目次
- 美人革命家と言われた重信房子の現在
- 可愛いと評判の重信房子の生い立ち
- 世田谷の4人兄弟の次女として誕生
- 父親は右翼団体金鶏学院の門下生
- 幼少期は小さな親切運動に取り組む
- 文学少女
- 東京都立第一商業高等学校卒業
- 小学校教員を目指し夜学に通う
- 可愛いと評判の女性だった
- 重信房子の逮捕されるまでの活動
- 大学在学中明大闘争に参加
- 遠山美枝子と知り合う
- 社会主義学生同盟の責任者として活動
- 共産主義者同盟赤軍派創立メンバー
- 森恒夫と対立
- 1971年奥平剛士と偽装結婚
- 「あさま山荘事件」が発生
- 日本赤軍を結成
- 1980年代に数々の無差別殺人を起こす
- テロ事件を繰り返し世界各国から非難を受ける
- ハーグ事件の関与により国際手配となる
- 1991年武力革命を目的とし「希望の21世紀」を創立
- 旅券法違反容疑で逮捕
- 日本赤軍とは
- 1971年に誕生
- 日本赤軍の目的
- 中東や海外を拠点に多くの武装事件を起こす
- 2001年4月正式に解散
- 無効宣言を発表
- 現在も国際指名手配中
- 最高指導者永田洋子
- 生い立ち
- 人柄
- あさま山荘事件の主導者
- 「総括」「自己批判」「内ゲバ」「粛清」
- 2011年死亡
- 永田洋子が残した逸話
- ハーグ事件とは
- 1974年9月フランス大使館占領事件
- 大使ら11人を監禁
- 日本赤軍の目的と要求
- カルロスによる爆弾テロ
- オランダ政府は要求を受け入れる
- シリア当局へ投降
- 逮捕監禁罪や殺人未遂罪で起訴
- 検察側と弁護側の主張
- 2006年2月懲役20年の判決を言い渡す
- 裁判のその後
- 重信メイと主任弁護人によって控訴
- 弁護側検事側双方から事件の経緯が再提出される
- 2007年12月東京高等裁判所の判決
- 2010年7月刑が確定
- 重信房子の現在
- 支援団体「重信房子さんを支える会」が日記を掲載
- 2008年小腸にガンが見つかる
- 治療の経過
- 2018年1月東日本矯正医療センターに移送
- 重信房子の娘「重信メイ」
- 重信房子の偽装結婚と出産
- 中東パレスチナで生まれ育つ
- 2001年日本国籍を取得
- 河合塾講師として生活
- ジャーナリストやニュースキャスターとしても活動
- 母親との関係は良好
- 母親同様に可愛いと話題になる
- 重信房子はテロリストや母親など多くの顔を持つ女性
2007年に東京高等裁判所は一審判決を支持し、重信メイと主任弁護士の控訴を棄却してしまいました。しかし2人は諦めずに重信房子の罪が少しでも軽くなるように証拠を集めて重信房子の無罪を訴え続け、再度上告することにしました。
しかし、重信メイと主任弁護士が証拠を再び集めたことで再度裁判所で上告したにもかかわらず、東京高等裁判所はひとつ前の一審と変わらず、今回のニ審でも変わらずに再度棄却してしまったのです。
しかし、重信メイと主任弁護士が証拠を再び集めたことで再度裁判所で上告したにもかかわらず、東京高等裁判所はひとつ前の一審と変わらず、今回のニ審でも変わらずに再度棄却してしまったのです。
2010年7月刑が確定
via pixabay.com
懲役20年と一・二審判決が確定し重信房子はそれに従い、その後服役しましたが、重信房子は以前から大腸がんを発病しており、医療刑務所に移送され、経口抗がん剤に加えて点滴による抗がん剤投与なども行われていたそうです。その抗がん剤の副作用で長い間苦しみ続け、その後も服役しながら病魔と闘い続けています。
ただ、未決勾留期間の3年間を差し引いた17年という年数のみとなるので、正しくは懲役20年に満たない17年の服役で、その後出所予定となりました。そのため、重信の出所予定は2027年となっています。
ただ、未決勾留期間の3年間を差し引いた17年という年数のみとなるので、正しくは懲役20年に満たない17年の服役で、その後出所予定となりました。そのため、重信の出所予定は2027年となっています。
重信房子の現在
via pixabay.com
1974年のハーグ事件の後、国際指名手配をされていた重信房子は、2000年に逮捕された後、日本赤軍の解散宣言を翌年の2001年にしてからは、ハーグ事件の裁判が続き、その判決が下ったのは9年後の2010年でした。重信房子の刑期はその後30年と決まり2040年に彼女は出所することになりました。
