2019年9月23日 更新

勝田清孝事件の詳細や裁判の様子!史上最悪の連続殺人事件の真相とは

勝田清孝という人物をご存知でしょうか。勝田清孝は、日本でも最悪な連続殺人犯です。ここまでは勝田清孝がどういった犯罪を行って史上最悪と言われいるかなど紹介します。生い立ちや連続殺人事件の詳細や逮捕されてからの裁判の様子なども紹介していきます。

目次

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1983年5月27日午後1時15分から名古屋地裁刑事第4部にて、勝田清孝の初公判が開かれました。当時、事件の裁判に当たっていた検察官は宇野博・小久保勝両検事で、弁護人は国選の村瀬武司という人物でした。

この人達がそれぞれ立ち合い、勝田は罪状認否についてこの時点で起訴されていた数々の事件のうち、ある1つの事件に関してのみ殺意を否認しました。しかし、それ以外の事件については、大筋で起訴上の事実を認めました。

弁護人の発言

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この時の弁護人の村瀬武司は、被告人である勝田は現時点で起訴されている全ての犯行時について、家庭や愛人の問題、借金の返済などで出費が増大しており、かつ収入が不安定だったことをあげました。

さらにこの状態が続いた事から、勝田は長い間、ノイローゼ状態であったと主張し、完全責任能力を否定しました。全く勝田には、非がなく事件を起こしてもしょうがない精神状態だったと弁論した訳です。

その後、検察側からは、約15,000字にのぼる冒頭陳述で勝田の生い立ち・犯行動機・犯行経緯などを述べました。その後、113号事件以前の数々の強盗や殺人事件などに関しても、追起訴されていきました。

22人の殺害を自供

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その後も裁判は続き、公判途中に勝田は男性3人・女性5人の計8人の殺害を自供していました。また、このうち男性3人の殺人に関しては、既に起訴がされ公判で審理されていました。しかしそれとは別に、まだ10人位女性を殺していて、最終的には22名位になると思う、最初の殺人は自分が16歳か17歳の事でした。

場所は京都府相楽郡木津町近辺で犯したなどと供述しました。しかし、それまでに自供した8件の殺人と比較して、犯行の時間・場所などの記憶が曖昧な面が多数見られ、結局は立件する事が出来ませんでした。

そして1983年10月26日、同所名古屋地裁刑事第4部で開かれた第5回の公判にて勝田は多数の男女を殺害した事は、申し訳ない気持ちでいっぱいだ。と述べる形で初めて、涙も流したといいます。

1985年の論告求刑公判

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1985年11月26日、名古屋地裁で開かれた第22回論告求刑公判が行われました。この公判において検察側からは前半・後半両事件において死刑を求刑されました。

論告において検察側は、【被告人である勝田は、残酷に犯行を重ね、前半での事件においては男女7人を無差別に殺害するなど冷酷性を極めている。後半事件も、さらに1人を殺害するなど更に残忍性を強め、犯行から犯行までの再犯速度も速めており、もはや矯正は不可能であり極刑が相当だ】と主張しました。

1985年の弁護人の発言

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次の公判は1985年12月16日でした。第23回公判で弁護人による最終弁論です。初公判の1983年5月から2年7か月ぶりの事でした。

この際弁護人は、最終弁論で「各事件での計画性のなさや、勝田は犯行当時では完全な責任能力のない心神耗弱状態であったこと、8件中7件の殺人を自供した事は自首に該当するなどと主張した上で、勝田には反省の念がある事を主張しました。

また、死刑制度の違憲性などの点から、死刑ではなく、無期懲役の量刑選択が妥当を訴えました。また、勝田は最終意見を述べる際、名古屋拘置所内で綴った手記を提出した上で、被害者や遺族に対する謝罪の言葉を述べました。

死刑判決が言い渡される

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勝田が引き起こした数々の殺人事件については、残酷性も強く、弁護士がいくら心神耗弱状態であったと訴えたとしても中々世間的には受け入れられるものではありませんでした。

弁護士の他にも、死刑制度反対派の支援者達は何名かおり、死刑判決を棄却しようと様々な行動を取った人もいたようです。しかし、その努力は虚しく、1986年3月24日に死刑判決が正式に言い渡されます。

この時の判決理由で名古屋地裁は、一連の事件を【果てしない虚栄心・物欲を満たすために、犯罪の拡大・再犯を行い、大胆で悪質・残虐だ】と伝えています。

控訴審公判の流れ

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死刑判決が確定する前に、勝田の弁護士は第一審の判決に対して不服申立てをします。これにより、控訴審公判になっていきます。その流れを紹介していきます。

弁護人が勝田を説得後、控訴

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今回の事件の弁護士にあたっていた、村瀬武司弁護士は勝田の死刑判決にどうしても納得をすることが出来ませんでした。死刑判決が出されたとき、村瀬弁護士は名古屋拘置所内で2日間にわたり、控訴について勝田を説得したといいます。

最初勝田は、控訴に消極的な態度も見せていました。しかし、裁判が勝田に裁量の余地を全く見出さなかった事を村瀬弁護士に諭されて、勝田は控訴すべきだろうと思います。

そうして、1986年3月28日午前11時過ぎに事実誤認と量刑不当を理由にして、名古屋高等裁判所に控訴しました。

弁護人の主張

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控訴した弁護士にも、控訴したなりの主張はあります。その主張の理由は3点あります。1つ目は、犯行当時、勝田は心神耗弱状態だったとする主張が認められず、完全に責任能力があったという事実誤認がなされた事です。

2つ目は、死刑判決は勝田の反省の情を十分に評価してくれていないという点で量刑が不当であり、死刑は日本国憲法第36条で固く禁止された残酷な刑罰だという点です。

3つ目は、一連の連続殺人のうち7件の事件については、勝田が捜査中に自供した為、弁護人は自首が成立するため量刑を軽減に値すると主張しましたが、判決は1件の事件しか自首を認定しなかったことなどを挙げています。

1987年控訴審初公判

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1987年3月30日午前頃に、名古屋高等裁判所で控訴審初公判が開かれました。ここで弁護士は、8人の殺害のうち、113号事件で殺害した1人を除く被害者7人は、勝田が捜査段階において進んで自供したため自首が成立する上、残る113号事件の1人殺害も殺意はなかったので、反省の情を酌量して欲しいと主張します。

しかし、検察側はまれにみる連続殺人犯であり、死刑を持って臨む他ないと主張し、死刑判決支持・被告人側の控訴棄却を求めました。

死刑制度の違憲性を主張するが申請却下

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