2019年7月23日 更新

オウムの村井の生い立ち!刺殺事件の真相や犯人のその後は?

無差別テロと呼ばれる地下鉄サリン事件の後、オウム真理教のNo.2であった村井秀夫刺殺事件が起きました。当時から現在まで、村井は口封じされたのではないか?という疑惑が多く語られています。今回は、村井秀夫刺殺事件の真相や、犯人の正体とその後を紹介します。

目次

オウム真理教の幹部が殺害された事件

Abstract Aggression Arm - Free image on Pixabay (490102)

2018年(平成30年)7月、2回に分けて計13人の死刑が執行されたことで、再び世間の注目を集めたオウム真理教。無差別テロであった、地下鉄サリン事件から約24年が経ち、事件やオウム真理教のことなどをよく知らないという世代も多いでしょう。

そんな地下鉄サリン事件から約1ヶ月後で、更に教祖、麻原彰晃こと松本智津夫が逮捕される約1か月前という絶妙なタイミングで、当時オウム真理教のNo.2と言われていた幹部の村井秀夫が刺殺される事件が起きました。多くの報道陣が見守る中、村井は在日韓国人によって刺殺されたのですが、これにより地下鉄サリン事件の詳しい経緯を知る者がこの世から消えてしまったのです。

彼が出演したテレビ番組での発言や、逮捕された犯人の目的なども怪しく、この事件の背後にある闇と疑惑は、今も多くの人が語り継いでいます。今回は、村井秀夫刺殺事件の概要と、犯人のその後などを含め、オウムの実態を紹介していきます。

村井秀夫の生い立ち

Clock Time Indicating - Free image on Pixabay (490254)

1991年(平成3年)頃、麻原彰晃はテレビなどのメディアに多く登場し、ビートたけしやとんねるずの番組などバラエティー番組にも出てきたことで、当時の子供達は「ショーコーショコー」と尊師マーチを歌い、オウム真理教をバカにしているような空気感がありました。

その一方で、家族を取られ被害を訴えていた人々もいたのですが、地下鉄サリン事件が起きるまで、世の中ではオウム真理教に対しての警戒心は少しも抱いていなかったのです。

傍目にはとても胡散臭い、麻原彰晃やオウム真理教でしたが、何故、村井秀夫を始め多くの若者達が取り込まれていったのでしょう。ここでは、のちにオウム真理教のNo.2となり刺殺された、村井秀夫の生い立ちを紹介します。

1958年12月5日大阪府吹田市に生まれる

Baby Birth Healthy - Free photo on Pixabay (490445)

どんな極悪人も、のちに過ちを起こしてしまう犯罪者も、生まれてきた時は皆ただの赤ん坊です。家庭環境で変化してしまうのか、それとも生まれつき何か悪の芽を持ってきてしまうのかは分かりません。

村井秀夫も当然、ごく普通の無垢な赤ん坊として、この世に誕生しています。村井がこの世に誕生したのは、1958年(昭和33)12月5日(金)です。調べてみると、何の因果かその日は仏滅でした。

彼の家族のことや、幼少期の話などはほとんど資料が見当たりませんが、両親と兄のいる村井家に産まれます。実家は、大阪吹田市の住宅街にある、5階建てのアパートだと言われていますが、生まれた時からその家だったのかは不明です。

内向的なSF少年だった

Tv Television Retro - Free photo on Pixabay (492976)

幼い頃の村井は、いつもニコニコしているような優しい子だったと言われています。運動は苦手で、プールでは震えるほど怖がっているような子だったそうです。

好きだったものは、テレビ映画の「スタートレック」で、中でも登場人物の1人である「ミスター・スポック」に夢中だったのです。星空を眺める事も好きだったことから、宇宙に興味があったのでしょう。

村井は、大人になってからもずっとSFが好きだったのは変わらず、大学時代は「火星年代記」という文庫を常にカバンに入れているほどのお気に入りだったと言われています。

城みちるに似ていた

Fantasy Man Dolphin - Free photo on Pixabay (493096)

