2019年9月25日 更新

チャールズ・マンソンとは?彼の生い立ちや息子についても

自分の信者達を利用して7人の命を奪ったチャールズ・マンソン。彼はその残虐性とある種のカリスマ性から映画の題材になるなど、2017年に死しても尚、人々の関心を得続けています。今回はそんなチャールズ・マンソンの犯した罪、結婚から息子のことまで丸ごと紹介します!

目次

テリ・メルチャーの自宅と勘違いしシャロン・テートの家に車で向かったマンソン・ファミリーの狂信的信者3人、スーザン・アトキンス、レスリー・ヴァン・ホーテン、テックス・ワトソン、パトリシア・クレンウィルと首謀者チャールズ・マンソンは、下車したところを偶然車で通りかかった男性に話しかけられ、男性を殺害しました。

シャロン・テート邸に向かう4人に「何しているんだい?」と運悪く話しかけてしまった男性の名はスティーヴン・ペアレントといい、彼は4発撃たれ死亡しました。

妊娠8ヶ月の妊婦を殺害

Pregnant Girl Woman - Free photo on Pixabay (644160)

偶然通りかかった男性をあっけなく殺害した4人はシャロン・テートの家へと向かい、そこにいた4人を殺害しました。家の主人だったシャロン・テートは当時26歳で、夫であるロマン・ポランスキーとは前年1968年に結婚したばかりで、妊娠8ヶ月の妊婦でした。

シャロンはお腹の子供だけでも助けてほしいと懇願しましたが、実行犯スーザン・アトキンスによって16ヶ所も刺され殺害されました。

自分の留守中に愛する妻とお腹の子供を殺害されたロマン・ポランスキーは、この世に誕生することなく命を奪われた子供をポール・リチャードと名付け、妻と一緒に埋葬しました。「ローズマリーの赤ちゃん」というヒット作を手がけた有名映画監督の妻が惨殺されたこの事件は、世の中に衝撃を与えました。

殺害後天井から吊るす

Room Old Empty - Free photo on Pixabay (644162)

シャロン・テートの自宅に遊びに来ていた人気ヘアスタイリストのジェイ・セブリング、有名コーヒーメーカー令嬢のアビゲイル・フォルジャー、フォルジャーの恋人で遊び人のヴォイテク・フリコウスキーは皆殺害され、全員合わせて100回以上刺され、撃たれていましいた。

翌早朝に発見されたシャロン・テートの家はまさに地獄絵図となっており、シャロンはリビングの梁にロープで結ばれ吊るされていました。

娘を惨殺されたシャロンの母親は事件に激しく憤り、逮捕された実行犯に仮釈放の可能性が生じた時には強く抗議し、結果実行犯の仮釈放申請は全て却下されています。

体はズタズタに切り裂かれていた

Knife Kitchen Sharp - Free vector graphic on Pixabay (644164)

1969年8月9日のシャロン・テート邸での惨殺事件、翌日の地元スーパー経営者ラビアンカ夫妻の惨殺事件、この2つの事件による全被害者7人の刺し傷は合計169か所にも及び、銃槍もありました。

当初これらの事件は金持ちを狙った麻薬絡みの犯罪と噂され、恐怖に怯えた近隣住民は自己防衛のために銃を買い求め、あるピストル屋では200丁の銃が2日で売れたという逸話もあります。また、所持している麻薬を下水に流す人が続出し、下水道が詰まったとも言われています。

玄関やドアに血でPigと書く

Sword Blood Background - Free image on Pixabay (644167)

チャールズ・マンソンは「豚を殺せ」と主張をしましたが、その意味不明な主張に従うように実行犯であるスーザン・アトキンスたちはシャロン・テート邸の正面玄関に「Pig」という文字を、残しています。その文字はシャロン本人の血で書かれていました。

