目次
- ただ女性に愛されたかったチャールズ・マンソンの生涯
- チャールズ・マンソンとは
- 1960〜1970年代にかけてコミューンを作成
- 信者たちを使い無差別殺人を行う
- 合計7人を虐殺
- コミューンメンバーが軽犯罪で逮捕される
- 実行犯女性が刑務所で無差別殺人事件について自慢し芋づる式に逮捕される
- 共謀罪で死刑判決が下る
- 無差別殺人の実行犯
- スーザン・アトキンス
- テックス・ワトソン
- パトリシア・クレンウィンケル
- ファミリーでは20名の逮捕者が出る
- チャールズ・マンソンの生い立ち
- 売春婦の16歳少女の元に誕生する
- 母親から育児放棄を受け戸籍・名無しであった
- 数ヶ月後「チャールズ」と名付けられる
- 母親の逮捕により伯父、伯母、祖母に引き取られる
- 伯父からの影響
- 孤児院に入れられる
- 母親に会いに行くも見放される
- 9歳で初めて犯罪に手を染める
- 様々な犯罪行為を繰り返し刑務所を行き来する
- チャールズ・マンソンの主張
- 自身はキリストの復活である
- じき人種戦争が起こる
- 黒人に国は統治できない
- 洞窟で終末戦争を回避し新たな支配者になろう
- 戦争が起こるように黒人のフリをして白人を殺害しよう
- 「豚」を殺せ
- チャールズ・マンソンが無差別殺人を引き起こすまで
- 出所後「ファミリー」と呼ばれるコミューンを作成
- 時代背景と合致し多くの少女が集う
- LSDを用いて少女を洗脳し男性信者も増やす
- 狂信的な思想を展開する
- メジャーデビューしようと試みるも叶わないと知る
- 逆恨みでテリ・メルチャー殺害を計画する
- 1969年8月女優を含む7人を殺害
- 残酷な殺害現場
- たまたま通りかかった男性を射殺
- 妊娠8ヶ月の妊婦を殺害
- 殺害後天井から吊るす
- 体はズタズタに切り裂かれていた
- 玄関やドアに血でPigと書く
- 壁や冷蔵庫にDeath to pigs
- チャールズ・マンソンの晩年
- 1964年11月に26歳の女性と婚約
- 1971年死刑判決を受けるも終身刑に減刑
- 12回の保釈申請を行うも全て却下される
- 2017年11月病院で死亡
- チャールズ・マンソンの大きな影響
- 婚約者はマンソンの遺体を利用して商売することが目的
- Cease to exitという曲
- マリリン・マンソン
- 映画作品が数多く作られる
- 作成した監督が次々に死亡し「悪魔マンソンの呪い」と言われている
- 死亡後遺体の引き取りに5人が名乗り上げ、さらに増えると予想
- チャールズ・マンソンは殺人を命令していなかった?
- 「豚」を殺せは冗談であった
- テロ・メルチャーのみ殺害したかった
- 自身の発言を誤解した女性たちの一方的な犯行
- 本当のチャールズ・マンソン
- 臆病
- 神経質
- 刑務所では常にいじめの対象
- チャールズ・マンソンの息子
- マイケル・ブルンナー
- 生まれてすぐ養子に出される
- 母親はチャールズ・マンソンに強姦され妊娠
- 29歳で真実を知り父親に手紙を送る
- 平和を愛するベジタリアン
- チャールズ・マンソンは死んでも女性に愛されることはなかった
伯父と暮らしていたチャールズ・マンソンは、1942年から釈放された母親と暮らし始めます。その暮らしは、母親と母親の男複数と安宿を転々とするというものでした。
しかし16歳で出産した母親キャスリーンは息子を育てられないと判断し、チャールズ・マンソンは13歳の時に孤児院に入ることになります。キャスリーンは本当は息子を里子に出したかったのですが上手くいかず、仕方なく孤児院に入れることにしたのです。
孤児院に入れられたチャールズ・マンソンは、母親に見放された悲しい気持ちと社会福祉制度に対する不満の気持ちを募らせました。
