2019年9月19日 更新

世界最大の大量殺人犯アンネシュ・ベーリング・ブレイビクの現在とは

2011年7月、ノルウェーのオスロで、政府庁舎前で爆弾を爆発させた後に、ノルウェーで長年行われ続けている、左派学生らだけの「平和でしかない集会」が行われている島で銃を乱射しに行き計77人を殺害した『アンネシュ・ベーリング・ブレイビク』の現在や事件の詳細は?

目次

裁判の判決

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2012年8月23日、オスロ司法裁判所はブレイビクに「禁錮最低10年、最長21年」の判決を言い渡しました。これに「人道に対する罪」が適用されれば「禁錮30年」になります。これは、死刑制度をとらないノルウェーでの最高刑でした。

このため「何の罪もない国民が、頭のおかしな1人の国民に77人も殺されたのに21年の禁固は軽すぎる!」という流れが起き、死刑制度の復活や無期刑の導入が呼びかけられるなどの影響が出ました。

禁錮と懲役の違い

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受刑者を監獄(刑事施設)に拘置する刑が『禁固』で、受刑者を刑事施設内で拘置し、工場などで所定の作業を行わせる刑が『懲役』です。

禁固も懲役も、国民の身体の自由を拘束する刑『自由刑』の一種ですが、懲役は、定められた刑務作業である『規則的労働』が義務付けられていますが、禁固は「政治犯等を対象とする刑」であるため、名誉拘禁的な意味を持つために『規則的労働』を強制されないのです。

刑の順序は、重い順に「死刑→懲役→禁固→罰金→拘留及び科料」と規定されており、懲役は禁固より重い刑になります。ただし「無期の禁固」と「有期の懲役」を比較した場合と「有期の禁固の長期が、有期の懲役の2倍を超える場合」には、禁固が懲役より重い刑になります。

実刑が軽すぎるという意見

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日本では、ブレイビクに対して「こんな快適な刑務所に21年しかいられないのがかわいそう」という皮肉も出るほど、世界中から見ても刑務所内で暗殺される心配をすることもなく、清潔で快適な空間で、栄養を考えられたおいしい食事をとりながら最先端のジムにも行き、コンピューターも使える最高の環境であるノルウェーの刑務所。

何の関係もない77人の国民が、1人の頭のおかしな差別主義者による思想宣伝のために殺害されました。負傷者を入れると100人以上になりますし、精神的にトラウマになるレベルのテロ事件でした。

このような事件を起こした犯人が、国民の税金を使い21年もの間、ノルウェーの刑務所という名前の快適なビジネスホテルのような場所で、身の安全や健康までも確保され優雅に暮らして出てくるのはどうでしょう?

ノルウェーには死刑制度がない

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ノルウェーでは、18世紀頃から死刑制度がありましたが、数年に1人~年間数人と死刑執行数事態が少なく、1876年2月25日、殺人罪で死刑判決を受けた『クリストファ・ニルセン・シュバルツベッケン・グリンバレー(w:no:Kristoffer Nilsen Svartbækken Grindalen)』以降、1905年、死刑制度は完全廃止されました。

しかし、第二次世界大戦時に「ナチスの占領に協力し傀儡政権を築いた」として、ノルウェーの軍人・政治家『ヴィドクン・クヴィスリング(Vidkun Abraham Lauritz Jonssøn Quisling)』を死刑にするために、ノルウェーでは特別に銃殺刑を復活させ、1945年5月9日に死刑判決、10月24日に銃殺刑が執行されました。

一部の人間を死刑にするためだけに、1945年だけ死刑制度が臨時復活したことで「法的に長年廃止されていた死刑制度を復活させた」という行為に対して、現在でも批判されることがあるそうです。

アンネシュ・ベーリング・ブレイビクの生い立ち

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世界一平和な国を誇るノルウェーで、世界一最大の殺人事件を起こしたのは、裕福な家庭に生まれ、複雑な家庭環境で育ち、哲学書を読み、社会の矛盾などに敏感に反応する青年として成長していった1人の寂しい男でした。

人は愛する人から愛されずに絶望を受け続けるとここまで人を憎む人間になれるのだということを、無意識に生きている私たちを驚愕させるような事件でした。

ここではブレイビクの生い立ちや経歴、事件前の人柄などについて解説していきます。

1歳で両親が離婚

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アンネシュ・ベーリング・ブレイビク(Anders Behring Breivik)は、 1979年2月13日ノルウェーの首都オスロ出身。経済学者で外交官である『イェンス・ダーヴィド・ブレイビク(Jens David Breivik)』を父に、看護師『ヴェンケ・ベーリング(Wenche Behring)』を母にもつ、裕福な家に生まれました。

ロンドンやパリに駐在した両親は、ブレイビクが1歳の時に離婚し、母がブレイビクの親権を得ました。母は、ノルウェー陸軍の将校と再婚し、ブレイビクは異父姉と共にオスロで暮らし始めました。フランス駐在中の父も再婚し、ブレイビクは定期的に会いに行っていましたが、ブレイビクが12歳の時に再度離婚しました。

ブレイビクの学歴

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ブレイビクは、ノルウェーの最大の政党で、社会民主主義政党である穏健な左派『ノルウェー労働党』を支持していた両親の政治姿勢を批判し、母を「穏健フェミニスト」としていました。

ブレイビクはノルウェーのオスロにある『スメスタッド小学校(Smestad skole)』、同じくオスロにある『リース中学校』、同じくオスロにあり2015~2017年ノルウェーで社会現象を巻き起こした大ヒットドラマ「Skam(恥)」の舞台『ハートウィグ・ニッセン高校(Hartvig Nissen School)]』を卒業しました。

財務および経営管理を教えることを専門とする公立高校『オスロ商業高校(Oslo Commerce School)』に進み、大学は中退しています。しかし、クラスメートの話では「ブレイビクは成績が良く、いじめの被害者をよく手助けしていた」そうです。

非行グループに入り逮捕される

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ブレイビクが12歳の時、父親が再度離婚することになりました。そして、思春期に入ると非行グループに入り、夜中に町中をうろついたり、スプレーで街中に落書きなどをして回るようになりました。

16歳の時、スプレーで落書きしたことで警察に逮捕され、父親も警察に呼び出されたのですが、この時以来一度も父親とは会わなくなってしまいました。逮捕時には仲間を裏切っており、グループから離脱してしまい、親友とも別れてしまいました。

株式投資で大金を損失

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16歳の時に、不良グループらとスプレーで落書きして回り警察に逮捕された時に、仲間を裏切りグループから離脱してしまい、親友とも別れてしまい、警察に呼出されて来てくれた愛する父親とも疎遠になってしまい、一気に孤独を感じるようになってしまったブレイビク。

大学も中退しており、何もかも中途半端のままで「これからどうして生きていこうか?」と考えていた19歳の時、株式投資を始めますが、ここでも200万クローネ(約3000~4000万円)を失敗で失ってしまいました。

顧客サービスでの勤務時代

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19歳の時、株式投資で200万クローネ(約3000~4000万円)を失ってしまい、もう「これからどうして生きていこうか?」などと考えている余裕はなくなってしまいました。

21歳の時、顧客サービスの仕事に就き、移民労働者と共に働き始めました。同僚の話では「ブレイビクは、中東や南アジア出身者に対して苛立ちを見せることも多かったが、誰にも親切で良い同僚だった」そうです。

この頃、ウエイトトレーニングにも時間を費やすようになり、ステロイド剤まで使い始めました。

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