目次
- 冤罪事件となった東電OL事件の真相
- 東電OL事件の概要
- 1997年3月アパートの一室で女性が横たわっている姿を発見
- 翌日も同じ姿でいた女性に不信感を持ち、ネパール料理店店長が通報
- 渋谷区にあるアパートの空室で、女性の遺体が発見される
- 被害者は東京電力幹部社員、渡邉泰子
- 1997年5月ゴビンダ・プラサド・マイナリが強盗殺人容疑で逮捕される
- 一貫して無罪を主張
- 逮捕された理由
- 嫌疑を晴らすために出頭
- ビザの期限が切れていた
- 事件現場で被害者女性と性的関係を持ったことがあった
- 事件現場の鍵を借りたことがあった
- 人種的偏見
- マイナリを犯人に仕立て上げる証拠が集められた
- 証拠を隠ぺいした
- 被害者となった渡邉泰子の生い立ち
- 1957年誕生
- 父親は東大出身、東京電力勤務
- 母親は室町時代から続く名門
- 父親の期待に添った優秀な娘
- 渡邉泰子が20歳の時父が亡くなる
- 慶応大学経済学部卒業
- 父親と同じ東京電力に就職
- 男性社会にストレスを感じ拒食症となる
- 1989年頃から夜はホステスとして働く
- 母親は娘が売春していたことを知っていた
- 1991年頃からフリーの売春婦となる
- 1日4人のノルマを課していた
- 1996年6月から品川区のSMクラブで働く
- 1997年3月古い木造アパートで殺害される
- 被害者、渡邉泰子の奇行
- 順調にキャリアを積んでいたが、夜は売春行為を行っていた
- 路上で放尿
- 路上に落ちていたビール瓶を拾い換金
- 裁判の経緯
- 1997年3月不法残留容疑で逮捕
- 1997年5月強盗殺人の容疑で再逮捕
- 1997年6月強盗殺人罪で起訴
- 2000年4月東京地裁が無罪判決を下す
- 2000年12月東京高裁が逆転有罪判決を下す
- 2003年10月、上告するも棄却され無期懲役が確定する
- 2005年3月再審請求
- 2011年DNA鑑定結果により、第三者の犯行の可能性が浮上
- 2012年6月東京高裁が刑の執行停止を決定
- 2012年6月15日ネパールへ帰国
- 2012年10月被害者の爪から第三者のDNAが検出される
- 東京高検が無罪を求める意見書を提出
- 再審が開かれる
- 2012年11月無罪判決が下る
- 東電OL事件の真犯人
- 売春相手
- 巣鴨かいわいの住民説
- 東電内部の圧力による謀殺説
- 冤罪事件の問題点
- 自白の強要
- 警察や検察の隠蔽体質
- 人種差別
- 裁判官
- 事件があったアパートの現在
- 現在もそのまま残っている
- 入居者は募集していない
- 民泊として利用されているという噂
- 東電OL事件のその後
- 冤罪被害者再来日
- 2019年現在も未だに犯人は捕まっていない
- 多くの関連書籍が発売された
- 漫画化
- アダルトビデオ化
- テレビドラマ化
- 日本人として冤罪事件について考えなければならない
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渡邉泰子の父親は元々山梨県出身で、織物などを作る機業家でしたが、事業が上手く行かなくなって貧しい生活を送っていたと言われています。父の正確な誕生日は分かりませんが、亡くなった年などから判断するに、大正15年か昭和元年の生まれです。
父が成長するまでの間には、不景気や、昭和金融恐慌、第二次世界大戦などがあるので、事業どころでは無くなったのでしょう。その為、頭の良かった父親は苦学生として、旧制東京高等学校、東京工業大学で学び、1949年(昭和23年)に卒業して東京電力に入社します。
父は相当優秀だったようで、東電入社後は大量の送電線を地下に埋めるというプロジェクトを成功させ、工務部副部長まで出世しました。長女である泰子は、父が30歳になった頃に産まれています。
父が成長するまでの間には、不景気や、昭和金融恐慌、第二次世界大戦などがあるので、事業どころでは無くなったのでしょう。その為、頭の良かった父親は苦学生として、旧制東京高等学校、東京工業大学で学び、1949年(昭和23年)に卒業して東京電力に入社します。
父は相当優秀だったようで、東電入社後は大量の送電線を地下に埋めるというプロジェクトを成功させ、工務部副部長まで出世しました。長女である泰子は、父が30歳になった頃に産まれています。
母親は室町時代から続く名門
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渡邉泰子の母親は、生年月日や出身地などが分かりません。残されているエピソードを見ていると、母の実家は室町時代から続く名門の家だったと言われていますが、恐らくすでに没落気味になっていたのでしょう。
