2019年8月14日 更新

東電OL事件の真相は?真犯人は?この事件の問題点とその後についても

東電OL事件は、被害者の渡邉泰子さんが大企業で働きながら毎晩売春をしていた事や、逮捕された男が冤罪だったことで、世間が注目した事件です。DNA鑑定で既に第三者の存在は判明していますが、今も真犯人は捕まっていません。今回は、そんな東電OL事件の真相を探ります。

目次

夜の街で働くようになってから2年が過ぎた、1991年(平成3年)頃から、泰子はフリーの売春婦となりました。昔で言えば、「立ちんぼ」「夜鷹」と呼ばれるような状態です。やはり、ホステスや風俗店では、ほとんどお客が付かなかったからでしょう。

すでに年齢は34歳。この頃から、道玄坂地蔵の前に長い髪のウィッグを付け、バーバリーのベージュ色のコートに、青色のツーピースという姿で、毎晩立ち続ける彼女を多くの人が目撃していました。泰子は平日、午後5時に退社したあと、必ず渋谷の109で売春婦の姿に着替え、午後6時から終電まで男に声を掛け続けていたのです。

土日や祝日など、仕事が休みの時は朝から風俗で待機、夜は立ちんぼと休むことなく売春を続けていました。泰子は職場でもあまり仕事が出来たという評判は無く、よく居眠りをしていたり、茶碗も満足に洗うことが出来ずよく割っていたという話や、一番忙しい時期に入った部署へ突然仕事を依頼するなど、かなり困った存在だったのです。飲み会にも1度も参加したことはなく、職場では友達と呼べる人もいませんでした。

1日4人のノルマを課していた

Dates Notes Notepad - Free photo on Pixabay (550217)

フリーの売春婦なので、それで食べていくのであれば必死になることも分かりますが、泰子は何故か自らにノルマを課し、1日4人の客を取ることを決めて行動していました。

当時泰子を買った客の話によれば、真っ白に塗った顔に青いアイシャドウと、真っ赤な口紅を引いた彼女はかなり不気味だった上に、身体はあばらが見える程貧相に痩せこけていたと言います。年齢もかなり年上に見えていたようで、泰子はやはりあまり客が取れなかったのでしょう。

いつしか対価をどんどん落としていき、2000円~5000円という低価格で、1日4人のノルマを何とか達成していたようです。泰子は仕事を終えると、その日相手した男達のリストを毎日丁寧に記録していました。

1996年6月から品川区のSMクラブで働く

People Woman Nude - Free photo on Pixabay (550268)

ホステス、風俗、売春婦と夜の世界に堕ちて行った泰子は、1996年(平成8年)6月頃から、品川区にあった「マゾッ娘宅配便」というSMクラブでも働き始めました。

泰子はかなりハードなM嬢だったようで、客と入ったラブホテルでも、ベッドの上に脱糞をし何度も出入り禁止になっているほどです。

しかし、39歳を迎えた泰子には、ここでもあまり客はいませんでした。殺害された日の日中も、このSMクラブで電話番をしながら、数少ない常連客に営業電話をして、夜に逢っていたと言われています。

1997年3月古い木造アパートで殺害される

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先程述べたように、泰子が殺されたと思われる1997年(平成9年)3月8日(土)は土曜日だったので、その日は日中「マゾッ娘宅配便」で待機していました。

この日は誰も出勤しておらず、泰子は1人で事務所にいましたが、結局夕方5時半まで1人も客が付くことがなかったのです。その最中、常連であった初老の客と店外で会う約束をようやく取り付け、泰子は品川から渋谷へと移動しました。午後6時半過ぎにハチ公前でその客と落ち合い、2人は道玄坂のラブホテル「クリスタル」で売春しています。

夜10時半頃、2人はホテルから出て別れ、泰子はその後いつものように道元坂の方へ移動して、男達に声に掛けているところを付近の人が目撃していました。その後、夜11時45分頃になって黒白のジャンパーを着た男と泰子が、喜寿荘の前にいるのを近所の人が目撃したのを最後に、泰子の足取りは消えてしまったのです。この男がその日、泰子を喜寿荘で殺害した犯人なのかもしれません。

被害者、渡邉泰子の奇行

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性を極端に嫌う潔癖症や、逆にセックスに溺れていく人は、やはり幼少期に両親から普通の愛情を貰えず、心に隙間が出来てしまった人です。そうなると自分に自信が持てなかったり、自分の存在に価値観を見出せず嫌いになってしまったり、誰かに依存や共存して自分の寂しさをもっともっとと埋めようとするのです。

渡邉泰子が心を壊し始めたきっかけは、父の死です。彼女はその時から拒食症を発症していきますが、拒食症になる人は、まだ大人の女になりたくないという拒否感で、女性らしいふっくらした身体になることを嫌います。

