2019年9月25日 更新

チャールズ・マンソンとは?彼の生い立ちや息子についても

自分の信者達を利用して7人の命を奪ったチャールズ・マンソン。彼はその残虐性とある種のカリスマ性から映画の題材になるなど、2017年に死しても尚、人々の関心を得続けています。今回はそんなチャールズ・マンソンの犯した罪、結婚から息子のことまで丸ごと紹介します!

目次

そんなチャールズ・マンソンは2017年1月1日に胃腸出血したことからカリフォルニア州、ベーカーズフィールドのマーシー病院に入院します。その後1月6日に刑務所に戻りましたが、体調は芳しくありませんでした。

そして2017年11月19日、1969年12月の逮捕から一度も仮釈放されることなく、チャールズ・マンソンはマーシー病院で息を引き取ります。享年83歳でした。死因は結腸癌が全身に転移した為と言われています。

チャールズ・マンソンの大きな影響

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狂った思想と、犯した罪、そして独特な悪のイメージを持つチャールズ・マンソンは、若者に、そしてアメリカのポップカルチャーに大きな影響を与えました。

チャールズ・マンソンが与えたとされる影響をいくつか紹介します。

婚約者はマンソンの遺体を利用して商売することが目的

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2014年にチャールズ・マンソンと婚約した女性アフトン・エレイン・バートンでしたが、彼女には思惑がありました。アフトンはチャールズ・マンソンが死亡した際、遺体をガラス張りのショーケースに入れて展示することで金儲けをしようと友人数名と計画していたのです。

婚約者の企みを知ったチャールズ・マンソンは激怒し婚約は解消されましたが、このことは事件から40年以上経過した近年でも、チャールズ・マンソンが金銭に繋がるほどに大きな影響力を持つことの証明となりました。

Cease to exitという曲

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アメリカの有名バンドBeach Boysのドラマー、デニス・ウィルソンは一時期マンソン・ファミリーを自宅の豪邸の一部に住まわせ金銭的にも援助しており、その額は約1000万円と推定されています。

そんな彼はチャールズ・マンソンが製作した「Cease to exit」という曲を「Never learn not to Love」と改名し、デニス・ウィルソン名義で1968年にリリースしています。その対価としてチャールズ・マンソンは金銭とBSAのモーターサイクルをってに入れています。

当時すでに売れっ子だったBeach Boysのミュージシャンに、音楽の面でも影響を与えたチャールズ・マンソンは裁判中の1970年6月に「The Love and Terror Cult」という自身のアルバムをリリースしています。

マリリン・マンソン

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アメリカの人気ロックミュージックバンド「マリリン・マンソン」のヴォーカリストであるブライアン・ヒュー・ワーナーも、チャールズ・マンソンの影響を大きく受けているアーティストの1人です。

マリリンは、マリリン・モンローから、マンソンはチャールズ・マンソンから名付けたというブライアン・ヒュー・ワーナーは、自身が特殊な親族や人間に囲まれて育ったというバックグラウンドを持っていて、チャールズ・マンソンのことを「悪の象徴」と認識しています。

映画作品が数多く作られる

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世界に大きな衝撃と恐怖を与えたチャールズ・マンソンを題材とした映画は数多く製作されました。中でもチャールズ・マンソンの裁判の担当検事で後に作家となったヴィンセント・バグリオーシが書いたチャールズ・マンソンに関する著書「ヘルタースケルター」は1976年に映画化されました。

近年でも、2019年にクエンティン・タランティーノが監督を務め、レオナルド・ディカプリオ、ブラッド・ピットという豪華キャストが出演する、テート=ラビアンカ夫妻殺害をメインに描いた映画「ワンズ・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」が上映され、人気を博しました。

作成した監督が次々に死亡し「悪魔マンソンの呪い」と言われている

Film Camera Stripes - Free image on Pixabay (644190)

チャールズ・マンソン及びマンソン・ファミリーを題材にした映画は多数ありますが、映画を製作した監督が立て続けに死亡したことから「悪魔マンソンの呪い」と囁かれました。

死亡した監督は2人でした。1人目は1972年「マンソン/悪魔の家族」を製作・監督したローレンス・メリックで、彼は刺殺され、犯人は捕まりませんでした。2人目は、1976年「ヘルタースケルター」を監督したトム・グリースで、彼は映画を監督した翌1977年に心臓発作で死亡しました。

死亡後遺体の引き取りに5人が名乗り上げ、さらに増えると予想

Urban People Crowd - Free photo on Pixabay (644192)

26歳の婚約者が本当はチャールズ・マンソンの獄中死を望み、遺体を元に大儲けしようとしていたことからも分かるように、チャールズ・マンソンは近年でも特定の人々、とりわけ悪に憧れる人、自尊心の強い人にとってはカリスマで、非常に価値のある人間なのです。

そのため2017年11月に死亡した際、多くの人が遺体を引き取りたがりました。結局遺体引き取り人を決定するのに4ヶ月もの時間を要し、その間遺体の腐敗を遅らせるよう氷の上に保管するといった対策が取られました。

死後4ヶ月後の葬儀の時は、濃い死化粧をすることで腐敗を隠すなどの対策が取られ、これらのエピソードは改めてチャールズ・マンソンのイメージを不気味なものにしました。

チャールズ・マンソンは殺人を命令していなかった?

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信者に殺人を犯させたとされるチャールズ・マンソンですが、殺人を命令していなかったという本人の証言があるのです。マンソン・ファミリーの教祖、チャールズ・マンソンは殺害を命令したのか、していなかったのか、本当はどちらだったのでしょうか?

「豚」を殺せは冗談であった

Glass Ball Dogwood Wrong - Free photo on Pixabay (644202)

人の歓心を得る能力に長けた狂信的なカルト指導者が、自分の信者を洗脳し殺人を犯させたというのが世間の持つチャールズ・マンソンの一般的なイメージですが、長年にわたる刑務所生活で刑務所内のギャングを支配していたジョージ・ハープの著書「刑務所の王」の中に登場するチャールズ・マンソンは、こんなことを語っていました。

「くそ!こんなはずではなかった!(LSDでハイになっていた時に言ったことを)あの女たち(殺人の実行犯の信者たち)が俺の冗談を真に受けてしまったんだ。豚を殺せなんて冗談だった。だけど後から冗談なんて言えないだろ?」

テロ・メルチャーのみ殺害したかった

Spider Araneus Insect - Free photo on Pixabay (647589)

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