2019年9月25日 更新

チャールズ・マンソンとは?彼の生い立ちや息子についても

自分の信者達を利用して7人の命を奪ったチャールズ・マンソン。彼はその残虐性とある種のカリスマ性から映画の題材になるなど、2017年に死しても尚、人々の関心を得続けています。今回はそんなチャールズ・マンソンの犯した罪、結婚から息子のことまで丸ごと紹介します!

目次

チャールズ・マンソンはビートルズのジョージ・ハリスンが作った曲「ピッギーズ」からも影響を受けました。この曲はフォークとナイフで食事する上流階級社会のこと歌ったものでしたが、チャールズ・マンソンは黒人は豚で、体制に最高級のお仕置きをするべきだと解釈したのです。

実際1969年8月9日に殺害されたシャロン・テート邸のドアには「Pig」と、翌日殺害されたラビアンカ夫妻の壁には「Death to Pig」と血で書かれていました。

チャールズ・マンソンが無差別殺人を引き起こすまで

Forest Dark Woods - Free photo on Pixabay (644138)

音楽への独自の解釈、黒人と白人の対立、終末戦争などめちゃくちゃすぎるこれらの主張からマンソン・ファミリーを辞める人もいましたが、更にのめり込む信者もいました。

チャールズ・マンソン率いるマンソン・ファミリーはどのような経緯をたどって無差別殺人を決行するに至ったのでしょうか?1967年にカルト集団「マンソン・ファミリー」が結成され、無差別殺人を起こすまでの経緯を紹介します。

出所後「ファミリー」と呼ばれるコミューンを作成

House Building Wall - Free photo on Pixabay (644139)

孤児院からの脱走、母親からの拒絶、ストリートチルドレンという恵まれない少年時代を過ごしたチャールズ・マンソンは、1967年に釈放されるまで小さな犯罪を繰り返し、人生のほとんどを刑務所で過ごしました。

1967年に32歳で出所したマンソンは、社会への不満を持つ若者を集めてコミューンを作成しました。ベトナム戦争の泥沼化、体制に対する不満を持つ者の増加、大麻・LSDの蔓延という社会背景と、自身を拒絶した社会に対するリベンジを誓ったチャールズ・マンソンの過激な思想が合致したのです。

時代背景と合致し多くの少女が集う

Worried Girl Woman Waiting - Free photo on Pixabay (644140)

出所後のチャールズ・マンソンは長髪で無精髭を蓄えており、刑務所で習得したギターを片手に歩く姿はヒッピーそのものでした。平和と快楽を求めるヒッピーはファッション、行き方共に当時大流行しており、体制に不満を持つ若者はヒッピーの快楽を追求する生活に憧れました。

中でもチャールズ・マンソンの元には中流家庭の白人の少女たちが多く集まりました。そんな少女たちにチャールズ・マンソンは安心してドラッグとセックスと音楽を楽しめる場所を提供したのです。

LSDを用いて少女を洗脳し男性信者も増やす

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少女たちはドラッグ、中でもLSDを多用し、セックスと音楽に埋もれた日々を送りました。そんな彼女たちはLSDを使用しセックスすることで男性を虜にし、洗脳していったのです。

チャールズ・マンソンの説教の内容は支離滅裂で陳腐なものでしたが、彼の元々持っている人々の歓心を得る能力と、そのいかにもヒッピーなルックスで男性信者も増えていきました。

チャールズ・マンソンは157センチと小柄な男でしたが、毎朝ヘアスタイル維持に時間をかけるなど外見に気を配る一面があり、実際彼の容姿は女性のみならず男性からも支持されていました。

狂信的な思想を展開する

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自身もLSDを服用していたチャールズ・マンソンが展開した思想は、狂信的なものでした。聖書や流行の音楽を独自に解釈したチャールズ・マンソンの思想は反体制的で、殺人さえも正当化するようなものだったのです。

そもそもLSDという薬物は、12時間以上持続するという幻覚症状をもたらします。そのためチャールズ・マンソン自身がLSDを服用し陶酔状態である中で展開された思想は、本人さえも覚えていないようなめちゃくちゃな内容でしたが、LSDで陶酔状態の信者の心には強く響いたのです。

メジャーデビューしようと試みるも叶わないと知る

Feather Bird Drop Of - Free photo on Pixabay (644148)

刑務所でギターを習得したチャールズ・マンソンは、無差別殺人を決行する前はミュージシャン志望でした。著名なミュージシャン、とりわけビーチ・ボーイズのデニス・ウィルソンとは仲が良く、デニス・ウィルソンはロサンゼルスの自身の大豪邸の一部をマンソン・ファミリーに提供し酒とドラッグとセックスのパーティー三昧の生活をさせていました。

チャールズ・マンソンの曲をデニス・ウィルソンが演奏する曲もレコーディングされ、本格的にメジャーデビューする日を夢見るようになったのです。

逆恨みでテリ・メルチャー殺害を計画する

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デニス・ウィルソンの紹介で知り合った音楽プロデューサー、テリ・メルチャーともチャールズ・マンソンは親交を深めました。そのこともあって本当にデビューできると思っていたチャールズ・マンソンでしたが、実現には至らず失望します。

「音楽社会からも拒否された」と感じた彼は、デビュー実現を叶えてくれなかったテリ・メルチャーに対し激しく憤り、彼を殺害することを計画します。

また、デニス・ウィルソンがロサンゼルスの大豪邸から引っ越したことでマンソン・ファミリーは住む場所を失いました。そのため彼らはロサンゼルスから少し離れた映画の撮影用牧場に拠点を移し、そこでLSDの量を増やし、倒錯した心理状態の中テリ・メルチャーへの怒り、音楽社会への怒り、社会への怒りを増加させたのです。

1969年8月女優を含む7人を殺害

Hand Table Cloth Crime Black And - Free photo on Pixabay (644152)

テリ・メルチャーを殺害することを計画したマンソン・ファミリーの主要幹部は、1969年8月9日に計画を決行するべくテリ・メルチャーの自宅へ向かいました。

ところが、テリが住んでいると思っていた家にいたのは女優シャロン・テートと遊びに来て行った友人3人(彼女の元恋人でヘアスタイリストのジェイ・セブリング、有名コーヒーメーカーの令嬢アビゲイル・フォルジャー、アビゲイルの恋人ヴォイテク・フリコウスキー)だったのです。

彼らは全員殺害され、さらに翌日に地元スーパーの経営者ラビアンカ夫妻も殺害されたのです。

残酷な殺害現場

Staircase Body Corpse - Free photo on Pixabay (644156)

テリ・メルチャーが住んでいた家には、事件当時アメリカ人女優のシャロン・テートとその夫で映画監督のロマン・ポランスキーが住んでいました。ポランスキーは仕事でイギリスに滞在していたため一命を取り留めましたが、妻シャロンと遊びに来ていた彼女の友人3人は運悪くマンソン・ファミリーの手によって殺害されてしまいました。

殺害現場となったシャロン・テートの家は、残虐な犯行が行われたことを容易に想像できるほど見るに耐えない酷い状態でした。翌日に殺害されたラビアンカ夫妻の自宅も同様に惨い状態で発見され、世間は恐怖で震えました。

たまたま通りかかった男性を射殺

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