2019年10月23日 更新

永野 一男の最期とは?豊田商事事件の概要と殺害した犯人達のその後も

豊田商事による大規模な詐欺事件が起きたのは1980年代のことです。「金」を使ったペーパー商法で、高齢者を狙った詐欺でした。その豊田商事の会長である永野一男の死は非常に衝撃的で残酷なものでした。豊田商事の詐欺の内容、そして何故永野が死んだのかについて解説します。

目次

永野を殺しに来た2人のうちもう1人は、「矢野正計」と言います。当時30歳でした。建築現場作業員をしていて、飯田には恩があったのでこの事件に加担したという供述があったとわかっています。

この男は主犯でないということですが、この残虐な行為に加担したことには変わりありません。本当のところはどのような理由があって、永野の自宅に乗り込んだのか、そしてどうして殺害に至ったのかということについては、この矢野という男の方からも語られておりません。

幹部による口封じ説なども飛び交う

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永野を実際に殺した2人から、明確な動機の話が出てこなかったことなどから、この殺人は別の者の指示による口封じのための殺人ではないかという憶測も出ました。

というのも、豊田商事は違法に事業を行っていたにもかかわらずあまりにも規模が大きく、テレビCMを放送したり各所に支社を作ったりと派手な経済活動をしていました。それが当時32歳の永野ひとりの力で行われたとは考えにくく、裏につながりのある人物が多くいたのではないかと考えられたのです。

豊田商事の詐欺が表沙汰になり、これまで永野とつながっていた人たちにとっては不都合な事態となりました。そのため、誰かが指示して永野を殺させたのではないかといわれたのです。しかし、その証拠は一切出ておらず、法的にそれを証明することはできません。

飯田篤郎はマスコミを批判し自らの行動を弁明

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主犯格の飯田篤郎は、次のようにも語っています。「自分は殺すつもりはなかった。しかし永野の自宅前でマスコミと話していたときに煽られて、中に入って殺した。マスコミに煽られたから殺したのだ」と。

殺害したのが飯田と矢野であることは間違いないのですが、それをするように唆した者があのひあの場にいたマスコミの中にいたというのです。先述のとおり口封じ説もあり、その場合は2人は最初から殺すつもりで来たことになりますが、このようにマスコミが煽ったという噂もあるため、いまだに全ての真実は明らかになっていないのです。

懲役8~10年の実刑判決が下される

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裁判の結果、1986年の3月、主犯格の飯田篤郎には懲役10年、もう1人の矢野正計には懲役8年の実刑が言い渡されました。それぞれが控訴したため、実際に 刑が確定したのは飯田が1990年、矢野が1989年でした。

殺人事件の、それも十数カ所を刺しての殺人についての刑としては軽いのではないかと考えられます。温情判決と言っていいほどですが、これは殺害された永野一男が大規模な詐欺をおこなっており、多くの被害者を出していたためだと言われています。それほど、豊田商事が行っていた詐欺はひどく、被害者も被害金額も多大だったということです。

現在は2人とも刑期を終え出所している

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飯田と矢野はすでに、刑期を終えて出所しています。残虐な殺人犯ではありますが、きちんと罪を償った以上は、通常の民間人として生活をする権利があります。

ふたりは今どこで、どのように暮らしているのでしょうか。自分たちの罪について、そして豊田商事についてどのように考えているのでしょうか。多くの人にとって気になることですが、本人に接触したりインタビューができたという情報はありません。ただ、うっすらと現状について入っている情報もあるのです。

ここから先は、この2人の実行犯について少し来歴を解説します。

永野 一男を殺害した動機【飯田篤郎】

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永野一男を殺害した2人の男のうち、当時56歳だった年長の飯田篤郎の方が主犯格だと言われています。裁判の判決でも、懲役年数が長かったのは飯田の方ですから、裁判所もこちらが主犯だと認めていることになります。

飯田は、何故あの日永野のマンションに行き、永野を殺害したのでしょうか。その理由について、裁判等で本人が語った内容から紐解いていきます。

大阪豊中市で鉄工所を営んでいた

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飯田篤郎は、大阪府豊中市で鉄工所を経営していました。規模はそれほど大きいものではなく、しかし誠実に仕事を行っていたようです。

ちなみに、飯田の鉄工所があるのが豊中市、殺された永野一男の自宅は先述のとおり大阪市北区です。豊中市から大阪市までは直線距離で10キロほど離れています。車だと、少なくとも30分はかかる距離です。遠いとは言いにくいですが、決して近い距離ではありません。どのようにして飯田は永野の具体的な住所を知ったのかという疑問も出てきます。

高齢者や障害者を積極的に雇用

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飯田の工場では、高齢者や身体障害者などを積極的に採用していたと言われています。

先に、豊田商事の詐欺被害者の多くは高齢者であったとご説明しました。自分は高齢者を積極的に雇用し、仲間として一緒に働いていたのですから、高齢者をターゲットとした詐欺がおもしろくないのは理解ができます。ひとくくりに高齢者といっても、楽に生活できる豊かな高齢者もいれば、日々の暮らしもままならないほど貧しい人もいます。苦しい生活をする高齢者を助ける気持ちで、飯田は雇用していたのかもしれません。

多額の借金により倒産

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しかし、飯田の事業は1984年に倒産してしまいました。鉄工所は潰れてしまったのです。そのときに飯田が抱えた借金は5億もあったとも言われています。原因は下請けの会社に騙されたことなどがあるようで、飯田は経営者として非常に苦しんだことがうかがえます。

障害者や高齢者を積極的に雇用していたのですから、社会に対して貢献する気持ちや困った人を助けたい気持ちなどが飯田にはあったはずです。それなのに助けるはずだった人たちを再び路頭に迷わす結果になってしまったことについて、重い責任を感じていたのではないでしょうか。

豊田商事による直接的な被害はなかった

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先述のとおり、飯田の鉄工所が潰れた理由は下請けに裏切られたためだと言われています。つまり、飯田の事業について豊田商事からなにか被害を受けていたというわけではありません。飯田が5億もの借金を抱えることになったのも、無論豊田商事のせいではありません。

そして、多くの高齢者を雇っていた飯田ですが、その従業員の高齢者の中にも豊田商事の被害者がいたという話は出てきていません。つまり、飯田は豊田商事とは無関係の人物ということになります。

知人に頼まれた

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