現代でこそ、東京大学を苦学生として卒業したという男性であれば、何処の親も嫌な顔はしないはずですが、当時出自に拘る名門の家が、大切な娘を30歳近い貧乏な家の男に嫁がすことは考えられません。母親も「本女」と呼ばれる生粋のお嬢様校、日本女子大学の卒業生だったことを思えば、やはり結婚する頃には経済的にも厳しくなっていたのかもしれません。
しかし、お嬢様気質は結婚しても全く変わらず、夫の部下などが自宅に遊びに来ても、手料理一つ出すことが無いという女性だったようです。この母親は、泰子ともう1人の娘を産んでいますが、泰子とはあまり上手く行っていなかったとも言われています。
現代でこそ、東京大学を苦学生として卒業したという男性であれば、何処の親も嫌な顔はしないはずですが、当時出自に拘る名門の家が、大切な娘を30歳近い貧乏な家の男に嫁がすことは考えられません。母親も「本女」と呼ばれる生粋のお嬢様校、日本女子大学の卒業生だったことを思えば、やはり結婚する頃には経済的にも厳しくなっていたのかもしれません。
しかし、お嬢様気質は結婚しても全く変わらず、夫の部下などが自宅に遊びに来ても、手料理一つ出すことが無いという女性だったようです。この母親は、泰子ともう1人の娘を産んでいますが、泰子とはあまり上手く行っていなかったとも言われています。
父親の期待に添った優秀な娘
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先程も述べましたが、ネットでは優秀だという枕詞の付く渡邉泰子が、本当に幼少時から優秀だったかどうかは分かりません。しかし、昭和の時代にわざわざ中学受験をしてまで、私立の慶応義塾女子高等学校に入学しているので、ある程度勉強も好きで出来たのでしょう。
父が国立の大学に苦学生として入ったことを思えば、泰子が本当に優秀だった場合、経済的に考えても私立に入れる必要性を感じられないと考えられるので、泰子が父の期待に応えたというよりも、進路はお嬢様気質だった母の意向ではないか?ということが推察できます。
友人という存在からの証言は皆無に近い泰子ですが、唯一この高校時代の友人が話していたエピソードとして、「父が分からないところの勉強を教えてくれる」と嬉しそうに話していたというものがあります。このことから、少なくともよくありがちな、思春期の娘と父の確執は無かったことが考えられるでしょう。
父が国立の大学に苦学生として入ったことを思えば、泰子が本当に優秀だった場合、経済的に考えても私立に入れる必要性を感じられないと考えられるので、泰子が父の期待に応えたというよりも、進路はお嬢様気質だった母の意向ではないか?ということが推察できます。
友人という存在からの証言は皆無に近い泰子ですが、唯一この高校時代の友人が話していたエピソードとして、「父が分からないところの勉強を教えてくれる」と嬉しそうに話していたというものがあります。このことから、少なくともよくありがちな、思春期の娘と父の確執は無かったことが考えられるでしょう。
渡邉泰子が20歳の時父が亡くなる
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1978年(昭和53年)、泰子が20~21歳の頃、父は胃癌の為に52歳という若さでこの世を去りました。泰子が何故、父のことを慕っていたと言われるのかと言えば、実はこの頃から泰子は拒食症になっていくからです。
早かれ遅かれ、子よりも親が先に亡くなるのは普通です。悲しくても、大抵の人はそれを乗り越えていけますが、父親との関係が深過ぎた場合や、親に対しての後悔や怒りなどの感情を持っていた場合、両親の死によって心を病んでしまうことがあるのです。
今となっては、泰子が父親に対してどのような感情を持っていたかは分かりませんが、彼女はここで少し心に闇を抱えてしまった可能性が高いと言えるでしょう。
早かれ遅かれ、子よりも親が先に亡くなるのは普通です。悲しくても、大抵の人はそれを乗り越えていけますが、父親との関係が深過ぎた場合や、親に対しての後悔や怒りなどの感情を持っていた場合、両親の死によって心を病んでしまうことがあるのです。
今となっては、泰子が父親に対してどのような感情を持っていたかは分かりませんが、彼女はここで少し心に闇を抱えてしまった可能性が高いと言えるでしょう。
慶応大学経済学部卒業
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1980年(昭和55年)3月、泰子は慶応義塾大学経済学部を卒業しました。当時、女子の4年生大学への進学率は33%程度だったので、泰子はやはり勉強が好きだったのでしょう。まして、私立高校、大学に女子を通わせてくれたことを考えると、渡邊家はその頃家計的にも裕福な家だったことが分かります。
成績が優秀だったと言われるのは、この大学卒業という肩書も影響しているのでしょうが、慶応は推薦枠もあるのです。本当に頭が悪ければ確かに入ることは出来ませんが、少なくとも大学からの一般受験生よりは、附属女子高からエスカレーター式で入る方が有利なのです。