しかし16歳で出産した母親キャスリーンは息子を育てられないと判断し、チャールズ・マンソンは13歳の時に孤児院に入ることになります。キャスリーンは本当は息子を里子に出したかったのですが上手くいかず、仕方なく孤児院に入れることにしたのです。
孤児院に入れられたチャールズ・マンソンは、母親に見放された悲しい気持ちと社会福祉制度に対する不満の気持ちを募らせました。
母親に会いに行くも見放される
via pixabay.com
孤児院に入って10ヶ月後、チャールズ・マンソンは脱走し母親に会いに行きますが拒否されます。自分のことを邪魔者扱いする母親の姿に、チャールズ・マンソンの心は更に傷つきました。孤児院に戻るつもりもなく行き場を失った彼は、その後ストリートチルドレンとなります。
母親の愛情を求めたのにも関わらずはっきりと拒絶されたチャールズ・マンソンは、それまでの複雑な生い立ちも重なり、社会に適応できなくなります。そして犯罪の道に足を踏み入れることになるのです。
母親の愛情を求めたのにも関わらずはっきりと拒絶されたチャールズ・マンソンは、それまでの複雑な生い立ちも重なり、社会に適応できなくなります。そして犯罪の道に足を踏み入れることになるのです。
9歳で初めて犯罪に手を染める
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そんなチャールズ・マンソンが初めて犯罪に手を染めたのは9歳の時でした。「学校なんて信じるな、言っちゃダメだ」という世捨て人の伯父の話に影響され、学校に火をつけたのです。
このことで初めて少年院に入ることになったチャールズ・マンソンでしたが、その後ちっぽけな犯罪を繰り返し、1967年までほとんどの人生を刑務所含む矯正施設で過ごすことになります。
1969年の最終逮捕後チャールズ・マンソンは、刑務所や更生施設で暴行、いじめ、強姦に遭ったことも告白しています。
このことで初めて少年院に入ることになったチャールズ・マンソンでしたが、その後ちっぽけな犯罪を繰り返し、1967年までほとんどの人生を刑務所含む矯正施設で過ごすことになります。
1969年の最終逮捕後チャールズ・マンソンは、刑務所や更生施設で暴行、いじめ、強姦に遭ったことも告白しています。
様々な犯罪行為を繰り返し刑務所を行き来する
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度重なるチンケな犯罪で1967年まで入所と出所を繰り返していたチャールズ・マンソンでしたが、その間2回結婚しています。
1度目の結婚は1954年19歳の時でした。ウエストヴァージニアの伯父との同居を条件に仮釈放されたとき、近所のウエイトレスと結婚したのです。2人は男児をもうけましたが結婚3年目に離婚しています。理由は結婚後もチャールズ・マンソンが軽犯罪を繰り返し、再び刑務所に入ったからです。
2回目の結婚は24歳の仮釈放の時です。ポン引きとして売春させていた売春婦と結婚し、2人は男児をもうけましたが4年後に離婚しています。
1度目の結婚は1954年19歳の時でした。ウエストヴァージニアの伯父との同居を条件に仮釈放されたとき、近所のウエイトレスと結婚したのです。2人は男児をもうけましたが結婚3年目に離婚しています。理由は結婚後もチャールズ・マンソンが軽犯罪を繰り返し、再び刑務所に入ったからです。
2回目の結婚は24歳の仮釈放の時です。ポン引きとして売春させていた売春婦と結婚し、2人は男児をもうけましたが4年後に離婚しています。
チャールズ・マンソンの主張
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チャールズ・マンソンの支離滅裂で意味不明な主張を本気で信じ心酔する人がいるという事実は、事件の残虐性に加え世間を震撼させました。
では信者たちを犯行に走らせたチャールズ・マンソンの主張とはどのようなものだったのでしょうか?
では信者たちを犯行に走らせたチャールズ・マンソンの主張とはどのようなものだったのでしょうか?
