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1988年から1989年にかけて東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件が起きました。4人の幼女を誘拐・殺害したとして宮崎勤は死刑判決を受け、死刑が執行されました。
しかし、連続幼女誘拐殺人事件には5人目の犠牲者が居たのではないかと言われているのです。その5件目の事件とはいったいどんなものなのでしょうか、そして本当に宮崎勤が起こした事件なのでしょうか。四人の犠牲者の事件は、宮崎勤事件の犯行として正式に起訴されたという事実がありますが、なぜ5件目の事件として立件されなかったのでしょうか。
しかし、連続幼女誘拐殺人事件には5人目の犠牲者が居たのではないかと言われているのです。その5件目の事件とはいったいどんなものなのでしょうか、そして本当に宮崎勤が起こした事件なのでしょうか。四人の犠牲者の事件は、宮崎勤事件の犯行として正式に起訴されたという事実がありますが、なぜ5件目の事件として立件されなかったのでしょうか。
1987年9月15日当時8歳の女児Eが行方不明
via pixabay.com
敬老の日だった1987年9月15日、午前11時ごろ、群馬県尾島町(現・太田市)亀岡に住む小学校2年生の女児E(当時8歳)は、子猫を抱いて自宅近くの尾島公園に出かけ、そのまま行方不明となりました。
女児Eは、遊び場にいった公園近くの道で、自転車を押した30歳くらいの男に従うようにして歩いていたらしく、同級生をはじめ何人かの小学生がその姿を目撃されています。しかしこの時点では、まだ事故で川に落ちた可能性なども考えて捜査が進められていました。
女児Eは、遊び場にいった公園近くの道で、自転車を押した30歳くらいの男に従うようにして歩いていたらしく、同級生をはじめ何人かの小学生がその姿を目撃されています。しかしこの時点では、まだ事故で川に落ちた可能性なども考えて捜査が進められていました。
11月27日遺体の一部が発見される
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翌年の11月27日、自宅から約2キロ離れた尾島町前小屋の利根川河川敷、左岸の葦原から女児Eの散乱した白骨が発見されました。死後1年以上経過しており、両腕の肘から先と両足の膝から先の骨は見つかっていないと言います。
行方不明になった朋子ちゃん事件の続報は「ない」に等しく、白骨死体が見つかったときも、三大新聞の記事は読売がちょっとだけ大きな見出しを使ったくらいで、事実関係を簡単に記しただけのほとんど目立たないものでした。
行方不明になった朋子ちゃん事件の続報は「ない」に等しく、白骨死体が見つかったときも、三大新聞の記事は読売がちょっとだけ大きな見出しを使ったくらいで、事実関係を簡単に記しただけのほとんど目立たないものでした。
告白文で女児Eの事件に触れている
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宮崎勤は、1989年2月、1人の被害者の遺族宅に骨片や歯の入った段ボール箱を送り、その後、新聞社に「告白文」を送りつけています。その手紙の内容は、自分が「子どもを亡くした母親」に成りすましたものでしたが、骨を送った理由として、女児Eの事件に触れている箇所がありました。
しかし宮崎勤が『5人目も「白状」』との記事を載せた女性誌もあるが、警察は宮崎と女児Eの事件との関連を認めておらず、立件もされませんでした。
しかし宮崎勤が『5人目も「白状」』との記事を載せた女性誌もあるが、警察は宮崎と女児Eの事件との関連を認めておらず、立件もされませんでした。
北関東連続幼女誘拐殺人事件の可能性もある
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1979年以降、4件の女児誘拐殺人事件と関連が疑われる1件の女児連れ去り事件(失踪事件)が栃木県と群馬県の県境、半径20キロ以内で発生していて、5事件まとめて「北関東連続幼女誘拐殺人事件」と見る報道が出てきています。その「北関東連続幼女誘拐殺人事件」の中に、女児Eの事件が含まれているのです。
もちろん連続幼女誘拐殺人事件だと断定はすることはできませんが、宮崎の前例から、連続事件の可能性は無視できないのではないでしょうか。女児Eを含めた5件の事件は全てが未解決事件となっており、犯人特定・逮捕には至ってません。
もちろん連続幼女誘拐殺人事件だと断定はすることはできませんが、宮崎の前例から、連続事件の可能性は無視できないのではないでしょうか。女児Eを含めた5件の事件は全てが未解決事件となっており、犯人特定・逮捕には至ってません。
宮崎勤の冤罪説を唱える人も多い