従って、残念ながら巷でエセフェミニスト達が彼女を持ち上げる程、泰子が頭脳明晰だったのかは分かりませんが、当時の女性としては「勉強」が好きだったということは確定出来ます。
成績が優秀だったと言われるのは、この大学卒業という肩書も影響しているのでしょうが、慶応は推薦枠もあるのです。本当に頭が悪ければ確かに入ることは出来ませんが、少なくとも大学からの一般受験生よりは、附属女子高からエスカレーター式で入る方が有利なのです。
従って、残念ながら巷でエセフェミニスト達が彼女を持ち上げる程、泰子が頭脳明晰だったのかは分かりませんが、当時の女性としては「勉強」が好きだったということは確定出来ます。
父親と同じ東京電力に就職
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大学を卒業した同年、泰子は亡き父の意志を継いで、東京電力に就職したと言われています。しかし、ここでもエセフェミニストの人達をガッカリさせてしまうかもしれませんが、当時4年生大学を卒業した女子の就職先はほとんど無かった為、ある程度父の威光もあって入社出来たのでしょう。
更に泰子が優秀と言われる理由の1つに、当時には珍しく女子の総合職として入社したと言われていますが、男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年(昭和61年)です。
国連では、1979年(昭和54年)に「女子差別撤廃条約」が発効され、日本もこの時同意していますが、国内で適応させる為には大幅な法改正が必要でした。その為、泰子が入社した時には、普通の女子職員としての採用だったとことが考えられます。
更に泰子が優秀と言われる理由の1つに、当時には珍しく女子の総合職として入社したと言われていますが、男女雇用機会均等法が施行されたのは1986年(昭和61年)です。
国連では、1979年(昭和54年)に「女子差別撤廃条約」が発効され、日本もこの時同意していますが、国内で適応させる為には大幅な法改正が必要でした。その為、泰子が入社した時には、普通の女子職員としての採用だったとことが考えられます。
男性社会にストレスを感じ拒食症となる
via pixabay.com
エセフェミニストの皆さんにとっては、日本は「女」だから重役に付けないと被害者ぶりますが、女性は妊娠・出産を望むのであればどうしてもタイムリミットがあります。これは差別ではなく、身体の仕組みと役割なので、文句を言っても女に生まれた以上は仕方の無いことなのです。
また子供にとっても、母親の愛情は絶対欠かせないものです。父親がいくら愛情を注いでも、残念ながら多少心に穴が開いてしまいます。当然、子孫繁栄することを考えれば、男性はもちろん適齢期の女性に魅かれるのですが、それも責められるようなことではありません。せっかく仕事を教えたり、任せても、すぐに妊娠して辞めてしまうのであれば、最初から優秀な男を入れた方が会社としてはお得です。
更に全員がとは言いませんが、そもそも女性は、生理が辛い人や感情を抑えられない人、長い残業時間や肉体労働に耐えられない人など、男よりも過酷な仕事を喜んでやれるような身体でも心でも無いのです。差別というよりも、ある意味女性に大きな仕事を任せないのは、男達の優しさでした。また男性は女性と一緒に働くと、何かと気遣いするハメになり、自分達の仕事がとてもやり辛くなるというのが男達の本音です。
また子供にとっても、母親の愛情は絶対欠かせないものです。父親がいくら愛情を注いでも、残念ながら多少心に穴が開いてしまいます。当然、子孫繁栄することを考えれば、男性はもちろん適齢期の女性に魅かれるのですが、それも責められるようなことではありません。せっかく仕事を教えたり、任せても、すぐに妊娠して辞めてしまうのであれば、最初から優秀な男を入れた方が会社としてはお得です。
更に全員がとは言いませんが、そもそも女性は、生理が辛い人や感情を抑えられない人、長い残業時間や肉体労働に耐えられない人など、男よりも過酷な仕事を喜んでやれるような身体でも心でも無いのです。差別というよりも、ある意味女性に大きな仕事を任せないのは、男達の優しさでした。また男性は女性と一緒に働くと、何かと気遣いするハメになり、自分達の仕事がとてもやり辛くなるというのが男達の本音です。
via pixabay.com
そのような中で、渡邉泰子が入社したのは1980年(昭和55年)です。この当時で考えれば、女性の幸せや出産などのことを考え、就職できたとしても23歳前後で退職を願うことが、男女も会社も両親達も同じ考えでした。この頃は高度成長期に入る頃でもあり、男達も企業戦士と呼ばれるような働き方をしている頃なのです。
特に電力会社は男社会の上に、上下関係の厳しい体育会系の職場ですが、それは今もあまり変わりはありません。インフラを担っている会社ですから、仕事はハードで自分達も心身ともに厳しい中、女性に気を遣うという余裕も無いのが今も昔も男達の本心です。高卒で、お嫁さん候補として入ってくるOLは心の癒しにもなりますが、四大卒ですでに22歳で入社し、男に対抗意識を持つような女性では大変面倒な状況と言えるでしょう。
