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日本赤軍の目的とは、資本主義社会に疑問を持った重信房子と同じような若者たちが、同じ志を持った者同士で徒党を組み、暴力で世界を共産主義社会に変えていこうとすることを目的に一種のテロ行為、革命行為を成功させようというものでした。
ただ、その革命は、非常に暴力的だったのが問題で、彼女たちが起こした多くの無差別テロ行為は世界各地で多くの犠牲者を出し、世界でも問題視され、国際指名手配になるまでになったのです。
ただ、その革命は、非常に暴力的だったのが問題で、彼女たちが起こした多くの無差別テロ行為は世界各地で多くの犠牲者を出し、世界でも問題視され、国際指名手配になるまでになったのです。
中東や海外を拠点に多くの武装事件を起こす
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日本赤軍は、その後も中東を拠点として、パレスチナのPFLPの協力を得て、多くの武装事件を起こすことになります。そこにはテルアビブ国際空港での銃乱射事件で逮捕された岡本公三の奪還のためのドバイ日航機ハイジャック事件を起こします。
そしてその後フランス警察に拘束された同志の奪還のためにオランダのフランス大使館で人質を取り、同士奪還を果たします。その後もクアラルンプール事件、ダッカ日航機ハイジャック事件など、多くの事件を引き起こし、多数の死傷者を出したのです。
そしてその後フランス警察に拘束された同志の奪還のためにオランダのフランス大使館で人質を取り、同士奪還を果たします。その後もクアラルンプール事件、ダッカ日航機ハイジャック事件など、多くの事件を引き起こし、多数の死傷者を出したのです。
2001年4月正式に解散
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その後時は過ぎ、1990年代にもなると日本赤軍のメンバーの高齢化と共に、後継者がいなくなってしまったことで、弱体化を余儀なくされていました。中東から日本に帰国していた重信房子は、支持者によってかくまわれ、警察から身を隠して生活していました。
しかし、2000年に大阪府西成区で逮捕された重信房子は、その翌年2001年4月に日本赤軍を解散するという声明を獄中から発表しました。2009年には重信房子が過去の自らの活動について「世界を変えるといい気になっていた」とインタビューに答えました。
しかし、2000年に大阪府西成区で逮捕された重信房子は、その翌年2001年4月に日本赤軍を解散するという声明を獄中から発表しました。2009年には重信房子が過去の自らの活動について「世界を変えるといい気になっていた」とインタビューに答えました。
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「運動が行き詰まったとき、武装闘争に走った。世界で学生運動が盛り上がっていたが、故郷に戻り、運動を続けたところもあった。私たちも故郷に戻って運動を続けていれば、変わった結果になったかもしれない」と自責の念にも駆られていました。
無効宣言を発表
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逮捕されたその翌年の2001年4月に重信房子は解散宣言をしましたが、その解散宣言のすぐ後に、日本赤軍は事実上解散となりました。しかし、突然の解散宣言に驚いた当時南米に潜伏中だった2名のメンバーはこれを不服とし、今後も世界革命闘争を続けると無効宣言を発表したのです。
しかしその後も、後継者不足ということもあり、日本赤軍は以前のような勢いは完全に失ってしまい、事実上の解散に追い込まれてしまったといわれています。
しかしその後も、後継者不足ということもあり、日本赤軍は以前のような勢いは完全に失ってしまい、事実上の解散に追い込まれてしまったといわれています。
現在も国際指名手配中
日本赤軍が解散した後も、7名のメンバーは今も国際指名手配されており、未だに安否が確認されていません。ほとんどのメンバーは逮捕されるか死亡していますが、未だに逃亡中のメンバーもいるのです。
今も逃亡中のメンバーは、警察は捜索を続けてはいるものの、未だに日本国外にいるのか、それとも不法入国で日本に既に帰国しているのかさえも、定かではありません。その生存さえもはっきりしておらず、高齢にもなっているので、既に死亡しているかもしれません。
今も逃亡中のメンバーは、警察は捜索を続けてはいるものの、未だに日本国外にいるのか、それとも不法入国で日本に既に帰国しているのかさえも、定かではありません。その生存さえもはっきりしておらず、高齢にもなっているので、既に死亡しているかもしれません。
最高指導者永田洋子
連合赤軍の最高指導者だった永田洋子は、1971年から1972年にかけて群馬県の山岳のアジトで、武装闘争の名目で集団リンチを仕掛けて同じ赤軍派だったメンバー12人を残虐にも凍死などで殺害してしまいます。
この恐ろしい内ゲバ殺人により、全共闘運動はまもなく終焉を迎えたが、なぜ永田洋子はこのような恐ろしい行動をとったのでしょうか?永田洋子の生い立ちから詳しくみていきましょう。
この恐ろしい内ゲバ殺人により、全共闘運動はまもなく終焉を迎えたが、なぜ永田洋子はこのような恐ろしい行動をとったのでしょうか?永田洋子の生い立ちから詳しくみていきましょう。
生い立ち
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永田洋子は、終戦の年である1945年に東京都文京区に生まれます。幼少期は気性が荒く、女の子だったにもかかわらず、おしゃれに無頓着な男の子っぽい女の子でした。
そして、その後私立調布学園中等部から後頭部に進学して共立薬科大学に進学しますが、ここで学生運動に夢中になってしまいます。
そして、その後私立調布学園中等部から後頭部に進学して共立薬科大学に進学しますが、ここで学生運動に夢中になってしまいます。
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そして、医療問題などについて友人に積極的に議論を吹っかけるようになり、1964年1月には「社学同ML派(マルクス・レーニン主義派)」の集会に参加し、それがきっかけで彼女のそれ以降の人生がガラリと変わってしまったのです。
人柄
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永田洋子の人柄は、気性が荒いのが特徴で、小さなころから女の子っぽいところはあまりなかったようです。幼少期にバセドー病にかかり、子供が生めない身体になったと認識するようになることで、このことが本人の人格形成に大きな影響を与えている可能性が指摘されることがあります。
しかし永田洋子自身は「妊娠中絶しなくて済む」と考えて特に気にかけていなかったともいわれています。しかし、大学生になってからバセドー氏病の症状が再び出てきて、この病気は過去に治療で完治したと思っていたはずが「男性に好かれないのはそのためだ」と思いこむようになってしまったともいいます。
しかし永田洋子自身は「妊娠中絶しなくて済む」と考えて特に気にかけていなかったともいわれています。しかし、大学生になってからバセドー氏病の症状が再び出てきて、この病気は過去に治療で完治したと思っていたはずが「男性に好かれないのはそのためだ」と思いこむようになってしまったともいいます。
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卒業後は大学病院の薬局で働き始めますが、気性の荒さから上司や同僚に嫌われてしまい、職場を転々として「病院の薬の購入方法に不正がある」という何の根拠もない告発をしたことがきっかけで病院を辞め、革命家としての活動にのめりこんでいきます。
その後、あまりに活動にのめり込むあまりメンバーの中で気に入らない人間を集団リンチという名目で消そうとするという彼女のなかの隠された残虐性も出てきてしまったのです。
その後、あまりに活動にのめり込むあまりメンバーの中で気に入らない人間を集団リンチという名目で消そうとするという彼女のなかの隠された残虐性も出てきてしまったのです。
あさま山荘事件の主導者
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