2019年7月23日 更新

オウムの村井の生い立ち!刺殺事件の真相や犯人のその後は?

無差別テロと呼ばれる地下鉄サリン事件の後、オウム真理教のNo.2であった村井秀夫刺殺事件が起きました。当時から現在まで、村井は口封じされたのではないか?という疑惑が多く語られています。今回は、村井秀夫刺殺事件の真相や、犯人の正体とその後を紹介します。

目次

大学卒業後は、神戸製鋼に入社。村井が担当したのは研究職で、「超塑性鍛造(ちょうそせいたんぞう)」という、熱によって長く伸ばすことのできる鉄について研究していたようです。

仕事覚えも早く、人柄も評判のいい男でした。大学院時代から、ヨガや精神世界などにも興味を持ち始め、「自分の能力の限界に挑戦するのが好き」と話していたと言われているので、研究にも没頭したでしょう。

しかし、仕事漬けの日々という訳でもなく、村井はこの後好きな女性が出来ます。

1985年森脇佳子と職場結婚

Mountain Himalaya Nepal - Free photo on Pixabay (493452)

村井が恋した相手は、6歳年下で神戸製鋼に入社してきた新入社員の森脇佳子でした。彼女も理系女子で、宇宙物理学の勉強を大学でしたかったのですが、経済的事情で進学を諦めて、神戸製鋼に入社してきたのです。

彼女は更に、カメラや動物、星や宇宙などが好きで、その上大人しい性格の女性という、村井と趣味や性格がとても似ている人だったと言われています。

村井は佳子と交際を始め、「君のウンチでも食べる」というとんでもない愛情表現の末、プロポーズをしました。結婚式は「ヒマラヤが見たい」という佳子の希望で、ネパールで挙げたのです。現地式に、足にキスをして愛を誓うという儀式までしたことから、村井は佳子のことをとても愛していたと言えるでしょう。

1987年会社に辞表を提出しオウム神仙の会に入信

Meditation Reflection Woman - Free photo on Pixabay (493464)

「君のウンチまで食べる」と言うほど、愛した妻が出来て幸せな家庭を築いていくはずの村井は、ネパールに行ったことをきっかけに、益々ヨガや神秘的な世界にハマっていきました。

最初は本を読んだり、妻と朝にヨガや気功などをしていたのですが、元々好奇心旺盛だった村井は、どんどんのめり込んでいき、ついにある日、麻原彰晃の本に出合ってしまうのです。

大阪支部で開かれていた、オウム真理教の前進であるオウム神仙の会のセミナーに参加した翌日、1987年(昭和62年)5月、村井は29歳で会社に辞表を出し入信してしまいました。

1987年夫婦で出家する

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妻を置いて突如オウムに入信してしまった村井でしたが、その頃はまだ在家で道場に通っていたのでしょう。入信して1ヶ月後の1987年(昭和62年)6月、村井は佳子と共に出家することを決めました。

出家とは、俗世との関係を断つということですから、それを理由にオウムでは出家する際、全財産や資産を提供する義務があります。村井は、会社の退職金や貯金などもオウムに寄付して出家しようとしていましたが、当然両親が猛反対したのです。

しかし村井は、その反対を押し切り、「自分が出家したい理由はこの本に書いてある」と、母親に「カモメのジョナサン」という本を渡して、夫婦で出家をしてしまいました。ちなみに、「カモメのジョナサン」は、自由自在な飛び方を得る為に、危険な修行を続け、群れから追放されても自分らしさを追及するという話です。

オウムの科学者の代表格として活動

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出家したからの村井は、占星術のプログラミングを担当したり、教団の資料作成や、様々な機械などの研究を担当していました。

そのうち、麻原の片腕のように地位を伸ばしていき、医者でもないのに村井は麻原の主治医まで勤めていたとも言われています。麻原が海外へ向かう時も、必ず同行する存在で、いつしかNo.2と呼ばれる幹部になっていくのです。

一緒に出家した妻の佳子とは、格(ステージ)が違うという理由で、離婚させられてしまいました。

1989年2月男性信者殺害事件に関与

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始まりはヨガや精神世界についての知的好奇心を満たす為、次は好きな研究に没頭出来るという環境、そしてステージが上がるに連れて満たされる自尊心、更に麻原の側にいることでの得られる特別感などで、どんどんオウムにのめり込んでいった村井秀夫。

