目次
- 警察の職務怠慢が問題視された樋川ストーカー事件
- 樋川ストーカー事件の概要
- 1999年1月主犯男性・小松和人と被害者女性が出会い交際
- 週に1度の食事・ドライブデートを楽しんでいた
- 和人が被害者女性に高級プレゼントを贈るようになる
- 被害者女性はプレゼントを拒否すると小松が逆上
- 和人が偽名を名乗っていることを知る
- 和人の自宅に行った際にビデオカメラを発見する
- 被害者女性への束縛が激しくなる
- 被害者女性が別れ話を切り出す
- 和人は交際断続の強要を行う
- 被害者女性の友人に不審な電話
- その後も別れ話を何度も切り出す
- 被害者女性の自宅に小松ら3人が訪れる
- 被害者両親が被害を警察署に申告
- 和人らが被害者女性の殺害を計画
- 被害者関係各所にビラがばら撒かれる
- 署員が告訴の取り下げを願う
- 被害者女性が友人に対し「殺される」と漏らす
- 1990年10月26日被害者女性が犯人グループに刺される
- 被害者女性の死亡が確認される
- 樋川ストーカー事件の犯人と判決
- 小松和人
- 小松和人の兄・武史
- 久保田祥史
- 輸送役A・見張り役B
- ビラ撒きなどの迷惑行為をした12人
- 事件当日の犯人たちの動き
- 1990年10月25日犯人グループが現場を下見
- 26日午前8時久保田・A・Bが合流し樋川に到着
- Aは久保田に「太ももを狙え」と指示
- 午後0時53分久保田が被害者女性を刺す
- 久保田は動揺を隠せなかった
- 午後5時3人は武史と合流し報酬を受け取る
- 武史は3人に逃亡を指示する
- 犯行グループの逮捕
- 和人は北海道で自殺
- 樋川ストーカー事件の真相
- 和人は被害者女性に対し職業を偽っていた
- 事件当時和人はアリバイ作りのため沖縄に居た
- 10月18日に被害者の拉致を計画していた
- 母親が娘の死を知ったのは数時間後だった
- 自殺した和人のリュックには遺書が入っていた
- ストーカー被害の告訴状を被害届に改ざんしていた
- 警察は火消しの為にマスコミに意図的な情報を流した
- 当時報道されていた内容
- 被害者女性はブランド依存症
- 被害者女性は風俗嬢の女子大生
- 上尾警察署の粗末な対応
- 被害者家族への対応
- 被害者家族についた「嘘」
- 主犯・小松和人に対して
- 問題の記者会見
- 記者会見を行った片桐敏男について
- 埼玉県警の刑事2課長
- 懲戒免職になる
- 実行犯の居場所を暴いたのは当時の週刊誌記者だった
- 樋川ストーカー事件の事実を暴いた
- 清水潔の情報提供により犯人逮捕に至った
- 世間に樋川ストーカー事件を周知させた
- 清水潔が執筆した「樋川ストーカー殺人事件ー遺言」
- 樋川ストーカー事件のその後
- ストーカー規制法が制定
- 加害者および家族に対し損害賠償請求訴訟を起こす
- 埼玉県警に対し国家賠償請求訴訟を起こす
- 被害者家族「娘は3度殺された」
- 樋川ストーカー事件のドラマ化
- 実録ドラマ遺言 樋川ストーカー殺人事件
- ひまわり 樋川女子大生ストーカー殺人事件
- ザ!世界仰天ニュースでの放映により炎上
- SNSで多くの意見が寄せられる
- 上尾警察署に電話をかける人々も現れた
- 樋川ストーカー事件を知った人々の声
- ・被害者を擁護すべき
- ・報道被害
- ・警察の不信
- 日本で起きたストーカー事件
- 三鷹ストーカー殺人事件
- 逗子ストーカー殺人事件
- 樋川ストーカー事件を風化させてはいけない
そして、1990年10月26日、被害者女性は大学に行くため家を出ました。自転車で駅に向かい、ショッピングセンターのそばで自転車を止めました。この日、怯え続けた彼女は、彼女が何度も繰り返していた「死」という形で終えるのです。
樋川駅の歩道上で、背後から迫ってきた男に、まず背中を刺され、続いて胸部を刺されました。被害者は悲鳴をあげて倒れ、犯人はその場から逃走。このとき目撃者から「ひったくり」と声が上がり、付近で店を経営する男性が犯人を追ったが、捕らえることはできませんでした。
樋川駅の歩道上で、背後から迫ってきた男に、まず背中を刺され、続いて胸部を刺されました。被害者は悲鳴をあげて倒れ、犯人はその場から逃走。このとき目撃者から「ひったくり」と声が上がり、付近で店を経営する男性が犯人を追ったが、捕らえることはできませんでした。
