2019年9月29日 更新

宮崎崎勤事件の概要や真相は?宮崎勤事件の生い立ちや事件のその後も

20世紀最大の凶悪犯で、世間を賑わした小児愛凶悪殺人事件である宮崎勤事件をご存知でしょうか。昭和から平成にかけて幼女を誘拐殺人を繰り返した宮崎勤、その事件の概要や真相、宮崎勤の生い立ちや事件のその後について説明していきます。

目次

宮崎勤は、当時の大臣であった鳩山邦夫法務大臣が死刑執行命令書に署名して、2008年6月17日午前に東京拘置所で死刑は執行されました。死刑執行後、母親は遺体と対面しましたが引き取りは拒否し、拘置所に処置をお願いして去っていきました。

大事な息子ではあったでしょうが、事件前には家族への暴力も起こしており、事件後は家族・親戚に対し非難は相当なものだったので、そういうことを考えると引き取るという気持ちは芽生えなかったのかもしれません。

アニメが偏見を受ける世の中に

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宮崎勤がいわゆる、「おたく・ロリコン・ホラーマニア」として報道されたことから、同様の趣味を持つ者に対して強い偏見が生じました。宮崎勤が殺害後の幼女をビデオカメラで撮影し、膨大なコレクションのビデオテープの中に隠し持っていたことが誤解を生む結果となったのです。

現実と空想・妄想と犯罪行為の境界が曖昧で、明確な規範意識の欠落が犯罪に及んだとされ、これが「おたく」だと誤解され、「オタク=異常性を持つもの」という偏見が世間に広がっていきました。

犯人・宮崎勤の生い立ち

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日本を震撼させた東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件。犯人である宮崎勤は暴行し殺害した幼女の遺骨を遺族の自宅へ送りつけ、新聞社に対しては、犯行声明を送りつけるなどして4人の幼女を無残に殺害するという事件を起こしました。

現在の言葉でいえばサイコパスと表現されるのかもしれませんが、そんな一言で片付けられない凶悪犯罪者である宮崎勤とは、いったいどんな生い立ちなのでしょうか。宮崎勉の人となりを紹介していきたいと思います。

東京都の新聞会社経営の長男として誕生

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1962年8月21日に、「秋川新聞」という新聞会社経営の長男として誕生しました。吸引分娩による未熟児で、虚弱体質だったといいます。曾祖父が村会議員、祖父が町会議員を務め、父親もPTA会長や地元消防団の副団長を引き受けるなど、五日市町の名士であり、経済的にも裕福な一家として知られていました。

祖父が印刷会社の広告を集め、祖母は集金、父親は印刷業と新聞の取材や編集をかけ持つなど仕事の鬼を自称しており、母親は火事と畑仕事の合間に印刷工場を手伝うなど、一家総出での仕事が続いていたと言います。

幼少時代は祖父・子守で雇われた男に育てられる

Brothers Family Siblings - Free photo on Pixabay (670577)

家族経営で秋川新聞社を両親は営み、さらに不仲だったと言います。30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れており、幼少期は祖父や子守の男が面倒を見ていたといいます。

宮崎勤にとって祖父は優しい存在であり、スクーターの後ろに乗ったり、あちこち連れて行ってくれる人でした。子守の男は知的障害があったようで、「工場で本を読み聞かせたことがある。世話をしてもらったり、一緒に遊んだ」と宮崎勤は語っています。

両側先天性橈尺骨癒合症を患う

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5歳の頃に手がおかしいことに気づいた両親は病院へ連れていき、「両側先天性橈尺骨癒合症」と診断されました。手のひらを上に向けて「ちょうだい」の仕草ができません。本人は悩んでいたようですが、医師から「日常生活に支障はない」と言われ両親は悩んでいることを知らなかったと言います。

幼稚園でのお遊戯も手の不自由さから上手く踊れず、おつりも貰えない。壁に手を押し付け直そうとしたこともあるなど、両親は気づかない間、本人は悩みながら成長していきます。

小学生時代は成績優秀の怪獣博士

Iron Man Super Hero Toys - Free photo on Pixabay (670579)

小学校時代は、クラスメートから「怪獣博士」と呼ばれるほど、特撮ヒーローもののテレビ番組に熱中し、怪獣カードや怪獣の模型を欲しがるままに両親から買ってもらっていたそうです。その反面、いじめられたり奇形児扱いされるのが嫌で、手の不自由が人に分からないように行動していたとも語っています。

成績は上位で算数が得意と語り、宮崎の母は「うちの子は英語が得意なの」と自慢するなど英数の成績は良かったが、国語と社会科を苦手としていたと言います。

中学生時代は陸上部・将棋部に所属

Athletic Field Ground Lane - Free photo on Pixabay (670580)

中学生時代は1、2年生のときは陸上部、3年生のときは将棋部に所属し、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読んで負けた相手には必ず勝つまで勝利に執着したと言います。通信教育で空手を習い、空手の型を同級生に見せることもあったそうです。

手の不自由さは嫌で仕方なかったそうです。異性に対しては、「うざったい・怖い・わずらわしい」といった思いがあったと語っており、また両親の不仲に対しても、喧嘩がうるさかったと語っています。

明治大学付属中野高等学校へ進学

Street People Children - Free photo on Pixabay (670581)

人間の種類が1種類で済むからと宮崎勤は表現しましたが、父親が選んだ明治大学付属中野高等学校へ進学します。通学中の電車では手のことが気になったと言います。

また学校では、胸倉をつかまれたり、二階から落っことされそうになったり、突き飛ばされたりと「いじめ」にあっていたと言います。勉強も、段々できなくなり、心配になった父親が教育機器を購入したが手をつけなかったとも語っています。両親との会話はなく、両親の喧嘩も続いていたと言います。

東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学

Camera Old Retro - Free photo on Pixabay (670583)

高校卒業後、父親が探してきたという東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学しました。その頃も、手の不自由さがばれないようにと食堂を使用することはなかったと言います。

短大時代に出会った友人と、大学後半から一緒にパンチラ写真を撮るようになったと言います。知人との付き合いの中で、流行っているものを撮って、流行っているものの分量を増やしていったようです。成人式のときには親戚のところへ挨拶周りをしたそうですが、自分は回されているという思いでしかなかったそうです。

印刷会社に就職するが退職

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