2019年8月31日 更新

美人革命家・重信房子の現在は?逮捕されるまでの活動や生い立ちも

あなたは日本赤軍という団体を知っていますか?ここではその日本赤軍をリーダーとして率いた女性革命家の重信房子について詳しくご紹介します!重信房子が起こした事件や日本赤軍の活動、そして重信房子の娘の現在の様子についてみていきましょう。

目次

美人革命家と言われた重信房子の現在

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今や還暦を過ぎて、療養中の重信房子はかつて美人革命家と呼ばれ、世間を騒がせていました。この重信房子とは一体どのような女性だったのでしょうか?

なぜごく普通の女子大生だった彼女が学生運動への参加をきっかけに過激派テロ組織を率いるまでの革命家になったのはその生い立ちに隠されているようです。

可愛いと評判の重信房子の生い立ち

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日本赤軍の女帝とも当時呼ばれていた重信房子は、幼いころから顔立ちが良く、美人と評判のかわいらしい女の子でした。大人になってもそれは変わらず、赤軍を率いてた時にも対立する公安の男性の中には彼女の美貌に魅了されたファンもいたといわれています。

ここからはそんな彼女の生い立ちを詳しくみていきましょう!

世田谷の4人兄弟の次女として誕生

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重信房子は、1945年9月28日に東京都世田谷区4人兄弟の次女として生まれました。父親と母親、そしてたくさんの兄弟たちに囲まれて重信房子はごくごく普通の幼少期を迎えます。すくすくと成長していく重信房子でしたが、家族の生活は決して裕福とはいえないものでした。

重信房子の父親は右翼思想を持っており、そんな父親の思想が幼い重信房子のその後の人生を左右するほどの影響を、この幼少期に与えることになるのです。

父親は右翼団体金鶏学院の門下生

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重信房子の父親はかつて右翼団体金鶏学院の門下生でした。重信房子の父親の通っていた金鶏学院は、終戦後にGHQの指令により解散してしまったので、今はもうありませんが、かつては東京の小石川にあり、陽明学者だった安岡正篤が1926年4月に開いた私塾でした。安岡は右翼思想が強く、暴力なき国家の改造を望んでおり、暴力使わず、平和に国家を改造したいという安岡の想いをもとにつくられました。

しかし、この学院の講師には日本近代右翼思想史のなかにもたびたび登場する黒竜会にも参加した権藤成卿もいました。権藤は、講師としてた主に革命を教唆するような授業をしていたといいます。
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講師となった権藤は、日本の統治に関しては村々に自治を任せて政府はほとんどいらないというような無政府主義をとなえており、人々から税金を徴収し、富国強兵を図る当時の日本の国が嫌で、革命を起こしたかったといわれています。

そのため、この金鶏学院にいた生徒たちにそういった右翼思想を植え付け、革命をそそのかしたともいわれています。そして、その影響を多大に受けた生徒のうちの1人が、重信房子の父親だったのです。

幼少期は小さな親切運動に取り組む

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重信房子は、父親の影響を多く受け、幼少期に周りの人たちに思いやりの心と親切な心をもって接することで、できる範囲で人助けをしていこうという「小さな親切運動」というものに非常に熱心に取り組んでおり、表彰されたこともあるほど、周りの人のことを考える思いやりのある女の子だったようです。

この「小さな親切運動」の運営費は会員の寄付によって行われていて、法人会員と個人会員の2種類があり、全国で多くの人がこの小さな親切運動に取り組んでいました。

文学少女

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重信房子は、小さなころから読書好きで、いつも本ばかり読んでいる文学少女でした。その頃は、将来女性革命家として、日本赤軍を統率することなど微塵も思わせないほど、平凡で普通の本好きな女の子だったのです。

そして重信房子はその後、東京都立第一商業高校に入学し、ごくごく普通の女子高生として友達を作り、楽しく学生生活を送り、その後小さなころから変わらず本好きだったことから重信房子は、将来の夢として小学校の国語の教師を志すようになります。

東京都立第一商業高等学校卒業

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東京都立第一商業高等学校を卒業した重信房子は、当時家が非常に貧しく極貧生活だったため、普通に大学に進学をすることは難しく、働かざるを得ませんでした。しかし、重信房子には夢がありました。

その夢を叶えるため、彼女は家にお金を入れながら学校に通うことを選択します。高校卒業後には、昼間はキッコーマンで仕事をして、夜は明治大学文学部の夜間に通い続けるという働きながら勉強する苦学生としての道を歩み始めるのでした。

小学校教員を目指し夜学に通う

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重信房子の夢は、国語の先生になることでした。そんな彼女は小学校教諭になるため、明治大学の夜学に通い始めることになります。そして、大学では文学研究会で『一揆』というミニコミ誌を出していました。そんな文学研究会が属していた文学研究部連合会の事務長を務めていた重信房子は学費値上げに絡んで明大闘争に参加しましたのです。

ほんの軽い気持ちで参加した学生運動でしたが、この学生運動が重信房子が初めて参加した学生運動でした。これが、重信房子のその後の人生を決定づけてしまう出来事になってしまいます。

可愛いと評判の女性だった

Instagram post by non_political  no_sex • Sep 28, 2018 at 8:06am UTC (593321)

重信房子は、小さいころから可愛いらしい少女として有名でしたが、大学生にもなるとさらに周りから注目を集めるほど可愛い容姿だと、周囲から評判の美人へと成長していきます。当時、彼女に想いを寄せる学生も多かったことでしょう。

それはその後、日本赤軍を率いる幹部メンバーとして、世間を騒がせるようになった後も変わらず、テレビや新聞などのマスメディアに取り上げられたことでその容姿の美しさから美人革命家として一躍有名になったのです。

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