2019年8月31日 更新

美人革命家・重信房子の現在は?逮捕されるまでの活動や生い立ちも

あなたは日本赤軍という団体を知っていますか?ここではその日本赤軍をリーダーとして率いた女性革命家の重信房子について詳しくご紹介します!重信房子が起こした事件や日本赤軍の活動、そして重信房子の娘の現在の様子についてみていきましょう。

目次

連合赤軍中央委員会副委員長を務めていた永田洋子は、連合赤軍中央委員会委員長の森恒夫と共に、活動資金を調達するため銀行などを襲撃したりと徐々に行動がエスカレートしていきました。

しかし、警察に追われる日々が続き、追い詰められた連合赤軍のメンバーたちは、あさま山荘事件の主導者としても、犯人グループ5人とはまた別件で、あさま山荘事件の後に幹部が逮捕されました。
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そして、その取り調べで明らかになったのは、あさま山荘事件よりずっと前に「山岳ベース事件」で仲間たち12人の命を集団リンチによって奪っていたという新事実が明らかになりました。

「総括」「自己批判」「内ゲバ」「粛清」

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連合赤軍は、大菩薩峠事件での相次ぐメンバーの逮捕ですっかり弱小化し、グループは追い詰められていきました。1972年に入ってからは、群馬県の山岳地帯のアジトを移動していたメンバーの中で「反革命的戦士は排除せよ」と徹底的に自己批判を求められました。

その挙句、「粛清」や「総括」などという名目の仲間同士での集団リンチが始まり、同じ志をもっていたはずの仲間を次々に暴行した末に殺したのです。この殺人は「内ゲバ殺人」、「山岳ベース事件」とも呼ばれています。
Violence Against Women Domestic - Free photo on Pixabay (595675)

しかしその実態は、同じ仲間同士で日々抱いていた嫉妬や私的な恨みからくるもので、政治的なものと一切関係なかったといわれています。ささいな理由から、12人ものメンバーが同じ赤軍派のメンバーに無残にも殺されました。

2011年死亡

Doctor Tomograph I Am A Student - Free photo on Pixabay (595234)

その首謀者の1人だった当時27歳の最高幹部の永田洋子は、その後逮捕され、1982年6月に死刑となりました。1993年2月に死刑執行が決定していた永田洋子でしたが、獄中では脳腫瘍が悪化していたのです。

永田洋子は、その後も非常に衰弱しきった状態で、療養を続けながらも、症状は悪化して最後には、ろくに会話ができない状態となってしまい、そんな状態が続いた末、2011年2月5日に東京拘置所内で病死しています。

永田洋子が残した逸話

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そして、山岳ベースで殺されたメンバーの中の重信房子の親友で赤軍派幹部の妻だった遠山美枝子と、美人と評判だった革命左派の女性、吉野雅邦と事実婚していた妊娠8カ月の女性ら3人は、永田洋子の嫉妬によって殺されたという逸話が残っています。

永田洋子自身はこの事実を否定しており、遠山については女性っぽいところや、他の2名の女性についての都市的な自主性を、永田洋子自身を含む連合赤軍全員がみんな否定的に捉えていたことが原因としています。

しかし遠山美枝子は「山岳ベース事件」での総括ので、永田洋子に過去の男性関係を洗いざらい白状させられ、自分の顔を自分で殴ることを命じられたといいます。そして、遠山美枝子に永田洋子は鏡を渡して、殴られて腫れた顔を見させたのです。

ハーグ事件とは

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ハーグ事件とは、重信房子が日本赤軍が起こした事件の中で、重信房子が直接関与したといわれている唯一の事件といわれています。

ハーグ事件とは、日本赤軍がフランス当局に逮捕されたメンバーの山田義昭を奪還するために、オランダのハーグでフランス大使館占拠し、重信房子はこの事件がきっかけで、逮捕監禁罪・殺人未遂罪などの共謀共同正犯で起訴され、国際指名手配されることになりました。
ここからは、そんなハーグ事件の全貌や事件の詳細などを詳しくみていきましょう!

1974年9月フランス大使館占領事件

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ハーグ事件の経緯については、1974年9月に日本赤軍がフランス警察に逮捕された山田義昭という同じ日本赤軍のメンバーを奪還するため、オランダのハーグで起こしたフランス大使館占拠事件のことをいいます。

この事件には、日本赤軍最高幹部の重信房子も関与していたとされており、犯行グループは要求を呑ませてシリアに逃亡した事件です。もともとは逮捕された仲間を救うため、重信房子と実行役だった奥平純三、和光晴生、西川純の3人が共謀して起こした事件といわれています。

大使ら11人を監禁

Fence Prison Deprivation Of - Free image on Pixabay (595556)

1974年、日本赤軍は逮捕されたメンバーを取り返す目的で、日本赤軍メンバーの和光晴生、奥平純三、西川純の3人が、フランス大使館を襲撃するという事件が起こります。

その年の9月10日には、和光晴生と奥平純三、西川純の3人はスイスのチューリッヒで合流し、鉄道でオランダに入国しました。そして、オランダのフランス大使館に拳銃・手榴弾で武装して侵入した後、大使館の中で大使11人を大使室に立てこもって人質たちを監禁したのです。

日本赤軍の目的と要求

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日本赤軍がこのような事件を起こした目的と要求は、オランダに対してとフランスに対しての2つがあります。まずフランスに対しては、日本赤軍の山田義昭がパリのオルリー空港で「偽造米ドル所持」や「偽造旅券行使」などの容疑で逮捕されて、服役中のため、この山田の引き渡しを求めていることが第一の目的でした。

そして、あとは身代金の30万ドルの要求でした。日本赤軍はオランダ政府に対し、30万ドルを渡し、逮捕されたはずの山田も釈放され戻ってきました。

カルロスによる爆弾テロ

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オランダでの日本赤軍の後方支援を依頼されたのはベネズエラ人の国際テロリストのカルロス・ザ・ジャッカルでした。彼のコードネームはカルロスと呼ばれており、1973年から1984年にかけて14件のテロ事件に関与していました。これまでに世界中で83人を殺害、100人を負傷させ世界を暗躍していたそうです。

追い詰められた日本赤軍は、パレスチナ解放人民戦線(PFLP)のテロリストであるカルロスがこれに了承してパリで爆弾テロを起こしました。この爆弾テロにより2人が死亡、34人が負傷を負ったといわれています。

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