これら「Pig」という言葉がキーワードとなり展開されたチャールズ・マンソンの主張は、ビートルズのジョージ・ハリスンが書いた曲「ピッギーズ」からインスピレーションを受けていることは前述しましたが、彼の音楽の独自の解釈によって殺人にまで発展したことに対しジョン・レノンは「マンソンは完全にネジが外れている」と語っています。

壁や冷蔵庫にDeath to pigs

Bricks Wall Stones - Free photo on Pixabay (644169)

1969年8月10日、シャロン・テート邸襲撃の翌日未明、地元スーパーの経営者レノ・ラビアンカとその妻ローズマリー・ラビアンカもマンソン・ファミリーによって惨殺されました。

殺害現場となったラビアンカ夫妻邸にはシャロン・テート邸と同様、「Death to pig」「Rise」「Healter Skelter(ヘルタースケルターの綴り間違い)」という言葉が壁と冷蔵庫に血で書かれており、この2夜に渡る無差別殺人事件はテート=ラビアンカ事件として知れ渡りました。

また当初の黒人と白人の対立を煽るという目的を達成するべく、マンソン・ファミリーは殺害現場に黒人ギャング集団「ブラックパンサー」のシンボルも残しました。

チャールズ・マンソンの晩年

Paper Old Texture - Free photo on Pixabay (644171)

主張する思想は意味不明な過激なものだったにも関わらず、多くの若者に狂信的に支持されたチャールズ・マンソンは1969年12月に逮捕されました。

逮捕から2017年に死亡するまで一度も仮釈放が認められなかったチャールズ・マンソンの晩年について紹介します。

1964年11月に26歳の女性と婚約

Ring Wedding Rings - Free photo on Pixabay (644172)

1969年の逮捕以前に2回の結婚を経験したチャールズ・マンソンでしたが、彼は2014年に終身刑の身でありながら26歳の女性と婚約しました。

相手の女性、アフトン・エレイン・バートンは10代の頃からチャールズ・マンソンに傾倒し、16歳から獄中のマンソンに手紙を書くなどして10年に及びチャールズ・マンソンと交流を続けていた人物でした。

彼の為にミズーリ州からカリフォルニア州に転居したアフトンは足繁く刑務所に通い、当時80代のチャールズ・マンソンと婚約しましたが、のちに婚約は解消されています。

1971年死刑判決を受けるも終身刑に減刑

Prison Cell Jail - Free photo on Pixabay (644174)

1969年、信者に殺人を教唆した共謀罪で逮捕されたチャールズ・マンソンでしたが、実際に手を下していないことと殺害現場にいなかったことから、彼を有罪にするのは困難かと思われました。

しかし洗脳が解けた信者の証言により事態は一変し、マンソン含む実行犯5人は1972年に有罪判決となり、死刑が宣告されました。ところが1972年2月、カリフォルニア州の死刑制度が一時的に廃止された為、チャールズ・マンソンの刑も自動的に終身刑へと減刑されました。

その後カリフォルニア州の死刑制度は復活しましたが、チャールズ・マンソンのいるコーコラン刑務所への影響はありませんでした。

12回の保釈申請を行うも全て却下される

Hammer Books Law - Free photo on Pixabay (644175)

チャールズ・マンソンは2007年の仮釈放に向けて11回仮釈放申請をしましたが、すべて却下されています。その理由は、「依然として他者に理不尽な影響を及ぼしている。接触する人間に危害を加える恐れがある」というものでした。

実際、1969年の逮捕後に彼の信者の数は増大しました。逮捕後も悪の権化としてある種カリスマ的な存在になっているチャールズ・マンソンが、仮釈放によって世の中に出ることは危険だと仮釈放委員会は判断したのです。

チャールズ・マンソンは2012年にも通算12回仮釈放申請をしていますが、すべて却下されています。

2017年11月病院で死亡

Hospital Bed Doctor - Free photo on Pixabay (644177)

5 / 8

関連する記事 こんな記事も人気です♪