2021年5月25日 更新

フリッツル事件の犯人の現在は?事件の動機と子供たちのその後も

最近ようやく毒親という言葉が知られるようになりましたが、今回紹介するフリッツル事件の犯人は父親です。しかしこの父親は、毒親を通り越してただの鬼畜な犯罪者と言えます。今回はフリッツル事件の全容と父親の動機、そして被害者である子供のその後と現在を紹介します。

目次

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実の娘に対する歪んだ愛情で、24年間も監禁し近親相姦を繰り返していたヨーゼフ・フリッツル。彼は一体どのような人生を送ってきたのでしょう。

生まれつきのサイコパスも存在しますが、大抵の凶悪犯罪者は、幼少期の両親との関係や、育った環境などが人格形成に係わっています。

犯罪を犯したヨーゼフに同情する余地はありません。しかし、彼の人格に何が影響を及ぼしたのかを知る為にも、ここでは、ヨーゼフ・フリッツルの生い立ちを紹介していきます。

ヨーゼフの生い立ち

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ヨーゼフ・フリッツルが生まれたのは、1935年(昭和10年)4月9日です。オーストリアのアムシュテッテンに住む、父親と母親の1人息子として誕生しました。しかし、父親はヨーゼフが4歳の時に、家族を捨てて家を出てしまったと言われていますが、その後第二次世界大戦でドイツ軍として参戦し戦死しています。

母親は厳しい人で、息子を食べさせる為に働いていたこともあって、あまり甘えて育つことが出来ませんでした。母親の支配的な態度と、愛情に飢えていたヨーゼフは、のちに母親を性的対象に見るまでに愛情を歪ませていたと話しています。

更に時代背景が彼の人格形成に影響を与えています。ヨーゼフが生まれる前年に、オーストリアはドイツ軍の統治下になりました。街中では、ナチスによる暴力的な支配がよく見られ、ヨーゼフはそれに強く憧れを持っていたようです。

犯罪歴

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ヨーゼフは1967年(昭和42年)に、既婚者の看護婦の家に夫の留守中に押し入り、この女性をレイプしています。その後すぐ、同じ年に別の女性を襲おうとしましたが失敗しました。

このことで、ヨーゼフは逮捕され、懲役18か月の実刑判決を受けて服役していたのです。エリーザベトが1966年(昭和41年)に生まれているので、ヨーゼフはすでに妻子のいる身で犯罪を犯していたことになります。

元々監禁前からも、売春宿に通っては少女を犯す趣味を満たしていたと言われています。その他にも、ヨーゼフには自分の所有するホテルに対しての放火疑惑もありました。自宅での3回の失火で多額の保険金も受け取っていることもあり、疑いを掛けられても仕方がありません。

ロゼマリア

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ヨーゼフは妻のロゼマリアと、1956年(昭和31年)に結婚しています。ヨーゼフは21歳、ロゼマリアは17歳という若い夫婦でしたが、エリーザベトを含む7人の子供を授かりました。

ロゼマリアは、結婚生活中にヨーゼフの逮捕、キャンプ場の経営、行方不明の娘、そして養子となったエリーザベトの子である孫達の育児など、すでに壮絶な人生を歩んでいたのです。

しかし、追い打ちを掛けるように、晩年になって夫の悪事や娘の監禁などが発覚し、ロゼマリアは一体どれほどのショックを受けたでしょう。

ヨーゼフの裁判

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ヨーゼフの裁判は、4日間という早さで終わりました。起訴されたのは、近親相姦罪、強姦罪、強要罪、不法監禁罪、奴隷化による自由はく奪の罪、そして、亡くなった双子の1人ミカエルに対しての過失致死罪(殺人罪とも)です。

娘を監禁し、7人も子供を産ませたという鬼畜な男の裁判だっただけに、世間の注目を集めました。ヨーゼフには、一体どのような判決が下されたのでしょうか?ここでは、ヨーゼフの裁判について紹介します。

裁判でのヨーゼフの様子

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ヨーゼフは法廷に入り、マスコミが退出命令を出されるまでの間、ずっと青いバインダーで顔を隠していたそうです。オーストリアの法によるものと言われていますが、弁護士がヨーゼフを精神病に持ち込みたい意図があり、その後の人権尊主の為に顔を隠したことも考えられます。

彼自身が、自分の犯した罪を恥じて顔を隠すことを望んだ可能性もあります。しかし、いずれにせよ彼の顔写真は色々な場所で出回っているため、あまり意味のある努力ではなかったと言えるでしょう。

弁護側の主張

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ヨーゼフの裁判は、2009年(平成21年)3月16日(月)に開廷しました。弁護士はヨーゼフが幼い頃の環境で、精神病を患っているという方向性に持ち込み、無罪か軽い懲罰で済ませるつもりだったのでしょう。

ヨーゼフも、殺人と脅迫したこと以外は全て裁判官に弁明を始めました。クリスマスに地下室にツリーを飾ったということや、エリーザベトや子供達をずっと生かしていたこと、そしてケルスティンを病院に連れて行ったことなどを上げ、自分はモンスターではないと話しています。

検察側の主張

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検察側は、ヨーゼフに対して終身刑を訴えていました。オーストリアでは死刑が無い為、終身刑は最も重い罪です。エリーザベトが二度と父親に会いたくないと懇願していたこともあり、彼女の身の安全を考えれば、ずっと刑務所にいてくれたほうが安心です。

検察は、地下室の高さとほぼ同じくらいの高さである、174cmのドアを指さして、地下室内部がいかに狭く、劣悪な環境だったかを訴えました。

証拠物として、地下室から採取したカビの臭いがする物を提出し、エリーザベトや子供達がどのくらい辛い目に遭わされてきたのか、そしてヨーゼフがいかに極悪人かを訴えたのです。

エリーザベトが裁判を傍聴

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初日のヨーゼフは、自分の生い立ちや母親、ついにはナチスのせいにまでして、言い訳をしていました。しかし、審理2日目に当たる、3月17日(火)になってヨーゼフは突如として弁明を止めてしまいます。

その日、傍聴席には娘であり、被害者でもあるエリーザベトが変装をして裁判を見ていました。彼女は今まで起きたことをまとめた自伝を出す為に、裁判を傍聴して記録を取っていたのです。

ヨーゼフは、審理中にエリーザベトの姿を見つけた後、その場に崩れ落ちたと言われています。言い逃れ出来ないと思ったのか、それとも少しは冷静になって今までのことを反省したのかは不明ですが、翌日3日目の審理が始まると、ヨーゼフは全ての弁明を撤回しました。

エリーザベトの会話テープ

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初日に証拠物として提出されたものの中に、エリーザベトが解放され保護されてから約2ケ月目の7月に、警察や精神科医と事件の経緯や、監禁されていた24年間のことを話したテープがありました。

11時間にも及ぶテープを、陪審員8人が観る予定でしたが、内容があまりにも悲惨で辛いものであった為、2時間以上観続けることは出来ませんでした。

あまりにショッキングな内容であることで、陪審員が耐え切れない場合も考えて、他にも4人補充陪審員を用意していたほどです。このビデオテープは、1日で観切れることが出来ずに翌日に持ち越されました。

ヨーゼフの判決

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