しかしその後、重信房子の体は病魔に蝕まれており、大腸がんに侵されていることが発覚します。すぐに重信房子は普通の刑務所ではなく全国で4か所ある医療刑務所の中の1つである八王子医療刑務所に移送されることになりました。
しかしその後、重信房子の体は病魔に蝕まれており、大腸がんに侵されていることが発覚します。すぐに重信房子は普通の刑務所ではなく全国で4か所ある医療刑務所の中の1つである八王子医療刑務所に移送されることになりました。
支援団体「重信房子さんを支える会」が日記を掲載
via pixabay.com
八王子医療刑務所での重信房子の様子は、彼女の支援団体「重信房子さんを支える会」というものがあり、その団体が発行する「オリーブの樹」に重信房子本人の日記が掲載されているため、そこから知ることができます。
重信房子は自身の支援団体「重信房子さんを支える会」が発行する「オリーブの樹」を病床で購読しており、支援団体に対して多忙な中、自身の日記を掲載し、記事を毎回書いてくれたことに対して感謝し、入力や編集、編集室の人々に対して日記の中で感謝の意を示しています。
重信房子は自身の支援団体「重信房子さんを支える会」が発行する「オリーブの樹」を病床で購読しており、支援団体に対して多忙な中、自身の日記を掲載し、記事を毎回書いてくれたことに対して感謝し、入力や編集、編集室の人々に対して日記の中で感謝の意を示しています。
2008年小腸にガンが見つかる
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逮捕後、重信房子の体に大腸がんが見つかってしまい、八王子医療刑務所で最初の手術を受けることになりました。八王子の医療刑務所に移送されてからは、そのまま抗がん剤での療養が続きましたが、副作用の苦しさや髪が抜けるといった症状もあったようです。最初の手術が終わって2008年になる頃には、がんは大腸から転移し、大腸のみならず小腸にまでもがんが転移していたのです。
再手術となった重信房子の手術の費用は、国から出た医療費でまかなわれました。その後も全身に転移を続けているがんは重信房子の体力を奪い、今ではほぼ寝たきりの生活を余儀なくされているようです。
再手術となった重信房子の手術の費用は、国から出た医療費でまかなわれました。その後も全身に転移を続けているがんは重信房子の体力を奪い、今ではほぼ寝たきりの生活を余儀なくされているようです。
治療の経過
via pixabay.com
大腸がんが見つかってその後がんが小腸に転移した重信房子の治療の経過としては、2008年1月に小腸に転移したことで八王子医療刑務所から東日本矯正医療センターで小腸ガンの手術を行い、いったんがんは取り除いたものの、その後さらに省庁に転移が見つかったそうです。
そのため、さらにその後がんの手術を行い、合計で今のところ3回がんの手術をしているそうです。その後は経過を見ながら抗がん剤治療を続けているそうですが、闘病生活は重信房子の体に多大な負担がかかる治療となっていることは間違いなさそうです。
そのため、さらにその後がんの手術を行い、合計で今のところ3回がんの手術をしているそうです。その後は経過を見ながら抗がん剤治療を続けているそうですが、闘病生活は重信房子の体に多大な負担がかかる治療となっていることは間違いなさそうです。
2018年1月東日本矯正医療センターに移送
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重信房子は、現在も全身のあちこちに転移したがんに対して、抗がん剤を何度も投与しながら、療養して服役を続けています。2018年1月に重信房子がいた八王子医療刑務所が閉所されたことに伴い、東日本成人矯正医療センターに移って今も服役を続けています。
この東日本成人矯正医療センターに移ったことで、それまでいた八王子医療刑務所とは違い、それまでよりも高度な医療と充実した治療が受けられるようになったといいます。
この東日本成人矯正医療センターに移ったことで、それまでいた八王子医療刑務所とは違い、それまでよりも高度な医療と充実した治療が受けられるようになったといいます。
重信房子の娘「重信メイ」
