2019年7月23日 更新

オウムの村井の生い立ち!刺殺事件の真相や犯人のその後は?

無差別テロと呼ばれる地下鉄サリン事件の後、オウム真理教のNo.2であった村井秀夫刺殺事件が起きました。当時から現在まで、村井は口封じされたのではないか?という疑惑が多く語られています。今回は、村井秀夫刺殺事件の真相や、犯人の正体とその後を紹介します。

目次

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総選挙後から、麻原や幹部の村井秀夫、上祐史浩はバラエティー番組などにも出演し、オウム真理教の名は一気に広まっていきました。

そのオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こしたという一報や、一斉家宅捜査などで更に注目を集める中、村井は幹部として信者達への指示や、警察、マスコミに対する対応などを担当していたのです。

1995年(平成7年)4月23日(日)午後8時35分頃、山梨県にある上九一色村の教団施設(サティアン)から戻ってきた村井は、本来入るべき裏口に鍵が掛かっていた為に、正面玄関に回って来たところを徐裕行に包丁で刺されました。

多くのマスコミが溢れている中での犯行

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当時注目されていたオウム真理教は、マスコミがあちこちで張り込みをしており、幹部が出入りする東京青山にあった総本部前は、常に多くのマスコミが毎日終結していました。

村井が刺された日も、200人程のマスコミ関係者が集まっていたのです。その為、多くの人達が徐裕行のおかしな動きや、村井が刺殺される直前に信者が抑えていたなど、様々な目撃情報や、映像などが残されています。

のちにオウムに利用されたと語る、ジャーナリストの山路徹は、当日オウムの取材要請を受け、村井が入れなかった裏口に当たる地下室に1時間程待機させられており、誰か(村井)がドアを開けようとしていたと証言しています。

村井は「ユダにやられた」と発言

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オウム真理教の幹部でもあり、広報担当で当時スポークスマンと言われていた上祐史浩は、村井が死ぬ前に「ユダにやられた」と発言していたと証言しました。上祐は同時に、村井が事件前から「ユダヤの陰謀論」にハマっており、本を集めたりしていたとも話しています。

ユダヤの陰謀は、ネットややりすぎ都市伝説などでも知名度が上がり、今ではフリーメイソンやイルミナティという組織を知っているという人も多いでしょう。しかし、当時はほとんど知られていませんでした。

その為ユダとは、キリストを裏切った「ユダ」を指し、村井は信者に裏切られたと話していたのではないか?とも言われていたのです。

多くのメディアで放映された

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200人もの報道陣が集まっている中で起きた、村井秀夫刺殺事件。張り込みをしているのですから、当然その日も総本部前に戻って来た幹部の村井に皆がカメラを向けていました。

人混みの中で建物内に入ろうとしていた村井に、派手なセーターを着た徐裕行が近付き、村井を包丁で刺した後、血の付いた包丁をその場でポーンと投げ出した映像は、現場から生中継になった他、その後のニュースやワイドショーで、たくさん放送されたのです。

あまりにショッキングな映像が繰り返し放送された為、世間で批判やクレームが起き、しばらくしてこの映像は使用されなくなりましたが、今もYOU TUBEでその時の映像は観ることが出来ます。

教団の広報・上祐史浩が会見を行う

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オウム真理教広報担当の上祐史浩は、当時詭弁を振るい相手の質問を煙に巻くことが得意で、「ああ言えば上祐」というあだ名を付けられる程、口の達者な男でした。

村井が病院に運ばれ死亡が確認された後、上祐はすぐに記者会見を開き、事件について報告します。いつもよく喋る上祐は、この日あまり饒舌ではなかったようです。

この日上祐が語ったことは、村井の死、犯人に対して憎しみは無いということ、麻原は弔いの瞑想をしているという報告と、「個人的には誰かに指示されたのではないか?」と、徐裕行の背後に何かいるかもしれないということを匂わせて、会見を終了しました。

