわけではなかったのです。
周囲の人々は、悪名高いヨーゼフメンゲレと、死亡した男性が同一人物であったことに驚いたようでした。気さくで礼儀正しく、「何かの間違いだ」と発言する人や、「あのような残虐行為は命令され仕方なくやった」などと、援護する声も挙がったほどです。
しかし一部の証言では、小さな物音にも過敏に反応し、追跡に怯えていたようだといったものもあります。ヨーゼフメンゲレは逃亡中、悠々自適に人生を謳歌していたわけではなかったのです。
ヨーゼフメンゲレと息子
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ヨーゼフメンゲレの人体実験や、過激な思想は広く知られているものの、それ以外の情報について、深く知らない人も多数存在します。そのため、「死の天使」「サイコパス」という印象のみになってしまうのです。
ヨーゼフメンゲレは複数回結婚もしていましたし、息子もいました。ここからは、知らない人も多いヨーゼフメンゲレの結婚や、息子との関係性についてご紹介していきましょう。
ヨーゼフメンゲレは複数回結婚もしていましたし、息子もいました。ここからは、知らない人も多いヨーゼフメンゲレの結婚や、息子との関係性についてご紹介していきましょう。
最初の結婚相手イレーネとの間に息子が誕生
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1939年、ヨーゼフメンゲレはイレーネという女性と結婚します。当時すでにナチ党に入党していたヨーゼフメンゲレの結婚には、ナチス親衛隊、別名「SS」の許可が必要でした。ナチ党に反発的な人物ではないか、宗教や人種なども調べられたと考えられます。
しばらくすると、イレーネとヨーゼフメンゲレの間に、息子が誕生しました。名前は、ルドルフです。ヨーゼフメンゲレは、結婚の翌年からナチ党武装親衛隊に所属し、戦地を歩いていたため、息子と過ごす時間も、妻と過ごす時間もそれほど多くなかったと考えられます。
しばらくすると、イレーネとヨーゼフメンゲレの間に、息子が誕生しました。名前は、ルドルフです。ヨーゼフメンゲレは、結婚の翌年からナチ党武装親衛隊に所属し、戦地を歩いていたため、息子と過ごす時間も、妻と過ごす時間もそれほど多くなかったと考えられます。
1956年イレーネと離婚し息子とは離れ離れ
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結婚の翌年から戦地に積極的に出向き、さらにアウシュヴィッツ強制収容所の主任医になったヨーゼフメンゲレは、家族との時間をそれほど多くもうけることはできませんでした。それでも、長い間離婚せず、婚姻関係を続けます。2人が離婚したきっかけは、イレーネの希望でした。
1956年、イレーネからヨーゼフメンゲレのもとに離婚の要望が届きます。すでにナチ党が率いたドイツが敗戦し、ヨーゼフメンゲレはアルゼンチンへ逃亡していました。偽名を使い、逃亡生活を続けていたヨーゼフメンゲレでしたが、妻との離婚の際、本名で書類の記載を行います。
この行為で、死亡していたと思われていたヨーゼフメンゲレの生存が発覚し、最終的に国際指名手配となりました。この時、逃走中のヨーゼフメンゲレが妻の要求に応え、離婚に応じた理由は明らかになっていませんが、逃亡中の偽名を使う事に疲れていたことや、妻を思いやったとも言われています。
1956年、イレーネからヨーゼフメンゲレのもとに離婚の要望が届きます。すでにナチ党が率いたドイツが敗戦し、ヨーゼフメンゲレはアルゼンチンへ逃亡していました。偽名を使い、逃亡生活を続けていたヨーゼフメンゲレでしたが、妻との離婚の際、本名で書類の記載を行います。
この行為で、死亡していたと思われていたヨーゼフメンゲレの生存が発覚し、最終的に国際指名手配となりました。この時、逃走中のヨーゼフメンゲレが妻の要求に応え、離婚に応じた理由は明らかになっていませんが、逃亡中の偽名を使う事に疲れていたことや、妻を思いやったとも言われています。
元妻と息子はヨーゼフメンゲレに会うためにアルゼンチンを訪れる
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逃亡中、ヨーゼフメンゲレは一度だけドイツを訪れました。イレーネの離婚に応じるためです。ドイツを訪れイレーネと離婚した2年後の1958年、ヨーゼフメンゲレは再婚をします。相手は、実弟の妻であったマルタです。
カールメンゲレは死亡していたため、マルタは未亡人でした。マルタは、ヨーゼフメンゲレが死亡するまで、生活を共にします。一方、離婚したイレーネとその息子は、ヨーゼフメンゲレに会うため、逃亡先のアルゼンチンを訪れました。
カールメンゲレは死亡していたため、マルタは未亡人でした。マルタは、ヨーゼフメンゲレが死亡するまで、生活を共にします。一方、離婚したイレーネとその息子は、ヨーゼフメンゲレに会うため、逃亡先のアルゼンチンを訪れました。
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