2019年7月23日 更新

オウムの村井の生い立ち!刺殺事件の真相や犯人のその後は?

無差別テロと呼ばれる地下鉄サリン事件の後、オウム真理教のNo.2であった村井秀夫刺殺事件が起きました。当時から現在まで、村井は口封じされたのではないか?という疑惑が多く語られています。今回は、村井秀夫刺殺事件の真相や、犯人の正体とその後を紹介します。

目次

オウム真理教の冗談を周囲に漏らす

Drinks Alcohol Cocktails - Free photo on Pixabay (501068)

逮捕後に初めて徐裕行が供述していたのは、「幹部であれば誰でも良かった、義憤にかられたから殺した」という動機を話していました。しかし、周辺の証言によれば、徐は普段オウム真理教についての話題も出さず、興味もほとんど無さげであったと言うのです。

触れたとすれば、地下鉄サリン事件後に知人に無事を確認する電話で、「あいつら頭おかしいよなぁ」という程度の言葉で、あくまでも他人事な様子だったこと。また、地下鉄サリン事件から10日後の3月30日(木)、オウムが犯人ではないか?と疑われていた警視庁長官が狙撃された事件が起きた時、ニュースを観ながら「すごいな」と言っていた程度だったのです。

しかし、その後オウムについての冗談を、スナックのママや、ホステス達などに漏らすようになりました。「俺も第20サティアンにいた」「俺もオウムに入信するから忙しくなるんだよねぇ」など、ある日突然言い出すようになったのです。もし、徐がオウムに怒りを感じていたのであれば、普段から話題にしていても不思議ではありません。このことからも、徐は村井秀夫殺害を単独で起こしたとは考えづらいでしょう。

4月21日家族と焼肉へ

Barbecue Grill Cooking Meat - Free photo on Pixabay (502262)

徐は事件の3日前、1995年(平成7年)4月20日(木)の午前中、幼馴染の高英雄に若頭に電話をするように促された徐は、上峯と連絡を取り午後に羽根組の若頭、上峯憲司と落ち合ってオウム幹部の殺人を持ちかけられたと言います。

翌日の4月21日(金)の午前中、徐は髪を切ったり昼食を食べたりした後、夕方実家に顔を出しました。家族で焼肉に行ったという話と、父親と2人だったという話がありますが、徐はその後、銭湯に行ってから夜の9時半頃に1度、若頭に「今日実行してもいいか?」と電話をしていました。

しかし何故か上峯は、「この日はまずい」と実行を止め、翌日の夕方にもう1度連絡しろという指令をしています。当初、上峯は、「上祐、青山、村井の誰か一人を殺せ」と言っていたのですが、この日は上祐だけが総本部にいました。この日ではダメとは、上祐も村井刺殺に何か関係があったのでしょうか?何故、上祐ではダメだったのかは不明ですが、上峯は「ある人が期待している」と、殺害について指示する人物を匂わせていたと言われています。

4月22日牛刀を購入し羽根若頭と合流

Knife Sharp Blade - Free photo on Pixabay (502380)

徐は、4月20日(木)に上峯に殺害依頼をされてから、わりとすぐに行動しようとしていました。翌日の21日(金)は、髪を切り、家族と会い、銭湯に行ってという流れからも、シャバとの別れを覚悟しての行動だったのでしょう。

しかし若頭に止められてしまった為、その夜も実家にて泊まることになりました。そして、22日(土)は昼近くにアタッシュケースを持って実家を跡にしたのです。上峯とは夕方連絡する予定だったので、徐はまず金物屋で5000円の牛刀を購入。アタッシュケースに牛刀を入れ、1度オウムの総本部へ下見に行きました。

その後、喫茶店やパチンコで時間を潰し、午後8時頃になってようやく渋谷のハチ公前で上峯と合流しました。一緒に食事をしながら、指示を受けていたようです。上峯と別れた後、夜はラブホテルで女と会っていました。最後の逢瀬や、性欲解消の為と思われていましたが、実はこの女性は徐に、100万円のお金をこの時渡しにきていたと言われています。当然、殺人の報酬なのでしょうが、この女性がどのような人物だったのかは不明なのです。

4月23日村井秀夫刺殺事件を起こす

Cigarette Marlboro Tobacco - Free photo on Pixabay (502476)

何度か触れていますが、村井が刺された日も、東京南青山にあるオウムの総本部前には、多くのマスコミが集まっていました。その為、当日の徐の姿は到着後すぐから、村井を刺している様子、逮捕されるまで多くの写真や映像が残されています。

事件当日午前11時頃には、すでに総本部前に到着していた徐裕行。ヒョウ柄のようなトレーナーに、ジーンズを履いた姿の徐は、人混みに紛れタバコを吸っている姿があります。その時間帯は小雨が降っていましたが、傘をさすでもなく、ぼんやり佇んでいる派手なトレーナーの男に、何となくマスコミは不審さを感じて、隠し撮りをしていたと言われています。