父が死んだことで、長女として専業主婦の母と年下の妹を守らなければいけないというプレッシャーや、もっと父に甘えていたいという淋しさなどから、泰子は拒食症を発症したのでしょう。毎日売春に立てたということは、すでに生理も止まっていたことが考えられます。しかし、もう1つの心は、女でいることを認めて欲しいと叫んでいたのかもしれません。ここでは、そんな渡邉泰子が目撃されていた奇行を紹介します。

順調にキャリアを積んでいたが、夜は売春行為を行っていた

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エセフェミニスト達は、渡邉泰子がまだ封建的だった昭和時代に、4大学を出た秀才で、女でありながら大企業の管理職を勤めたエリートだったのにも係わらず、「女」が故に男社会で差別され病んでいったのだと語ります。そして、何故かそこに共感し自分と重ねて見ています。

しかし、彼女が最後に持っていた肩書は、企画室の経済調査室副長です。副室長と言っているところもありますが、電力会社で言えば係長程度の地位であり、おまけに彼女には部下もいなかったと言われています。彼女の同期は200人程おり、そのうち女性は8人いましたが、女性達は泰子を除き皆寿退社をしてしまい、残った女子は泰子1人となっていました。

泰子が30歳になる頃に、男女雇用機会均等法が施行した為、現在の女性活躍推進法が出来た時と同じように、無理矢理にでも「女」に居場所を与えねばいけません。特に仕事も出来ないのに中々辞めず、ある程度の年齢になった女性が泰子1人であれば、何かしらの肩書を付ける必要があったというだけです。むしろ彼女は世間が騒ぐほど、秀才でもエリートでも無いことに悩み、女としても自信を失って病んでいったのかもしれません。そのことが、泰子を売春の道へと誘ったと考えられます。

路上で放尿

Horse Coupling Meadow - Free photo on Pixabay (550412)

道玄坂地蔵の前で立ちんぼをするようになった泰子は、よく路上で放尿しているところを目撃されています。先程も述べたように、ホテルではよく脱糞もしていたことから、彼女はスカトロプレイもしていたのでしょう。

トイレでは無い場所で放尿をするという行為は、単純にトイレが近くになく、我慢しきれずしてしまったという場合と、スカトロプレイという性的興奮からすることもあります。

泰子がSMクラブでM嬢だったことを考えると、誰かに仕込まれて目覚めてしまったのか、それとも自虐的行為としてしていたのは分かりませんが、夜の泰子は何でもありだったということが感じられます。

路上に落ちていたビール瓶を拾い換金

Beer Bottle Label - Free photo on Pixabay (550441)

泰子は道端をフラフラして客待ちをしている時や、帰る道すがらなどで、路上に落ちているビール瓶を見つけると、それを拾って居酒屋に持ち込み換金していたと言われています。

1本5円ほどのものですが、そのような小銭や売春の時に貯まった千円札などを、行きつけの居酒屋などで逆両替をしていたのです。ちなみに逆両替とは、お札を小銭に換えるのでは無く、小銭を千円に、千円を一万円札にというような両替のことです。

その他、夜の電車の中でよく泰子を見掛けたという女性の証言によれば、泰子はいつもフラフラしていたり、窓を鏡代わりに、真っ赤な口紅をはみ出しても構わず塗りたる姿や、サンドイッチやつまみなどを貪るように食べていたなど、見ていてもかなり不安を感じるような人だったようです。

裁判の経緯

Justice Right Case-Law - Free image on Pixabay (550469)

被害者女性の生い立ちや、当時の行動などが分かりましたが、逮捕されたネパール人のゴビンダ・プラサド・マイナリが、どのようにして有罪となり、そして無罪を勝ち取れたのかが気になります。

東電OL事件の問題点はとてもシンプルで、渡邉泰子を殺した犯人が今も分かっていないということと、警察や検察がゴビンダを犯人に仕立て上げたという冤罪の2点だけです。

ここでは、ゴビンダの長きに亘る裁判の経緯を紹介してきます。

1997年3月不法残留容疑で逮捕

Police Arrest Detention - Free photo on Pixabay (550486)

冒頭でも少し触れていますが、ゴビンダ含むネパール人5人は不法滞在中でした。彼らは観光などで使う短期滞在ビザを使って来日していましたが、本来は90日間で帰国しなければなりません。

ゴビンダ達が来日したのは、1994年(平成6年)2月28日(月)で、それから90日後であれば、本来5月28日(土)には戻らなければいけないのです。しかし、彼らはなんと約3年も不法滞在し、レストランなどで働いていたのです。

短期滞在ビザで就労することも犯罪ですが、ずっとネパールにいる妻と子に送金していたことから、そもそも違法で働く気満々でやってきたことになります。この時点でどんなに差別だと騒いでも、犯罪者に違いはありません。その為、警察はゴビンダをまず「不法残留容疑」で逮捕しました。

1997年5月強盗殺人の容疑で再逮捕

Males 3D Model Isolated - Free image on Pixabay (550517)

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