被害者女性の死亡が確認される
via pixabay.com
刺された被害者は、上尾中央総合病院へ搬送されましたが、午後1時30分に死亡が確認されました。死因は大量出血によるショック死で、死亡推定時刻は事件が発生した午後0時50分とされています。
幾度となく警察に相談し、告訴状まで提出したにも関わらず、警察は動こうとはしませんでした。告訴状を出されると面倒くさい手続き等があるから被害届にしようと画策するなど、市民の安全を守るための警察が何もしなかった結果、一人の女性が殺されてしまったのです。
幾度となく警察に相談し、告訴状まで提出したにも関わらず、警察は動こうとはしませんでした。告訴状を出されると面倒くさい手続き等があるから被害届にしようと画策するなど、市民の安全を守るための警察が何もしなかった結果、一人の女性が殺されてしまったのです。
樋川ストーカー事件の犯人と判決
via pixabay.com
樋川ストーカー事件とは、女子大学生が元交際相手の男を中心とする犯人グループから嫌がらせ行為を受け続けた末、1999年10月26日に埼玉県桶川市のJR東日本高崎線桶川駅前で殺害された事件です。
その犯人とグループは一人を除き、逮捕・起訴されています。そして残りの一人は自殺という結末を迎えています。卑劣なストーカー事件を起こした犯人グループとはいったいどんな人達なのか、そして起訴された結果、どんな判決が下されたのでしょうか。
その犯人とグループは一人を除き、逮捕・起訴されています。そして残りの一人は自殺という結末を迎えています。卑劣なストーカー事件を起こした犯人グループとはいったいどんな人達なのか、そして起訴された結果、どんな判決が下されたのでしょうか。
小松和人
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小松和人氏は「自分では手を下さない、金で動く人間はいくらでもいるんだ」が口癖だったそうですが、実際に執着していた被害者女性の殺害も金を使って人に殺害させています。2000年1月26日に名誉棄損罪で指名手配されましたが、犯行後実に2か月以上もの間逃亡を続けたことになります。
そして指名手配が為された翌日の2000年1月27日に北海道屈斜路湖畔にて遺体で発見されます。小松和人氏は遺書を残しており、その内容は自身の泣き言と小松和人氏の両親に宛てた保険金に関することが書かれていたそうです。小松和人は自殺しており、名誉棄損の責任を問われることはありませんでした。
そして指名手配が為された翌日の2000年1月27日に北海道屈斜路湖畔にて遺体で発見されます。小松和人氏は遺書を残しており、その内容は自身の泣き言と小松和人氏の両親に宛てた保険金に関することが書かれていたそうです。小松和人は自殺しており、名誉棄損の責任を問われることはありませんでした。
小松和人の兄・武史
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小松和人の兄である武史は、小松和人の指示を受けて風俗店店長で元暴力団員のほか1人に対し、2000万円という報酬を提示して被害者の殺害を依頼したと言います。小松武は逮捕後、一貫して事件への関与を否定し続けましたが2002年12月25日、検察の求刑通りの無期懲役の判決が下されました。
小松武史は控訴し、一審では否認していた被害者への危害行為の共謀を認めたうえで殺意を否認して傷害致死の適用を求めるも2005年12月20日、東京高裁は地裁判決を支持し控訴を棄却。即日上告するも2006年9月5日、最高裁第2小法廷は上告を棄却し、無期懲役が確定しました。
小松武史は控訴し、一審では否認していた被害者への危害行為の共謀を認めたうえで殺意を否認して傷害致死の適用を求めるも2005年12月20日、東京高裁は地裁判決を支持し控訴を棄却。即日上告するも2006年9月5日、最高裁第2小法廷は上告を棄却し、無期懲役が確定しました。
久保田祥史
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実際に被害女性を殺害を行ったのは久保田祥治で、その他には久保田祥治を輸送する役や、見張り役をするものがいました。また小松和人氏の兄である小松武史は上記の3人に、小松和人から受け取った報酬を使って犯行を指示していたようです。