その後、すぐに上祐が本部前に到着するも、徐は目で追うだけでした。更に、オウムの幹部兼、弁護士の青山吉伸が現れても無視していた様子など、全てが写真に残されていました。徐は夕方一度、スタミナラーメンを食べに行ってから再び現場に戻り、午後8時35分頃ようやく現れた村井を発見すると、狙いを定めたかのように近づき事件を起こしたのです。

犯人・徐裕行のその後

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事件現場には、警備の為に警察官も待機してたので、徐は村井を刺した後その場で逮捕されました。村井を刺した後、血の付いた牛刀を目の前に投げ捨て、自ら犯行を認めています。

ヤクザの鉄砲玉らしく、カメラに撮られていたことも気づきながら、堂々と犯行を犯した徐は、やはり何かしらの見返りと引き換えに、村井を殺したのでしょう。

本人の自白もありますが、逮捕された後の徐裕行の行動を見れば、見返りがあったと考えるのが自然です。ここでは、徐裕行のその後を紹介していきます。

供述内容

Jail Prisoner Captive - Free photo on Pixabay (502549)

逮捕された徐は、いつものように田中裕行という通名ではなく、徐裕行と本名を名乗りました。事件の2日後、赤坂署に移送された徐は、そこで取り調べを受けることになりますが、公安も立ち会っています。

徐は最初、「一人でやった」「テレビで観てオウムは悪い奴らだと思った」「幹部なら誰でも良かった」とあくまでも単独犯で、自分の怒りからの犯行だと供述していました。更に、上峯に言われた通り、「神州士衛館」という右翼団体の構成員だとも話していたのです。

しかし、5月に入って上峯が逮捕されたことや、その後羽根組が解散したという情報を警察に知らされた徐は、あっさりと上峯に指示されたことや、羽根組の準構成員だったことを自供しました。

徐裕行に下された判決

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オウム真理教の幹部が多くの人の目の前で刺されたこの事件は、何度も放送され、世間にショックと衝撃を与えました。その為、徐裕行の裁判も多くの傍聴希望者が集まり、1995年(平成7年)7月25日(火)の初公判の日は、平日にも係わらず早朝から並び始める人もいたのです。

傍聴席は18席しかありませんでしたが、679人もの人が徐裕行の供述を聴こうと東京地裁に集まる程、注目された事件でした。

裁判では、最終的に上峯の指示があったかどうか、単独犯ではないという部分が争点となりましたが、1995年(平成7年)10月24日(火)の最終判決で、上峯はなんと無罪に、そして徐裕行は懲役12年の判決が下されたのです。

2007年1月に出所

Freedom Sky Hands - Free photo on Pixabay (502584)

懲役12年の判決を下された徐裕行は、1996年(平成8年)3月5日(火)、東京拘置所から北海道の旭川刑務所へと移送されました。

刑務所時代、徐は金属加工などの労役をしていました。しかし途中で問題を起こし、独居房に入れられていたと言われていますが、どんな問題行動を起こしたかは不明です。

2007年(平成19年)1月、徐は12年の刑期を終えて出所しました。出所してからも更に12年が過ぎているので、30歳で逮捕された徐も、2019年(令和元年)の時点で54歳となっています。

社会復帰後フィリピン人女性と結婚

Wedding Ring Marriage - Free image on Pixabay (502605)

出所後、何のあてもなかったのか、それとも何かしらの目的があったのか、同胞の主体思想研究会(チェチェ主義)のメンバーを訪ねています。主体思想とは、北朝鮮の朝鮮労働党の政治思想のことですが、そこの人物が厳しかった為、そこを離れたと言われています。

その後、弘道会や一水会、連合赤軍などの危険人物達と親睦を深めたり、トレーラーでの運送業などをしていたようです。そして、2010年(平成22年)に、徐はフィリピン人女性と結婚しました。詳細は不明ですが、2人の間には子供もいるようで、現在の国籍が気になるところです。

2013年5月に上祐史浩と対談

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出所後の徐は、2011年(平成23年)からブログを始めてみたり、2012年(平成24年)8月には、ヨットを買ったりと急に表舞台に登場し、更に羽振りが良くなります。家も一軒家で、車も持っているのですが、とても会社倒産の借金を抱えたままの生活ではありません。

更に何を思ったのか、2013年(平成25年)5月には、元オウム真理教の幹部、上祐史浩と対談をしたものをまとめた「終わらないオウム」という本が出版されました。

この対談には、元一水会の右翼団体構成員で、北朝鮮との繋がりも深い、鈴木邦男も参加しています。実はこの鈴木は、事件前から徐の支援をしていた人物で、この対談後、上祐も村井が殺されたのは単独犯だと言い始めたところに、この事件の闇の深さを感じられるでしょう。

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