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重信房子は奥平剛士と偽装結婚ののちに、パレスチナ人の男性と結婚しました。そして、その男性との間にできた女の子が重信メイです。彼女の父親も、重信房子と同じく活動家でした。
彼はイスラエルとの闘争の途中で亡くなったといわれています。そんな父親と重信房子という母親のもとで育った彼女は、どのような人生を歩んでいったのでしょうか?ここからは、重信房子の娘で現在、日本でジャーナリストとしても活躍中の重信メイにスポットをあててみていきましょう。
彼はイスラエルとの闘争の途中で亡くなったといわれています。そんな父親と重信房子という母親のもとで育った彼女は、どのような人生を歩んでいったのでしょうか?ここからは、重信房子の娘で現在、日本でジャーナリストとしても活躍中の重信メイにスポットをあててみていきましょう。
重信房子の偽装結婚と出産
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重信房子は奥平剛士との偽装結婚のあと、パレスチナ人の男性と結婚し、仲間もできてそのまま中東に滞在してしまいました。そのままアラブの地域的な正義に埋没していた重信房子は、レバノンのベイルートで1973年3月1日に娘のメイさんを出産しました。
重信房子は、女性革命家としての顔と、重信メイの母親という顔があり、あくまでも娘のメイさんの前では、とても優しい母親だったようです。重信房子は娘のメイさんの前では常に冷静で、感情に任せて怒る姿も見せませんでした。叱るときは、なぜ悪いのかを辛抱強く伝える努力をしていたといいます。
重信房子は、女性革命家としての顔と、重信メイの母親という顔があり、あくまでも娘のメイさんの前では、とても優しい母親だったようです。重信房子は娘のメイさんの前では常に冷静で、感情に任せて怒る姿も見せませんでした。叱るときは、なぜ悪いのかを辛抱強く伝える努力をしていたといいます。
中東パレスチナで生まれ育つ
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8歳の時に、母親である重信房子から「パレスチナ人と共に闘うため日本から来た」と教えられ、イスラエルにも、日本政府にも同時に追われていたため、イスラエル情報機関を警戒しながらも、そこから逃れるように現地の難民キャンプなどを転々としながら、母親の仲間以外にメイさんは、自分の出生や本名を伏せて暮らしました。
メイさんが中東での生活で一番つらかったのは、出生届を出しておらず無国籍の状態で、自分が何者かを周りの人にうそをつかなければ生きていけなかったことでした。友達や恋人と親しくなるほどに、すべてを嘘で塗り固めなくてはならず、身に危険が迫ったら連絡なくその地から姿を消さなければならなかったといいます。
メイさんが中東での生活で一番つらかったのは、出生届を出しておらず無国籍の状態で、自分が何者かを周りの人にうそをつかなければ生きていけなかったことでした。友達や恋人と親しくなるほどに、すべてを嘘で塗り固めなくてはならず、身に危険が迫ったら連絡なくその地から姿を消さなければならなかったといいます。
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小さいころ、クルド人の子と遊んでいて石を投げられた時、重信房子から「あなたは何も悪くない。自分で相手を説得してきなさい」と背中を押してくれたそうです。そんな母親をメイさんは幼いころから慕っていました。パレスチナでの通学や出入国に必要な仮の身分証明書の確保にはアラブ諸国などの支援を受け、1997年にベイルート・アメリカン大学を卒業後、同大学国際政治学科大学院に進学しました。
また大学で一人暮らしを始めると、重信房子は娘のためにギョーザを100個、徹夜で手作りしたこともあるそうです。その後、メイさんはジャーナリストになるため、1998年~2001年レバノン大学で、ジャーナリズムを学びました。
また大学で一人暮らしを始めると、重信房子は娘のためにギョーザを100個、徹夜で手作りしたこともあるそうです。その後、メイさんはジャーナリストになるため、1998年~2001年レバノン大学で、ジャーナリズムを学びました。
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