動物が好きで、虫も殺せないほどの優しい性格を持ち、学生時代には「お釈迦さん」と呼ばれていた村井が、狂信者となっていく最初のきっかけは、1988年(昭和63年)9月22日(木)に起きた、信者過失致死事件です。修行中の信者が突然気が触れ暴れ出したことで、村井を始めとする4人の幹部が麻原の命令によって、その信者を風呂の水に浸けていたところ死んでしまったという事件です。

そこから麻原のタガが外れていき、村井達幹部も従うようになっていきます。1989年(平成元年)2月の深夜、教団のやり方に不満と、脱退を訴えた信者の男性を監禁し、最後は殺して遺体は焼却、骨も粉々にして棄てたのです。こうして、村井達幹部は悪事に手を染めていきました。

1989年11月坂本堤弁護士一家殺害事件に関与

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オウム真理教は、若い信者を取り込んで行く一方で、子供や家族を返して貰えない人達が、被害を訴え始めていました。その被害者家族の相談を受けたことから、坂本弁護士は被害者の会を設立し、オウム批判や追及を始めていたのです。

麻原は衆議院議員選挙に出馬予定だったことや、信者の殺人や死体遺棄がバレることなどを恐れ、坂本弁護士を殺害することを村井を始めとする幹部に命令しました。麻原はこの頃にはすでに、教団の邪魔をする者を殺す事を正当化しており、殺すことを「ポアする」という言い方にしています。

1989年(平成元年)11月4日(土)の午前3時頃、寝静まっていた坂本堤弁護士の自宅に乗り込み、坂本弁護士と妻、そして当時まだ1歳だった龍彦ちゃんを殺害して、新潟、富山、長野の山中に、家族をバラバラにして埋めました。

1990年東京8区から総選挙に出馬

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坂本堤弁護士一家を殺害した翌年の、1990年(平成2年)第39回衆議院議員総選挙へ、麻原と信者合わせて25名が真理党として東京8区から出馬しました。

麻原のお面を被った信者が踊り、「ショーコーショコー」と麻原も歌う選挙運動は、異彩を放っており、テレビでも取り上げられています。

しかし、結果は惨敗。真理党25名の候補者は麻原も含め、全員が落選したのです。このことで、麻原の自尊心が破壊されたせいか、社会敵視傾向が強まっていったと言われています。

1995年山口組系羽根組の構成員の徐裕行に刺され死亡

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総選挙落選後、その怒りを解消するべく、麻原は世界中の人々を滅ぼそうと計画します。理由としては、魂を浄化する為の「ポア」だと麻原は幹部達に伝えたのです。

ボツリヌス菌や、炭疽菌、サリンなどの研究や作成、武器や爆弾など世界中でテロを起こせるように、オウムは先鋭化していき、様々な事件を起こしていましたが、ついに1995年(平成7年)3月20日(月)地下鉄サリン事件を起こします。

22日(水)、オウム真理教は一斉家宅捜査を受け、逮捕者も出始めていました。村井はマスコミ対応などに当たっていたようですが、4月23日(日)東京総本部前にて多くの報道陣が見守る中、突如現れた徐裕行(ソ・ユヘン)に刺されてその場で倒れたのです。すぐに病院へ運ばれましたが、翌日24日(月)に村井は死亡が確認されました。

村井秀夫刺殺事件の概要

Crime Scene Border - Free vector graphic on Pixabay (495057)

オウム真理教がテロ組織化していった影には、麻原の常軌を逸した思想という単純なものだけではなく、実は様々な闇が隠れています。

突如刺殺されてしまった村井秀夫は、口封じの為に消されたと今も言われています。麻原の命令か、それとも背後の何者かは未だハッキリしてはいませんが、本来であれば村井も逮捕され、その後死刑宣告を受けていたかもしれません。

村井が生きていたとして、何処まで本当のことを話したかは今となっては分かりませんが、テレビに登場した時などもわりと質問にはしっかり答えるタイプであったので、誰かに警戒されていたとも言えるでしょう。ここでは、村井秀夫刺殺事件の概要を紹介していきます。

1995年4月23日に事件発生

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