2019年9月29日 更新

宮崎崎勤事件の概要や真相は?宮崎勤事件の生い立ちや事件のその後も

20世紀最大の凶悪犯で、世間を賑わした小児愛凶悪殺人事件である宮崎勤事件をご存知でしょうか。昭和から平成にかけて幼女を誘拐殺人を繰り返した宮崎勤、その事件の概要や真相、宮崎勤の生い立ちや事件のその後について説明していきます。

目次

宮﨑は両親のほかに姉妹二人がいたが、彼らに対して「お前たちも死ね」「殺してやる」という旨の嫌がらせの手紙が殺到したと言います。そして長女は勤めていた会社を辞め、すでに結婚間近だったが自ら婚約を破棄しました。

長女は何も悪いことはしていませんが、兄が事件を起こしたということは長女に対しても、世間は厳しい目を向け家族さえ犯罪者扱いされてしまうのです。仕事も結婚の話も自ら辞めたと言えど、辞めざるを得なかったというのは正解ではないだろうか。

父親の弟

Parents Generations Family - Free photo on Pixabay (670597)

父親には2人の弟がいますが、下の弟には娘が2人いました。宮﨑姓を名乗ることの影響を考え、苦渋の決断の末に「巻き込むわけにいかないから」と妻を説得して離婚、娘たちは妻に引き取らせたと言います。

両親が責められるのは100歩譲って理解出来なくはないですが、親戚までもが白い目で見られ生活しづらくなってしまうのは少し厳しい社会という印象が否めません。しかし当時は、親戚であっても苦渋の決断を迫られる状況にあったと思うと心が痛みます。

母方の従兄弟

Cousins Brothers Family - Free photo on Pixabay (670598)

母親の兄には2人の息子がいました。1人は警察官、もう1人は高校教師でしたが、退職しています。信用第一である警察官や教師という職業に就いていた2人は、退職せざるを得なかったのかもしれません。

親戚が事件を起こしたというのは、今の時代であれば他人や世間が知ることは少ないと言えます。しかし当時の社会では、個人情報というのは世間に知られてしまうものであり、親戚だということだけで職を奪われてしまう時代だったのです。

宮崎勤の残した最期の言葉

Say Goodbye Old Man - Free photo on Pixabay (670599)

日本の連続殺人犯で、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(警察庁広域重要指定第117号事件)の容疑者として逮捕・起訴され、死刑判決が確定し、刑死した人物である宮崎勤。絞首刑に対する恐怖を訴えており、アメリカで行われるような薬殺刑を希望しており、死に対しては恐怖があったようですが、反省の弁を述べることはありませんでした。

死刑の執行の際は、宮崎勤は冷静に執行を受け入れたと言われており、彼が残した最期の言葉とはいったい何だったのでしょうか。

「あのビデオまだ途中なのに・・・」

Demonstration Projector Movie - Free image on Pixabay (670600)

死刑の執行の際は、宮崎は冷静に執行を受け入れたと言われています。ネット上では宮崎の発した最期の言葉は、「あのビデオまだ途中なのに…」だったと言われています。もし、これが事実だとしたら、どこか現実感のない「死」という重い事実に実感が湧いていないと言う印象が強いです。

宮崎が冷静に死を受け入れたというよりも、取り乱したり暴れたりしなかっただけで、本人の言葉を借りるならば、最後まで、「夢の中」だったのかも知れませんね。

「あほかと思う。あの裁判官は後から泣くことになる」

Justice Right Case-Law - Free image on Pixabay (670601)

その後控訴しましたが、2001年6月28日に東京高等裁判所でも控訴棄却され、一審判決の死刑を支持。弁護側は、宮崎が東京拘置所で幻聴を訴え、継続的に投薬を受けていることなどを挙げ、高裁に差し戻して再鑑定するよう求め上告したそうですが、2006年1月17日に最高裁は、弁護側の上告を棄却し、死刑が確定しました。

この自身の死刑確定について宮崎は著書の中で「あほかと思う。あの裁判官は後から泣くことになる」と述べており、面会に訪れた人物にも「あの判決は何かの間違い」と話していたと言います。自分の犯した事件に対しての反省はありませんでした。

死刑確定後の宮崎勤の様子

Freedom Will Prison Barbed - Free photo on Pixabay (670602)

1988年から1989年にかけて、日本中を震撼させた東京・埼玉幼女連続誘拐殺人事件。東京地裁は1997年4月14日に宮崎勤被告に対して、「死刑判決」を言い渡しました。判決冒頭いきなり「被告人を死刑に処する」という主文が読み上げられるという異例なものでした。

死刑判決を宣告された後、宮崎勤被告がその後の朗読を、いったいどんな心境で聞いていたのでしょうか。そして「死刑」という重い判決については、どんな思いで受け止めたのでしょうか。

人権侵害を訴える

Police Violence Thinking Man - Free photo on Pixabay (670603)

日本の現行の死刑方法における批判が書かれており、2006年には「踏み板がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである」と絞首刑を批判、薬物注射による死刑導入を訴えていました。

2007年の書簡には「この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、『私は刑執行時は死の恐怖とたたかわねばならなくなるから、反省や謝罪のことなど全く考えられなくなる』」とも記しており、人権侵害だと批判することが多かったといいます。

報道に対して「自分はやはり人気者だ」

Broadcast Tv Camera - Free photo on Pixabay (670604)

一審判決を聞いた時のことを、宮崎勤は「裁判とかいったもの自体に関心がない」と話しています。自分が犯した罪についての裁判の結果に対して「関心がない」というのは、冷静なのか感情がないのかわかりません。

また自身の最高裁判決が大きく報道されたことを「やっぱり私は人気者だ」と語っていたといいます。また宮崎勤が書いた本に出版の動機として「もっともっと有名になりたい」という気持ちがあると記しており、罪の重さよりも報道されたことで有名になったことのほうが大事だったのではないかという疑問がわいてきます。

被害者遺族に対して「良いことができて良かった」

Woman Train Zugabteil - Free photo on Pixabay (670605)

面会に訪れた人物にも「あの判決は何かの間違い」と話していたり、殺害した被害者や遺族に対しての思いについて問われた宮崎勤は、「特にない。いいことができてよかったと思う」と答えています。

罪を逃れようと取り調べで嘘を平気でついていたという話もあり、自分の犯した罪の重さを理解していなかったのではないだろうか。自分のしたことが、被害者にも被害者家族にも、そして自分自身の家族を苦しめることのなった自覚を持つことはなく、反省もしなかったというのがわかる宮崎勤の言葉です。

連続幼女誘拐殺人事件には5人目の犠牲者が居た?

Police Cop Uniforms - Free photo on Pixabay (670607)

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