2019年9月6日 更新

殺人ピエロ・ジョンウェインゲイシーの生い立ちや最期の瞬間

ジョンウェインゲイシーという名前を聞いたことがなくても「ピエロの殺人鬼」と言えば思い当たるフシがある人は少なくないでしょう。子供たちを楽しませるためのピエロを恐怖のイメージに塗り替えてしまうほど身の毛もよだつ殺人事件を起こしたジョンウェインゲイシーに迫ります!

目次

死体置き場の行為については否定

Halloween Skull Skeleton - Free photo on Pixabay (590472)

少年の遺体に興奮するようになり始めたジョンは、若者の死体を見ると胸が疼き、それも少年の死体だと異様な感覚に支配され始めていたのです。

仕事に慣れてくると、自分の気に入った少年の死体が入った棺の中に潜り込み、死体の皮膚に身を寄せ添い寝していました。ジョンがアルバイトを辞めたのは母親が探しに来たからだけではなく、この行為が発覚したせいでもありました。

ジョンは「死体置場には住んでいたが、死体と一緒に寝ていたことや死体と性交していたというのは大嘘であり、マスコミによって作り上げられたものである」と話していましたが、今となっては誰もが「ジョンが嘘をついていた」としか思わないでしょう。

セールスマンとして優秀な成績を残す

Business Man - Free vector graphic on Pixabay (590475)

ジョンは、ハイスクール卒業後に、一時期家を出てラスベガスで働き始めましたが、その後シカゴの実家へ帰郷し、ノース・ウェスタン・ビジネス短期大学に入学し、無事卒業しました。卒業後は『ナン・ブッシュ・シューカンパニー』に入社し、マネージャー見習いとして働き始めました。

話し好きで仕事熱心なジョンはたちまち出世し、大きな紳士用品の店長を任されるようになりました。ジョンは「自分の仕事に対する熱意の前には、小太りでチビなどという肉体的な欠点など何の生涯にもならない」と、すっかり自信をつけていました。

22歳で結婚

Marriage Bridal Wedding - Free photo on Pixabay (590477)

大手靴販売店のセールスマンとして就職し、入社して間もなく抜群の営業成績を上げたことで、若くしてエリアマネージャーに抜擢されたジョンは、1964年9月、22歳のジョンは同僚の美人社員『マリリン・マイヤーズ』にプロポーズし結婚しました。

マリリンの父は、地元ではかなり成功した実業家で、この一帯のケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズを買収した義理の父は、やる気に満ち溢れた義理の息子に3店舗のマネージャーを兼任させたほどでした。

青年会議所の次期会長選出候補

Application Request Candidacy Job - Free photo on Pixabay (590481)

ビジネスに地域活動に八面六臂の活躍をし人望も厚かったジョンは、ビジネスマンとして多忙を極める中、1年間で青年会議所の多数のプロジェクトを立案・実行にあたるなどし、青年会議所の次期会長選出が確実視されていました。

地元でのボランティア活動にも積極的に加わり、常に精力的に動き回る青年会議所(United States Junior Chamber)の有力会員でもあり、会議所の貯蓄販売券の販売でも優秀な成績を残し、その2年後には州全体で3番目の活動実績を挙げたとして第一部長に就任しています。

「眠らない男ゲイシー」として人望を集める

Fantasy Light Mood - Free photo on Pixabay (590485)

青年商工会議所でも積極的に行動し、常に精力的に動き回るジョンは、いつしか周囲は「眠らない男ゲイシー」と畏敬の念をこめて呼ばれていました。仕事でも成功し始めていたジョンは、息子や娘にも恵まれ、名士への道を着実に歩み始めていました。

後にジョンは人生のこの時期が「パーフェクトだった」と語っています。1966年7月にはジョンの両親がアイオワ州のジョン夫妻の元を訪れ、身体的・精神的虐待をしていたことを謝罪し「自分が間違っていた」と告げ謝罪しました。

ジョンウェインゲイシーの性的嗜好

Waiting Appointment Schedule - Free photo on Pixabay (590501)

ある日、ジョンは「少年に性行為をした」ということで逮捕されてしまいました。ジョンを尊敬していた同僚たちや地元の人間たちは驚きましたが、今までにもジョンは同性愛思考があることを隠そうとはしていませんでした。

ケンタッキー・フライドチキンの店長を任されるようになってからは、アルバイトの少年達にも常習的に手を出すようになっていたのです。

結婚もし息子や娘に恵まれても「自分がホモセクシャルであることに変わりはない」と気付くのに時間はかかりませんでした。しかも、強烈なサディストであるということにも目覚め始めてしまいました。

23歳で男性とオーラルセックス

Banana Breakfast Colorful - Free photo on Pixabay (590491)

ジョンは、結婚する少し前、マネージャー見習い時代に、一緒に酒を飲みに行った同僚の男と酔った勢いで無意識のうちにオーラルセックスに耽りました。ジョンは、父から言われ続けてきたことが現実のものとなったことに深い恐怖と嫌悪を抱きましたが、以来『男色』の世界にのめり込んでいくようになりました。

ジョンは、愛しいて止まない父親から罵倒され続けて生きてきたので「父親から認められたい!愛されたい!」という形が、男色という形で現れたパターンのホモセクシャルであるのかもしれません。

26歳で15歳の少年と関係をもつ

Skateboard Youth Skater Boy - Free photo on Pixabay (592964)

男色に目覚め始めて3年後、青年会議所会長であったジョンは、会員の息子で15歳になる『ドナルド・ヴァリューズ』に「ポルノ映画を観ないか?」と誘い、自宅の地下室で性的関係を持ち、事が済むとジョンはヴァリューズに金を払いました。

ヴァリューズは、その後もジョンの元をしばしば訪れ、何かと理由をつけては金を要求するようになりました。ジョンはそのたびに金を支払い性的関係を持つようになりました。お互いに「持ちつ持たれつ」の関係だったのです。

15歳の少年に訴えられ逮捕

Norway Mountains Outdoors - Free photo on Pixabay (590504)

青年会議所の会頭選挙を目前に控えていた頃、たびたびジョンの元を訪れては金をもらいながらセックスしていたヴァリューズが「未成年との性交は合意の上であっても性的虐待が成立する」とジョンを訴えると脅しました。

ジョンは、たかをくくっていましたが「少年に性行為を強要した」と、反自然性交の容疑で逮捕されてしまいました。この裁判には、ゲイリーの店でアルバイトをしていた16歳のエドワード・リンチも召喚されましたた。

リンチは、1967年にゲイシーの自宅へ連れ込まれ、行為を迫られ激しい抵抗を見せると、ジョンにのしかかられて首を絞められ、失神寸前まで追い込まれました。結局ジョンが平身低頭で詫びリンチを家に送り届け、翌日に店から解雇したのです。

懲役10年で服役

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ジョンは「会頭候補である自分をハメようとする罠」と主張し、進んでウソ発見器にかかるとまで宣言すると、もともと人望があったため擁護する者も現れましたが、ジョンはヴァリューズの証言を食い止めようと、人を雇って暴行させていたことが発覚しました。

言い逃れできなくなったジョンに、1968年26歳の時に、アイオワ州から男子矯正院で10年間の服役という判決が言い渡されました。

しかし、持ち前の世渡り能力と勤勉さを発揮し、高卒の資格や心理学の資格を取り、院内の青年会議所でゴルフコース設置やパーティーの準備など模範囚の実績を積みながら、懲役10年の判決にもかかわらず、わずか16か月という異例の速さで出所しました。

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