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この事件について冤罪説を唱える人も多く、「M君裁判を考える会」という市民団体を組織した人もいます。代表者の木下信男(応用数学者、明治大学名誉教授)は1994年、「明治大学教養論集」に「裁判と論理学─幼女連続誘拐殺人事件に見る冤罪の軌跡」という論文を載せており、冤罪論を説いているのです。
また、「M君裁判を考える会」会員である小笠原和彦は冤罪説の立場から「宮崎勤事件 夢の中:彼はどこへいくのか」(現代人文社、1997年)を執筆しています。
また、「M君裁判を考える会」会員である小笠原和彦は冤罪説の立場から「宮崎勤事件 夢の中:彼はどこへいくのか」(現代人文社、1997年)を執筆しています。
宮崎勤が繰り返した奇怪な発言
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宮崎勤は逮捕後、取り調べや精神鑑定、公判中に繰り返した奇怪な発言が多くありました。それは、精神的に問題があることを示して、責任能力がないように見せかけたかったのでしょうか。それとも拘置所に一人入れられ取り調べ等が行われる中で抗禁反応で言っていたことなのでしょうか。
精神鑑定は異例ともいえる3回も行われ、最終的には責任能力有として裁判が行われ、死刑判決がなされ死刑執行されています。それでもなお、今もあの事件は終わっていないのではないかと思う人がいるのです。
精神鑑定は異例ともいえる3回も行われ、最終的には責任能力有として裁判が行われ、死刑判決がなされ死刑執行されています。それでもなお、今もあの事件は終わっていないのではないかと思う人がいるのです。
人肉を食べた
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誘拐・殺人した女児(4歳)の遺体を焼きその遺骨の一部を食べたり、別の女児(5歳)では遺体をバラバラにして両手首と足首を焼いて、そのうち両手首を食べ、血を飲んだと裁判で証言しています。
しかし第一次精神鑑定では、自ら「両手を食べ、血を飲んだ」と供述したことに対して鑑定人から「自分で協調するのはおかしい、臭くて不潔で汚いと言っていたではないか」と指摘されると「でもインパクトは強い」と答えており、社会にインパクトを与え精神的におかしいと印象づけようとしたのではないだろうか。
しかし第一次精神鑑定では、自ら「両手を食べ、血を飲んだ」と供述したことに対して鑑定人から「自分で協調するのはおかしい、臭くて不潔で汚いと言っていたではないか」と指摘されると「でもインパクトは強い」と答えており、社会にインパクトを与え精神的におかしいと印象づけようとしたのではないだろうか。
祖父を蘇生する為の儀式
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祖父が亡くなったことで、精神をおかしくしたのではないかと言われている宮崎勤。火葬場で下に落ちた祖父の骨を拾い持ち帰り、自分の部屋で食べたと証言しています。また何回か、祖父のお墓へ行き、墓石をずらして骨を取り出し食べたとも話しています。
それは、祖父を蘇らせるための儀式であり、全部食べる予定だったが逮捕により出来なくなりました。拘置所に差し入れ可能だったら「全部食べます」と法廷でも語っています。少女の骨を食べたとされることについても祖父を蘇らせるための儀式だと認めています。
それは、祖父を蘇らせるための儀式であり、全部食べる予定だったが逮捕により出来なくなりました。拘置所に差し入れ可能だったら「全部食べます」と法廷でも語っています。少女の骨を食べたとされることについても祖父を蘇らせるための儀式だと認めています。
ネズミ人間が現れた
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どの事件でも、同じ風体で同じでかさ、だいたい10人ぐらいで同じ人数、全身がネズミ色で皮膚なのかタイツなのかわからないけど、顔がネズミで木の陰から出てきたというような表現をしています。
ネズミ人間がやったことで、自分は何もしていない。気づくと自分が地面に倒れていたような気がすると言い、「ネズミ人間の話は警察でも取り調べの早い時期から言っていたが取り合ってくれなかった」と語っています。あくまでもネズミ人間が起こしたことだと言い、反省の弁を述べることはありませんでした。
ネズミ人間がやったことで、自分は何もしていない。気づくと自分が地面に倒れていたような気がすると言い、「ネズミ人間の話は警察でも取り調べの早い時期から言っていたが取り合ってくれなかった」と語っています。あくまでもネズミ人間が起こしたことだと言い、反省の弁を述べることはありませんでした。
東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の報道
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