実行犯であった久保田祥史は、最初に逮捕され起訴。判決は懲役18年でした。判決後、それまでの供述調書の内容を全て撤回したうえで、殺人ではなく傷害致死であると主張し控訴していましたが、「思い残すことはない」として突然控訴を取り下げ、地裁判決を確定させています。
実行犯であった久保田祥史は、最初に逮捕され起訴。判決は懲役18年でした。判決後、それまでの供述調書の内容を全て撤回したうえで、殺人ではなく傷害致死であると主張し控訴していましたが、「思い残すことはない」として突然控訴を取り下げ、地裁判決を確定させています。
輸送役A・見張り役B
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久保田祥史を輸送するために雇われた輸送役A、見張り役Bがいましたが、この犯行グループの人物たちは首謀者の小松和人に金で雇われた人物でした。
小松和人の兄である武史は、3人に逃亡を指示するとともに実行犯の久保田に1000万円、輸送役Aと見張り役Bに400万円ずつが報酬として渡されました。実行犯が逮捕された翌日に輸送役A・見張り役Bは逮捕され、起訴。輸送役A、見張り役Bには、それぞれ懲役15年の判決が下され刑が確定しています。
小松和人の兄である武史は、3人に逃亡を指示するとともに実行犯の久保田に1000万円、輸送役Aと見張り役Bに400万円ずつが報酬として渡されました。実行犯が逮捕された翌日に輸送役A・見張り役Bは逮捕され、起訴。輸送役A、見張り役Bには、それぞれ懲役15年の判決が下され刑が確定しています。
ビラ撒きなどの迷惑行為をした12人
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犯行グループで最初に逮捕されたのは実行犯の久保田祥史で、12月19日のことでした。さらに翌20日は小松武史、輸送役A、見張り役Bがいずれも殺人容疑で逮捕されています。この4人は翌2000年1月6日に起訴されていますが、1月16日には新たに8人が名誉毀損容疑で逮捕されました。
そして先に逮捕されていた4人も同容疑で再逮捕されており、小松和人は同日に名誉毀損容疑で全国に指名手配されていて、ビラ撒きなどの迷惑行為をしたとして12人が逮捕・指名手配されました。
そして先に逮捕されていた4人も同容疑で再逮捕されており、小松和人は同日に名誉毀損容疑で全国に指名手配されていて、ビラ撒きなどの迷惑行為をしたとして12人が逮捕・指名手配されました。
事件当日の犯人たちの動き
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桶川ストーカー殺人事件は、白昼堂々と、小松和人という異常な人間に関わったことで、一人の女子大生が小松和人氏による用意周到な殺人計画や、悪質極まりないストーカー行為によって殺された卑劣な事件でした。
「自分では手を下さない」という言葉を口癖にしており、お金を使って人に殺人を依頼し自分はアリバイを作っていた小松和人。そしてお金で雇われ殺人という犯行を実行したグループは、一体事件当時、どんな動きをしていたのでしょうか。
「自分では手を下さない」という言葉を口癖にしており、お金を使って人に殺人を依頼し自分はアリバイを作っていた小松和人。そしてお金で雇われ殺人という犯行を実行したグループは、一体事件当時、どんな動きをしていたのでしょうか。
1990年10月25日犯人グループが現場を下見
via pixabay.com
実行犯である久保田祥史は、小松武史から「悪い女がいるので殺ってほしいと依頼された」と供述しています。その小松武史の職業は東京消防庁の職員で、事件の翌日に電話で辞意を伝えていたそうですが、現職の消防士である裏の顔は、風俗店のオーナーでした。
そんな犯行グループは、事件の前日である1990年10月25日、殺害実行犯の久保田祥史、輸送役のAと風俗店店員であり見張り役のBが犯行現場を下見するなど用意周到でした。
そんな犯行グループは、事件の前日である1990年10月25日、殺害実行犯の久保田祥史、輸送役のAと風俗店店員であり見張り役のBが犯行現場を下見するなど用意周到でした。
26日午前8時久保田・A・Bが合流し樋川に到着
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