4月24日死亡が確認される

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村井は刺された後、何事もなかったかのように袖の乱れを直して本部に入ろうとしますが、突如その場に倒れてしまいます。誰が呼んだのかは不明ですが、救急車が到着し、村井はすぐに東京都立広尾病院へ搬送されました。

病院には上祐が付き添い、のちに救急車内で心臓マッサージなどをしていたと話しています。包丁で右腹部を深く差されていた村井は、運び込まれた時内臓もはみ出ていたと言われています。週刊誌フライデーが掲載した、村井の遺体と呼ばれる写真では、心臓の下と腹部に大きな縫い痕が残されていました。

治療の結果も虚しく、日付が変わった1995年(平成7年)4月24日(月)午前2時33分に、村井は出血性ショックに伴う急性循環不全となり死亡します。

逮捕されたのは山口組系羽根組の構成員の徐裕行

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村井を刺してその場で逮捕された徐裕行は、在日朝鮮人です。徐は逮捕された後、山口組系羽根組の構成員だと供述しています。

今でこそ、在日朝鮮人、在日韓国人だらけになってしまった暴力団(ヤクザ)の世界ですが、元々の山口組は、三代目組長に襲名された田岡一雄が登場した頃は、戦後の混乱期に日本人を襲撃し、各地で暗躍していた在日朝鮮人達を排除する自警団だったのです。

その後、山口組はどんどん分裂していき、構成員は在日に乗っ取られていくのですが、羽根組組長も在日朝鮮人です。徐は、事件の1年程前の1994年(平成6年)6月頃から在日仲間の伝手で、羽根組に近づいていきました。構成員とは言いますが、実際は雑用係程度の下っ端だったのです。

「若頭の指示で刺した」と供述

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逮捕された時、徐は始め暴力団員ではなく、右翼団体の神州士衛館の構成員であり、村井を殺害したのは自分1人の単独行動だと話していました。

それを受け、警察が神州士衛館を調べたところ、山口組系羽根組が作ったダミー団体だということが判明。その後、徐も「若頭の指示で刺した」と自供したのです。

若頭とは、当時羽根組の若頭であった、上峯憲司のことですが、彼は徐が逮捕された際、組にも右翼団体と名乗って口裏を合わせるようにと指示を出していたことが判明しています。のちに共犯の疑いで上峯も逮捕されますが、証拠不十分で無罪となってしまうのです。

教団の広報・上祐史浩の主張

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村井と同じくらい麻原の側に控え、ロシア支部にも派遣されて兵器開発にも係わっていながら、死刑にならなかった上祐史浩は、地下鉄サリン事件後、麻原に広報担当を任され日本に帰国しました。

上祐は教団への批判や疑問に対し、時に冷静に、又は怒りを露わにして激昂してみせるなどして、マスコミに対応していましたが、最終的には熊本県阿蘇にある土地取得を巡る、国土利用計画法違反事件で逮捕され、懲役3年の実刑判決を受けています。

出所してからも上祐は、オウム真理教の後継団体アーレフの代表を務めたり、麻原を見限ってからはひかりの輪という、仏教哲学サークルを設立し、マスメディアにも頻繁に登場していました。上祐は、オウム真理教や麻原、そして村井秀夫刺殺事件のことなど、何度も語っていますが、その度話が変わっています。ここでは、そんな上祐史浩の主張を紹介していきます。

事件当時の主張

Microphone Reporter Interview - Free photo on Pixabay (495809)

事件当時、村井が死んだ4月24日(月)記者会見の後も、深夜になって上祐は「ニュースステーション」や、「ニュース23」などのインタビューにも答えています。また、翌日の25日(火)にも記者会見を開くなど、精力的に広報活動をしていました。

その頃の上祐は、「村井を殺した徐は金を貰っていたという情報がある」「背後にある組織に狙われた計画的犯行ではないか?」と答えていました。その他に、麻原はこの事件を予言していたとも答えています。

2000年の主張

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