2019年10月3日 更新

山一抗争とは?山一抗争の当事者達やモデルにしている映画についても

暴対法が施行されてから、暴力団の話を耳にすることが滅多になくなりました。バブル経済真っ最中で映画にもされたほど、日本中を震撼させ国民をも巻き込んだ『山一抗争』は、日本最大の暴力団組織による四代目跡目争いが発端でした。山一抗争の功労者とは?ヒットマンって?

目次

『山一抗争』は、約30名の組員しかいなかった『山口組』を日本最大の暴力団組織に仕上げた、三代目組長『田岡一雄』が病期で亡くなってから、次の組長として『組長代行』に決まっていた幹部を差し置いて、三代目の妻が異例の抜擢で四代目を決めたことで起こった抗争でした。

ヤクザは「筋道」や「プライド」を重要視することから、不信感・軋轢が生まれ、争いになることは目に見えていましたが、ここまで大きな組織になると、トップがいなくなることで組織が割れるのはむしろ自然なことでした。

1971年票数が上回っていたにも関わらず山本広は若頭になれず遺恨を残す

Handgun Firearms Pistol - Free photo on Pixabay (670100)

1971年7月25日、山口組若頭『梶原清晴』が、鹿児島県硫黄島で、磯釣りの最中に高波にさらわれて溺死しました。翌日、関西労災病院に入院していた『田岡一雄』組長は、梶原清晴の溺死を知らされました。

若頭補佐の『山本健一』『山本広』『菅谷政雄』『小田秀臣』『小田芳一』『中西一男』全員の互選で若頭を選ぶことを決定し、田岡一雄も了承していました。山本広は『菅谷政雄』票集めの根回しを依頼し、菅谷は他の若頭補佐に「山本広を若頭に推すように」根回しました。

8月、6人の若頭補佐により互選の会議が開かれ、山本広4票、山本健一2票で、山本広が若頭に内定していましたが、田岡の指名により『山本健一』が若頭補佐に就任していたのです。

1977年組長暗殺の責任により絶縁処分を受けるも菅谷は受け入れず

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山本広が若頭に内定していましたが、田岡の指名により『山本健一』が若頭補佐に就任したことを周囲に吹聴したこととで、山本健一との関係は疎遠になっていきました。

さらに、菅谷組舎弟の川内組組長『川内弘』の山口組直参昇格を巡り内部抗争を起こし、1977年4月13日、菅谷の命を受けた襲撃部隊が川内を射殺。この事件を重要視した山口組執行部は、菅谷を絶縁処分しました。

山口組に絶縁された後も『菅谷組』は解散せずに独自に存続しましたが次第に離散。菅谷が、1978~1981年服役し出所した際に組の解散を知らされました。

1981年山本広は菅谷の説得に当たるも成功せず

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1977年、通称ボンノ『菅谷政雄』若頭補佐が、菅谷組から独立し、山口組の二次団体昇格を画策した川内組組長『川内弘』を暗殺した責任を取らされ絶縁処分を受ける事件が発生しましたが、『菅谷政雄』は引退を拒否し『菅谷組』は解散せずに独自に存続。

1981年、『山本広』が説得に当たりましたが成功せず、次に『山本健一』が説得に当たり、次に『竹中正久』が事態の収拾に当たりました。『菅谷政雄』は、癌にかかり余命いくばくもない状態になり、舎弟らの説得で組を解散し、田岡組長に「長いこと親不孝しました」と詫びを入れて引退を発表しました。

事態を収拾させた竹中正久は山本広の態度に不信感や憎悪を感じる

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菅谷組から独立し、山口組の二次団体昇格を画策した、通称ボンノ『菅谷政雄』若頭補佐の舎弟で川内組組長『川内弘』を暗殺した責任を取らされ絶縁処分を受けた通称ボンノ『菅谷政雄』若頭補佐に「組を解散させて、ヤクザを引退させる」ように、まず『山本広』が説得に当たりました。

しかし、通称ボンノ『菅谷政雄』若頭補佐に優柔不断な態度を取った『山本広』に対し、田岡組長のお気に入りの『山本健一』のお気に入りで武闘派の『竹中正久』は強烈な不信感と嫌悪感を持ちました。

1981年7月田岡一雄死亡

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1981年7月23日、山口組を日本最大の暴力団組織にした三代目組長『田岡一雄』が、急性心不全により68歳で死去しました。

田岡組長は、甲陽運輸社長、芸能事務所・神戸芸能社社長、日本プロレス協会副会長でしたが、タレントを抱えた芸能事務所ではなく、興行の取り仕切りを行っていましたから、戦後から昭和40年代頃までの芸能界のトップスター達、美空ひばり高倉健・小林旭・鶴田浩二らと親交が深かったのです。

葬儀の生花には、当時のテレビや映画スターの名前がズラッと並びました。

急死に近く遺書や遺言が残されなかった

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日本最大の暴力団組織山口組三代目『田岡一雄』組長は、元来から健康に不安を抱えていましたが、比較的小康状態を保っていたため急性心不全による急死で、遺言を残すことができなかったようです。

ほとんどの周辺の人物にとっても、田岡組長の急死は「晴天の霹靂」でしたが、若頭『山本健一』の存在が大きかったため、跡目相続について問題が起きることを予想していませんでした。

しかし、田岡組長が急死した当時、山本健一は収監されていたため、正式な後継者決定は避けられ、集団指導体制のまま組織は運営されていたのです。

1982年2月四代目山口組組長候補であった山本健一の死亡

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日本最大の暴力団組織山口組三代目組長『田岡一雄』が急性心不全から急死してから、半年後の1982年2月4日、なんと!田岡組長の一番のお気に入りであり、次期組長だと思われていた『山本健一』も、後を追うように肝硬変と腎不全を併発して、大阪府大阪市生野区の今里胃腸病院で亡くなってしまいました。

そうして、日本最大の暴力団組織に『組長』『若頭』が不在という異常事態になってしまったのです。山口組内部で「四代目山口組組長を誰にするのか?」という問題が緊急発生しました。

1982年6月山本広が山口組組長代行に就任

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後継の組長の人選をめぐり、山口組内は大揉します。田岡組長の葬儀を済ませた後、妻『田岡文子』は、山本広に山口組「若頭就任」を要請しますが、山本広は「組長代行」の就任を希望し就任。

三代目山口組若頭補佐兼本部長で小田秀組組長『小田秀臣』は、豪友会会長『中山勝正』を四代目に推しましたが断わられ、以降『山本広』を推しました。田岡文子は『竹中正久』に若頭就任を要請しましたが、竹中は辞退して中山を推薦しました。しかし、他の直系組長が中山の若頭就任に反対したのです。

田岡文子は、竹中に若頭就任を再要請し、承諾を取り付けました。しかし、溝橋組組長『溝橋正夫』が「組長代行だけが必要で、若頭は必要はない」と主張し、竹中は若頭就任を止め幹部会への出席をも拒否。山本広が竹中に電話で説得するものの拒否されました。

「三代目」の代行なのか「四代目」への暫定措置なのか曖昧であった

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1982年6月5日、山本広は組長代行に就任しました。しかし、山本広の組長代行という役職は「三代目の代行であるのか?」「四代目に向けた暫定措置なのか?」が曖昧でした。

もし「四代目に向けた暫定措置」であるなら、山本広は当然「日本最大の暴力団組織」山口組の後継者になります。しかし「三代目の代行」であるなら、次期若頭が後継者となるのが筋です。

役職の意味が変わることで、山本広自身を含め、山口組内での統率に大きな亀裂を生むことになるからです。

山口組内に亀裂が生まれ始める

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