2019年9月29日 更新

宮崎崎勤事件の概要や真相は?宮崎勤事件の生い立ちや事件のその後も

20世紀最大の凶悪犯で、世間を賑わした小児愛凶悪殺人事件である宮崎勤事件をご存知でしょうか。昭和から平成にかけて幼女を誘拐殺人を繰り返した宮崎勤、その事件の概要や真相、宮崎勤の生い立ちや事件のその後について説明していきます。

目次

短大卒業後、家業を継ぐための見習い修行として、従業員が約600人という大規模な印刷会社に就職しますが、ここの得意先である広告会社の役員を務めていた父親の長弟(勤の叔父)にコネ入社を頼んだものでした。印刷機オペレーターとして勤務していましたが、無気力で怠慢な勤務態度だったと言います。

そして営業部異動の内示が出た際には社内から「宮崎に外回りをさせては顧客の信用を失う」といった声が続出し、社長から叔父へ「解雇するのは̚カドが立つ」と依願退職させるよう申し入れ退職となりました。

アニメの同人誌を発行する

Fantasy Fairy Tale Girl - Free image on Pixabay (670585)

勤めていた印刷会社の上司から神奈川県への転勤を勧められたが、本人が拒否したため自己都合退職をしました。その後は家業を手伝うよう両親が何度か声をかけたそうですが、自室にこもる生活が数か月続いたと言います。

その後、家業を手伝い始めますが、仕事広告原稿を受け取りにいく程度の簡単な手伝いであったようです。この頃にアニメの同人誌を発行しますが、態度や言動から仲間に嫌われ、1回だけの発行で終わっています。

ビデオサークルに加入していた

Film Photo Slides - Free image on Pixabay (670586)

同人誌を1回発行しただけで終わりましたが、その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したテレビアニメや特撮番組のビデオを複製し交換・収集するようになりますが、持つだけで満足してしまい、テープのほとんどは自ら鑑賞することはなかったといいます。

ビデオサークルでは、ほかの会員に無理な録画やダビング注文をするため、ここでも仲間から嫌われていたと言います。人とうまく付き合うことが出来ない人だったと言えます。

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の動機

Detective Crime Scene Dagger - Free photo on Pixabay (670587)

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件と呼ばれた事件は、当時、テレビや新聞・雑誌など各メディアは連日、報道合戦を繰り広げていました。しかし捜査は難航し、幼い子供を持つ親は恐怖の日々を過ごしていました。

そんな中、一人の男が八王子市内で強制猥褻の疑いで現行犯逮捕され、その男が連続幼女殺人事件の犯人だったことで、世間の注目を浴びました。この事件を起こした動機というのは、いったいどんなものだったのでしょうか。

本人の証言

Thought Idea Innovation - Free photo on Pixabay (670589)

醒めない夢の中のようだと宮崎勤は言っていますが、事件について何も感じるところはなく、どの事件も漠然としか認識しておらず、殺している状況は記憶にないのです。子供を絞殺したという認識はなく、車の中に倒れていたという表現をしています。

ビデオを撮ったり写真に撮ったりするのも命令されてやっていただけ。おじいさんに捧げると言う気持ちもあったと語っています。絞殺した後に性器をいじったことに対しては、もう一人の自分の姿をしたやつがやったと多重人格であるような証言をしています。

鑑定人の判断

Gavel Auction Law - Free photo on Pixabay (670590)

4番目の事件の逮捕から約週間後の1989年8月24日に、簡易精神鑑定を受けています。その結果「精神分裂病の可能性は全く否定は出来ないが、現在の段階では人格障害の範囲と思われる」と診断を受け、検察は起訴に踏み切りました。

公判中の宮崎勤の言動によって、責任能力の有無が争点となり、2度の精神鑑定が行われ、「犯行時に物事の良し悪しを判断し、その判断に従って行動する能力は保たれていた」「心身薄弱の精神状態にあった」「免責される部分は少ないが、心身耗弱状態にあった」という診断結果が異なる3つの鑑定書が出されました。

宮崎勤家族と事件のその後

Father Daughter Beach - Free photo on Pixabay (670591)

世間を震撼させた「異常性」が際立つ幼児連続誘拐殺人事件を起こした宮崎勤。反省の弁を聞くことはありませんでした。その事件を起こした宮崎勤の家族に対しても世間は加害者と同様であるような厳しい目を向けることになります。

宮崎勤の逮捕直後から、実家には誹謗中傷や脅迫めいた手紙、はがきなどが大量に送りつけられたと言います。精神的に追い詰められていく家族の生活は、事件後どんな生活を強いられることになったのでしょうか。

父親

The Father Of Child Love Lake - Free photo on Pixabay (670593)

宮崎勤事件の後、1994年11月に父親は多摩川の橋の上から身を投げて帰らぬ人となりました。遺書には、「疲れた、ゆっくり眠りたい」などと書かれていました。事件後、加害者家族には心休まる時はなく、精神的に追い詰められ家族は崩壊という事態になったのです。

宮崎勤は1988年頃から親は偽物だと思っており、自分の起こした事件をきっかけに自殺した父親について、自殺を知らされた際に「胸がスーっとした」と述べており、家族としての思いというのは一切なかったのではないでしょうか。

母親

Speaker Child Pregnancy - Free photo on Pixabay (670594)

世間は、「犯罪者の家族もまた犯罪者」とみなすため、宮崎勤の家族や親族も悲惨な末路を辿っています。このように社会的な圧力が、宮崎勤の家族、一族を襲い、住めなくなったことから1年後に引越しをしています。

母親は、死刑執行後の宮崎勤の姿を見た後、引き取りは拒否をし、遺体の処理を任せ帰っていったと言います。息子の遺体の引き取りを拒否した母親の心情はどんなものだったのでしょうか。大事な息子に変わりはないけれど、世間を震撼させた事件を起こした息子を、息子とは思えない気持ちもあったのかもしれません。

叔父

Youtuber Blogger Screenwriter - Free photo on Pixabay (670595)

宮崎勤に、東京都小平市にあった大規模な印刷会社への就職を斡旋した叔父は、5つの会社の役員をしていました。しかし事件後にすべて辞任し、持っていた会社を妻の名義に変更したと言います。

事件により犯人の身内であるということで、世間から厳しい目を向けられることになりました。今の時代よりも個人情報に対して緩いものであった時代なので、加熱していく報道合戦の犠牲者とも言えるものかもしれません。身内が犯した事件により、人生を壊されてしまったのです。

長女

Siblings Friends Brother - Free photo on Pixabay (670596)

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