2019年9月6日 更新

殺人ピエロ・ジョンウェインゲイシーの生い立ちや最期の瞬間

ジョンウェインゲイシーという名前を聞いたことがなくても「ピエロの殺人鬼」と言えば思い当たるフシがある人は少なくないでしょう。子供たちを楽しませるためのピエロを恐怖のイメージに塗り替えてしまうほど身の毛もよだつ殺人事件を起こしたジョンウェインゲイシーに迫ります!

目次

服役中の離婚と父親の死去

Barbed Wire Court - Free photo on Pixabay (590506)

少年への性的虐待の罪で服役することになったジョンの妻にマリリンは、ジョンの「少年への性的虐待の罪」の判決が出た次の日に離婚訴訟を起こし、受理されたことでジョンとマリリンの結婚生活は終わりを迎えました。

そして、ジョンが27歳の服役中であった1969年のクリスマスの日に、あれだけ愛されたくて認めてもらいたい一心で、頑張っていた目的でもある父スタンリーが肝硬変で死去しました。

ジョンに告げられたのは、死後2日経ってからでしたが床に突っ伏して泣き崩れ、父親の葬儀に出席するために刑務所からの思いやり休暇を希望しましたが、当然ながら却下されました。

釈放後からの生活

Reflection Brick Road Rain - Free photo on Pixabay (590507)

1970年、出所し地元シカゴに戻ってきたたジョンは、軽食堂のコックをしながら、室内装飾や増改築などを専門とする軽建築業で身を起こそうと頑張って働き貯金に励みながら事業計画を練り上げていました。

しかし、どうしてもやめることができなかったあるひとつの出来事がきっかけで、人生がガラッと変わってしまうことになりました。成功に向かっていたはずのジョンの人生は、裏ではガラガラと音を立てて崩れ落ちていたのでした。

釈放から半年で再逮捕

Barbed Wire Court - Free photo on Pixabay (590508)

釈放から半年後、ジョンは「少年に対する暴行容疑」で再逮捕されましたが、原告が裁判に姿を見せなかったことで不起訴となりました。

ジョンは好みの少年と知り合うためにパーティーで出逢いをあさるようになり、1972年の1月のある夜、グレイハウンドのバスターミナルで会った16歳の少年と2人で「ロマンチックな夜」を過ごした翌朝、寝室のドアでナイフを持っている少年を発見し、咄嗟に刺殺してしまいました。

ジョンは台所を見ると愕然としました。青年はゲイシーのためにサンドイッチを調理し、ナイフを持ったままジョンを起こそうとしたのです。大きく混乱したジョンは死体を床下に隠し、これ以降、殺人が習慣となっていきました。

29歳で家を購入

Architecture Family House Front - Free photo on Pixabay (590510)

ジョンは、1971年29歳の時に、母親と暮らすためにシカゴに移住し、ノーウッド・パークの近くに家を購入していました。この家は、1978年に逮捕された時の殺人事件が起きた家です。

デス・プレーンズで『PDMコントラクターズ』という建設&リフォーム会社を立ち上げ始めたジョンの、かつてのやり手ビジネスマンの腕前は健在で、会社は順調に売上を伸ばしていきました。

あれほどまでに愛されたかった父はなくなっており、落ち込むことになりがちなヒビを取り戻そうと、ビジネスに奔走することで自分を取り戻そうとしていました。罵倒されることで怯えることがなくなっていたジョンは、気がつくと以前より生き生きとして働いていました。

地域でも尊敬される存在に

Handshake Hand Give - Free photo on Pixabay (590513)

1972年6月1日、妹の友人であり高校時代から知っていた『キャロル・ホフ』と結婚し、母親は家を出ました。釈放された後料理人として働き、心機一転、満を持して自分の室内装飾の事業を起こしていたジョンは、持ち前の勤勉さで会社を軌道に乗せていました。

1978年までには、年収200万ドル(当時のレートで7億2000万以上)を超えるようになっており、妻となったキャロル・ホフの連れ子2人も共に暮らし始めており、地域でも尊敬される存在となっていました。

道化師「ポゴ」として人気を集める

Fool Court Jester Clown - Free photo on Pixabay (590514)

相変わらず少年とのセックスと殺人の凶行はやめられませんでしたが、ジョンは通常の生活を続けながら『獲物』になる物色も兼ねて、福祉施設を訪れるなどして子供たちの慈善活動などを行い子供たちの人気者になりました。

この時の慈善活動を行うときには、ジョンはよくピエロの格好をして「道化師のポゴ」に扮して面白がらせていました。このことで、後に『殺人ピエロ(Killer Clown)』と称せられるようになりました。

元大統領ジミー・カーターの妻との握手写真

Sunset Sunrise Continents - Free image on Pixabay (590518)

ジョンは、自身の過去の辛い経歴から恵まれない子供への慈善活動を熱心に行い、その功績により民主党へ入党して地元の名士となりました。

アメリカの国政や地域の政治家などの権力層などにも人脈を持ち、アメリカ大統領になりたいという野心まで持つようになっていました。 パーティー会場では、時の大統領ジミー・カーターの妻ロザリンと握手している写真が残されています。

この件については、後に「ファーストレディを性犯罪者であった人物と会わせてしまった」として、シークレットサービスの調査能力のなさが非難されました。

33歳で離婚

Divorce Separation Marriage - Free photo on Pixabay (590519)

1975年、ジョンが33歳の時にキャロルに自身が「バイセクシャルである」ということを告げたことにより、不和になった妻と離婚しました。薬と酒の量が増えると同時に殺人の数も増えました。

近所の人々は、ときどき深夜の眠りをさまたげる悲鳴を聞きましたが、それが拷問されるようにレイプされていた少年の声であるなどという発想にはなりませんでした。

すでに5人を殺していたジョンは、床下に隠した死体の腐敗が進むよう石灰をまいたり、匂いを防ぐためにセメント加工もしていましたが、それでも悪臭はおさまりませんでした。

ジョンウェインゲイシーをモデルとした作品「IT」

Photo Camera Photography Old - Free photo on Pixabay (590521)

ジョンウェインゲイシーの事件は大変話題となり、その中でも特に彼をモデルとした有名な映画『IT』が製作されました。『IT』は、 1986年にスティーヴン・キングが発表したホラー小説で、1990年にテレビ化され2回に分けて放送され、2017年に邦題は『IT/イット “それ”が見えたら終わり』として映画化されています。

登場するピエロの殺人鬼ペニーワイズは、トロールが出てくるおとぎ話「三びきのやぎのがらがらどん」をヒントに作られましたが、ジョンウェインゲイシーをモデルとした作品でもあります。

アメリカを震撼させた最も有名なピエロ

Horror Clown Mass Murderer - Free photo on Pixabay (590526)

ジョンウェインゲイシー=ピエロのイメージは、大変インパクトがあり、人々の記憶に残ってしまいました。ジョンは、今だにアメリカの凶悪殺人犯の1人として名前が挙がるほど話題性があり、たびたびテレビでも特集されています。

こうなることを望んだ人は一人もいませんでしたが、ジョンは私たちにざっくり言うと「生きることの意味」を自分自身に問いかけるきっかけを残したのかもしれません。そうでなければ、こんな気味の悪い奴などただの殺人鬼だからです。

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