更に、泰子と同期で入社した東大卒の女性がいました。泰子が28歳の頃、社内ではハーバード大学留学の選抜があったのですが、泰子は選ばれず東大卒の女性が選ばれます。しかもこの女性は、留学が終わるとさっさと結婚し、会社をあっさりと退職してしまったのです。この頃から泰子は、またしても拒食症が復活し、一時期は入院する程身体を壊してしまいます。
特に電力会社は男社会の上に、上下関係の厳しい体育会系の職場ですが、それは今もあまり変わりはありません。インフラを担っている会社ですから、仕事はハードで自分達も心身ともに厳しい中、女性に気を遣うという余裕も無いのが今も昔も男達の本心です。高卒で、お嫁さん候補として入ってくるOLは心の癒しにもなりますが、四大卒ですでに22歳で入社し、男に対抗意識を持つような女性では大変面倒な状況と言えるでしょう。
更に、泰子と同期で入社した東大卒の女性がいました。泰子が28歳の頃、社内ではハーバード大学留学の選抜があったのですが、泰子は選ばれず東大卒の女性が選ばれます。しかもこの女性は、留学が終わるとさっさと結婚し、会社をあっさりと退職してしまったのです。この頃から泰子は、またしても拒食症が復活し、一時期は入院する程身体を壊してしまいます。
1989年頃から夜はホステスとして働く
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1989年(昭和64年・平成元年)、泰子はすでに32歳となっていました。電力会社は転勤や出向もありますが、この前年、東京電力本社で勤めていた泰子にも出向命令が出されます。
しかし、その行先は泰子が期待していた出世コースの出向先ではなく、ここでもまた泰子はガッカリしたのかもしれません。年齢はすでに三十路を超え、結婚のあてもないということは、当時の女性にとってはかなりプレッシャーを感じる状況と言えます。
この時代、女の幸せをかなぐり捨て、仕事に命を懸けていたような女性は、しっかりと管理職に収まるようになっていくのですが、泰子にはもしかするとそこまでの覚悟は無かったのかもしれません。当時の三十路は、完全に行き遅れと言えますが、泰子はこの頃から夜にホステスとしても働き始めるのです。
しかし、その行先は泰子が期待していた出世コースの出向先ではなく、ここでもまた泰子はガッカリしたのかもしれません。年齢はすでに三十路を超え、結婚のあてもないということは、当時の女性にとってはかなりプレッシャーを感じる状況と言えます。
この時代、女の幸せをかなぐり捨て、仕事に命を懸けていたような女性は、しっかりと管理職に収まるようになっていくのですが、泰子にはもしかするとそこまでの覚悟は無かったのかもしれません。当時の三十路は、完全に行き遅れと言えますが、泰子はこの頃から夜にホステスとしても働き始めるのです。
母親は娘が売春していたことを知っていた
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泰子はホステスと同時に、風俗店でも働き始めました。しかし、ほとんどお客が付いてくれることは無かったと言います。ホステスで一緒に働いていたという女性の証言では、男性と上手くコミュニケーションが取れず、ホステス仲間とも上手く関係を築けなかったと言われています。
この頃から、泰子は会社を午後5時には退社し、毎日終電まで粘ってお客が付くのを待っていましたが、会社での残業が全く無かったとすると、やはり普通の女子社員扱いをされていたことが考えられます。
それにしても母親は、娘が深夜まで毎日帰って来ない事を、心配したり疑問に思わなかったのでしょうか?泰子の母親は、のちにマスコミに対して、「売春をしていたことは知らなかった」という手紙を出しています。しかし、事件発覚当時の警察の証言によれば「娘が売春していて帰って来ない」と捜索願を出していたと言われているので、もしかすると知っていて放置していたのかもしれません。
この頃から、泰子は会社を午後5時には退社し、毎日終電まで粘ってお客が付くのを待っていましたが、会社での残業が全く無かったとすると、やはり普通の女子社員扱いをされていたことが考えられます。
それにしても母親は、娘が深夜まで毎日帰って来ない事を、心配したり疑問に思わなかったのでしょうか?泰子の母親は、のちにマスコミに対して、「売春をしていたことは知らなかった」という手紙を出しています。しかし、事件発覚当時の警察の証言によれば「娘が売春していて帰って来ない」と捜索願を出していたと言われているので、もしかすると知っていて放置していたのかもしれません。
1991年頃からフリーの売春婦となる
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