2019年9月23日 更新

勝田清孝事件の詳細や裁判の様子!史上最悪の連続殺人事件の真相とは

勝田清孝という人物をご存知でしょうか。勝田清孝は、日本でも最悪な連続殺人犯です。ここまでは勝田清孝がどういった犯罪を行って史上最悪と言われいるかなど紹介します。生い立ちや連続殺人事件の詳細や逮捕されてからの裁判の様子なども紹介していきます。

目次

Book Bible Study Open - Free photo on Pixabay (634712)

この時に弁護士を務めていたのは、伊藤静雄と花井増実という弁護士でした。この2名は1987年6月30日に死刑制度の違憲性を主張するために色々模索します。しかし、その違憲性を立証するために、必要な証拠調べの採用自体を却下されます。

却下された事に対して、両弁護士は公正な裁判が行われない恐れがあるとして、名古屋市高裁にて、控訴審を担当している人達に対して、忌避を申し立てました。

しかし、名古屋高裁は弁護人の証拠申請を却下したからといって、不公平な裁判をする恐れはないとして申し立てを却下をし、弁護士の異議申し立てを退けました。

被告人と弁護士の控訴を棄却

Fire And Water Fight Hands - Free image on Pixabay (634734)

その後も勝田の弁護士団は諦めず、1987年9月9に開かれた第5回公判で、弁護人が死刑制度の違憲性の主張を立証するために作家や元刑務官を証人に、約5名分の証人申請します。

この際に弁護人は、死刑囚の苦悩や、死刑制度に対する、国民の感情の変化を立証したいと述べましたが、検察側は証人尋問は必要ないとして申請却下を求めました。

弁護団はそれでも諦めず、今後最終弁論までに14人の証人申請を行います。しかし全て却下された為、控訴審でも死刑判決が支持されるだろうと予想できました。

そして、1988年2月19日に名古屋高裁で控訴審判決公判が開かれました。やはり名古屋高裁は、第一審・死刑判決を全面的に支持し、被告人と弁護人側の控訴をすべて棄却する判決を言い渡しました。

上告審の流れ

Law Books Legal - Free photo on Pixabay (634752)

勝田は、1988年2月19日の控訴審判決の判決にて、裁判が納得出来ず、上告することになります。その流れを紹介していきます。

上告をする

Communication Head Balloons - Free image on Pixabay (634768)

勝田は、控訴審での裁判終了後、弁護士に対し【死刑違憲論での審理に期待していたが、名古屋高裁はあれだけの証人申請を出したのに承認せず、納得出来るものではなかったと不満を語ります。

なので勝田は、控訴審での判決を不服として、自ら上告状を作成し、1988年3月2日付で最高裁判所に上告の申し立てを行います。

もちろんこの際に付いていた弁護士も、死刑は違憲であると確信していて、上告をして争うべきだとコメントしました。

検察側は棄却を求める

Judge Court Gavel - Free image on Pixabay (634785)

そして、1993年11月4日に最高裁第一小法廷にて、上告審口頭弁論公判が開かれました。同日の公判で弁護人は、あらためて、日本国憲法第36条を根拠に死刑違憲論を展開します。その上で、死刑判決の破棄を求めます。

一方で検察側は、殺人7件の自白・反省の念を考慮したとしても死刑に処する以外にはないとして、勝田の上告棄却を求めました。

それを受けて、最高裁第一小法廷は、犯罪が凶悪で、犯行を深く悔悟している事を考慮したとしても、一・二審の死刑判決はやむを得ないとして、勝田の上告を棄却する判決を言い渡しました。

逮捕から11年ぶりに死刑確定

Guillotine Case Resolution Capital - Free photo on Pixabay (634806)

これにより、上告審でも死刑判決の判決が覆ることがなかったため、逮捕から約11年ぶりに死刑が確定することになりました。

この判決も世間から高い注目を浴びており、この裁判には社会見学の子どもたちも傍聴していたそうです。しかし、開廷からわずか数十秒後には上告棄却の判決主文が言い渡されます。

注目度の高い事件にしてはあっけない結末ではあったと思いますが、それだけ世間的にも死刑以外に刑はないという凶悪な事件であったことには、間違いありません。

判決の訂正を求めるも棄却

Judge Football Red Card - Free vector graphic on Pixabay (634817)

上告審の判決を言い渡し後、勝田の弁護団は記者会見にて、ある程度は予想していた判決でしたが、日本は国際連合人権規約委員会からは、死刑の廃止を勧告されている。このような情勢の中で、国民の感情だけを根拠に死刑を存続させるのは時代に合わない。と話したといいます。

勝田はというと、1994年1月26日に最高裁判決を不服として最高裁第一小法廷に判決を訂正するよう申し立てします。しかし、同小法廷から【裁判官5人全員一致の結論】で棄却決定が出されます。そして、1994年2月5日に勝田宛てに死刑版権における決定書が届いたことで正式に死刑判決が確定しました。

死刑執行までの勝田

Lonely Man Sitting - Free photo on Pixabay (634826)

死刑判決が出た勝田は、今後死刑執行まで刑務所で過ごすことになります。その際の勝田はどういう生活をしていたのでしょうか。

腰痛などで寝たきり状態

Mattress Bed Pillow - Free photo on Pixabay (634834)

勝田は、死刑判決が出されてから、約1年後に死刑執行が行われています。その際、名古屋拘置所に収監されていた勝田は、重度の腰痛に悩まされており、ほとんど寝たきりの状態だったといいます。

死刑が宣告されるのは、執行の当日の朝9時頃と言われていますが、その環境に耐えられなくなってしまったのでしょうか。死刑執行2日前までは、義姉と面会をしていました。

その際の勝田は、義姉に対して腰の不調を訴えており、義姉いわく「辛そうな様子」だったと話しています。

20世紀最後の死刑執行

Hanging Lynch Lynching - Free vector graphic on Pixabay (634849)

そしてついに、2000年11月30日、法務省から発令された、死刑執行命令により、収監先の名古屋拘置所にて勝田清孝は死刑を執行されました。このとき、もう1名死刑執行がされました。その人物は、福岡拘置所で佐賀隣人一家殺人事件を起こした人物です。

このとき、勝田清孝は52歳でした。また、これが20世紀最後の死刑執行となりました。この死刑執行の前には、勝田清孝の助命を求める宗教家など、2516人から集めた嘆願書名簿を法務大臣に提出したことをなども明かされています。

5 / 7

関連する記事 こんな記事も人気です♪