自身はキリストの復活である
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チャールズ・マンソンは自分のことをキリストの復活であり、時に「デビルマン」と自称しました。新約聖書に出てくる「ヨハネの黙示録」の地獄の穴からマンソン・ファミリーが現れたと説くなど、もともと影響力のある事柄や曲を独自に解釈し、信者に説いたのです。
人種差別主義者であるチャールズ・マンソンにはリーダーシップがあり、また相手の弱点や欲しいものを見抜くのが非常にうまかったことから、その一見馬鹿げた主張を信じる人がたくさんいたのです。
人種差別主義者であるチャールズ・マンソンにはリーダーシップがあり、また相手の弱点や欲しいものを見抜くのが非常にうまかったことから、その一見馬鹿げた主張を信じる人がたくさんいたのです。
じき人種戦争が起こる
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チャールズ・マンソンは、1968年にビートルズの「ホワイトアルバム」に収録された曲「ヘルタースケルター」に強く影響されました。
ヘルタースケルター(遊園地にある滑り台)を愛における困難の象徴と比喩し、おふざけで書いたという作者ポール・マッカートニーの意図とは全く別の意味でこの曲を解釈したチャールズ・マンソンの主張は次のようなものでした。
「ヘルタースケルターは『ハルマゲドンの予言』であり、今後黒人の過激派が武装蜂起して白人と黒人の戦いが始まり核戦争にまで発展するだろう。そしてその戦いに勝利するのは黒人である。」
ヘルタースケルター(遊園地にある滑り台)を愛における困難の象徴と比喩し、おふざけで書いたという作者ポール・マッカートニーの意図とは全く別の意味でこの曲を解釈したチャールズ・マンソンの主張は次のようなものでした。
「ヘルタースケルターは『ハルマゲドンの予言』であり、今後黒人の過激派が武装蜂起して白人と黒人の戦いが始まり核戦争にまで発展するだろう。そしてその戦いに勝利するのは黒人である。」
黒人に国は統治できない
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チャールズ・マンソンは、黒人の過激派が白人に武装蜂起することで始まるその戦争に勝利するのは黒人だが、黒人は社会を統治することは出来ないと主張しました。
当時流行していたビートルズの名曲「ヘルタースケルター」から、チャールズ・マンソンはこのような狂った終末論を展開し、主張したのです。
彼は、「音楽は日々語りかけてくるもので、多くの馬鹿でトンマな人間はそのことに気づいていない。音楽が俺に『立ち上がれ!』『殺せ!』と言ってくるんだ。」と語っています。
当時流行していたビートルズの名曲「ヘルタースケルター」から、チャールズ・マンソンはこのような狂った終末論を展開し、主張したのです。
彼は、「音楽は日々語りかけてくるもので、多くの馬鹿でトンマな人間はそのことに気づいていない。音楽が俺に『立ち上がれ!』『殺せ!』と言ってくるんだ。」と語っています。
洞窟で終末戦争を回避し新たな支配者になろう
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チャールズ・マンソンの主張には、白人と黒人間の戦争に勝利するも、国を統治することができない黒人に代わって社会を統治するのはマンソン・ファミリーである、という続きがありました。
デス・ヴァレーの洞窟で、黒人対白人の戦争を回避し生き残るマンソン・ファミリーこそが、最終的に社会を統治するというのです。そして自分たちが社会征服するという狂信的な終末論を達成するために、彼らにはきっかけが必要であり、このことがマンソン・ファミリーの起こした無差別殺人に繋がっているのです。
デス・ヴァレーの洞窟で、黒人対白人の戦争を回避し生き残るマンソン・ファミリーこそが、最終的に社会を統治するというのです。そして自分たちが社会征服するという狂信的な終末論を達成するために、彼らにはきっかけが必要であり、このことがマンソン・ファミリーの起こした無差別殺人に繋がっているのです。
戦争が起こるように黒人のフリをして白人を殺害しよう
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自分たちが最終的に社会を統治するためにはまず、黒人と白人の間で争いが起こる必要がありました。そのためチャールズ・マンソンは黒人の仕業と見せかけて白人を襲撃することを考えたのです。
この襲撃こそが1969年8月9日と10日に行われた無差別殺人でした。チャールズ・マンソン一行はこの襲撃事件を黒人の仕業に見せるため、当時有名だった黒人ギャング「ブラックパンサー」のシンボルを事件現場に残してきたと言われています。
この襲撃こそが1969年8月9日と10日に行われた無差別殺人でした。チャールズ・マンソン一行はこの襲撃事件を黒人の仕業に見せるため、当時有名だった黒人ギャング「ブラックパンサー」のシンボルを事件現場に残してきたと言われています。
「豚」を殺せ
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