城みちると言えば、「イルカに乗った少年」で一躍トップアイドルになった人です。彼は、1957年(昭和32年)生まれなので、村井秀夫と1つ違いなのです。

「イルカに乗った少年」でデビューしたのが、中学3年生15歳の時なので、同性代の村井は顔が似ていると言われ、当時のあだ名は「ジョー君」でした。

村井はアイドルのように派手な性格ではありませんし、イルカにも関係はありませんが、動物が大好きで、虫も殺せない程優しい性格だったのです。この頃将来の夢は、「動物の飼育員になる」と近所の人に話していたという証言もあります。

超能力に大きな興味を寄せていた

Teaspoon Coffee Spoon Metal - Free photo on Pixabay (493151)

村井秀夫は、超能力に興味を持つ少年時代を過ごしていますが、村井だけが特別だった訳ではありません。村井がジョー君と呼ばれていた頃の1973年(昭和48年)に、ノストラダムスの大予言がベストセラーになり、「あなたの知らない世界」が始まるなど、世間ではオカルトブームが到来していたのです。

ツチノコ、ネッシーなどのUMA系、ユリゲラーの超能力、口裂け女やコックリさんなどの怖い話など、テレビでは様々なオカルト番組を流していました。

村井が21歳になる1979年(昭和54年)には、オカルト雑誌「ムー」も登場し、70~80年代に子供時代を過ごしていた人達は、誰しもが不思議な話や怖い話に夢中になっていたのです。
Hands Trunk Creepy - Free photo on Pixabay (493219)

この国は、戦後GHQ(コミンテルン)が仕掛けた、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」という政策により、日本人の無力化や自虐史観植え付け、更に日本人をこの世から消す為の人口統制至るまで、マスコミ、教育、政治など様々なものを使い、日本人が二度と団結して、立ち上がらないように洗脳していきました。

戦後70年程経って、最近はネットの登場で、少しずつその事実に気が付いてきた人も増えましたが、効果は今になって表れています。戦後から長い時間を掛けて、少子化や、禁煙、男女などの二元論で国民を分断、不安を煽り続けるなど、マスコミが空気を作り出してきたのです。

その仕掛けの1つとしてのオカルトブームがありました。更に昔からある宗教や新興宗教なども、人々を恐怖で脅しながら管理し、支配する為のツールなのです。ちなみに、のちに村井が入信するオウム真理教には、村井以外にもムーの読者が相当多いという共通点がありました。

1972年友人兄が自殺する光景を目撃する

Truck Lorry Cargo - Free vector graphic on Pixabay (493336)

幼少期や子供時代、ある日突然「死」について考えたことがある人は多いでしょう。「人が死ぬとはどういうことか?」「死んだらどうなるのか?」など疑問が湧きあがり、怖くて眠れなくなったという経験をしたことは、誰しも1度はあるかもしれません。

特にオカルトブーム真っ最中に子供時代を過ごした人は、地獄や妖怪、お化けの存在を信じ、追い打ちを掛けるように、1999年(平成11年)世界は滅ぶというノストラダムスの予言があったのですから、死について考えた人は多いはずです。

村井は14歳になる1972年(昭和47年)に、トラックに飛び込んで自殺した、友人の兄の姿を目撃したというショッキングな経験をしています。思春期の多感な時期、顔見知りの若い人が自ら命を絶つ瞬間、村井は相当トラウマを残したのかもしれません。そしてやはり、その時から「死」について考えるようになったのではないでしょうか?

大阪大学理学部物理学科でX線天文学を専攻

Geometry Mathematics Volume - Free image on Pixabay (493375)

高校時代の同級生や先生の証言によれば、村井秀夫は、とても数学が得意な生徒だったようです。時に、教師が難問の回答に詰まった際、村井が教師に回答の仕方を教えたという逸話も残されています。

そんな村井は、大阪大学理科研究科に入学し、その後大学院では宇宙物理を専攻し、天体のX線放射線の研究をしていました。研究の際に使う機器や、ソフトウェア開発などが得意で、様々なことに興味を持って熱心に研究をする学生だったようです。

物理以外にも、動物園巡りや、シャボン玉が割れる瞬間の撮影と機械製作、当時健康ブームで流行した紅茶キノコ作りにも没頭していたと言われていることから、好奇心旺盛な性格だったのでしょう。

神戸製鋼に入社

Architecture Steel Mill Factory - Free photo on Pixabay (493439)

1 / 8

関連する記事 こんな記事も人気です♪